2021年11月29日月曜日

天人相関説と気象学(1)中国での 天人相関説

中国で始まった天人相関説は、政治を含めて当時の人々に大きな影響を与えた。そのことは「古代中国での気象学(1)初期の考え方」や「古代中国での気象学(2)天人相関思想」で簡単に説明した。しかしそれだけではなく、天人相関説は日本にも伝わって今でも日本人の生活に影響を及ぼしている。

古代から中世にかけての中国や日本の思想史に関する書物は数多くあり、ここで改めてそれらの思想を網羅するつもりはない。しかし、当時の気象災害などに対する考え方は当時の思想とも強く結びついており、上記の「古代中国での気象学(1)・(2)」と一部重複するかもしれないが、気象災害や天文現象が天人相関説などと結びつけられてどう捉えられていたのかを見てみたい。

なお、天人相関説では上記ブログで説明したように、天と地上(人間界)が双方向で影響し合う。しかし「アリストテレスの二元的宇宙像」でも述べたように、西洋の古代ギリシャ自然哲学では、人間を含む地上界は天上界に影響を及ぼすことはない。その後のキリスト教では、自然災害は人間の行為に対する神による罰や試練と捉えられることがあった。その場合は神が自然をそのように操作しているのであって、神と自然は別物であった。東洋では自然神という言葉があるように、影響を及ぼす主体である天は自然は明確には分けられず、渾然としているようである。

1 漢時代より前の災害に対する考え方

1.1 古代

人類が農耕生活を始めるようになって以来、農業生産をはじめとして人間の生活は天候状態に左右されることが極めて大きくなった。古代中国では天文の動きから天候の推移を予測しようとした。そしてそれは天文を利用した占いへと発展した。経書の一つ「周易」は、天文観測の結果にもとづいて今後の吉凶を説いた占いの書である [1]。当時の異常気象による不作は即飢饉へとつながったので、これから雨が降るかどうかというようなことは、当時の人々にとって極めて重要な問題だった。そのため、洪水や干ばつの予測のためにさまざまな自然現象に基づいた占いによる天候予測が試みられた。天候予測は収穫の豊凶占いでもあった [2]。

また、古代中国の音楽は12の音階で出来ていた。この音階は律管という竹でできた楽器が出す音律(音色)に基づいており、この12律が定まるのは天地の風気が正しい時のことと考えられていた。そのため、この音色で天気や気候を占ったり確かめたりすることも行われた(律管候気) [2]。また、この音律の数と暦が融合して24節ができたという説もある。

古代の気象占いは動物の骨や亀の甲羅に碑文の形で残っている。 多くの場合、これらの碑文は雨がたくさん降るかどうかなどが神への質問の形になっている [3]。日本でも古くから太占(ふとまた)と呼ばれた鹿の骨を使った占いや亀卜(きぼく)と呼ばれる亀の甲を使った占いが行われ、遺跡からその跡も見つかっている [4]。

1.2 殷・周時代

古代中国では「天」は意思を持ち、その子である「帝」は神として、雨を降らことも干ばつを起こして飢饉をもたらすこともでき、自然と人事にたいして絶対的な権力を持っていた [4]。その古代中国の王朝「」で信仰されていた帝は、自然神の一つでありながら別格の存在であり、殷の王はその直系の子孫であるとされた [4]。

前1027年に殷を滅ぼした「」王朝は、帝に代わって「天」を信奉した [4]。周では殷の王権(帝位)を奪ったことを正当化するために、殷の滅亡を天によって下された命とした。そして、天は徳のない統治者から位を奪い、有徳者に位を与えて統治者とすることを唱えた。これが天命説となった [4]  [5]。つまり、天は自然の万物、万象の絶対的支配者であり、天は人間の世界から誰かを自分の「子」として選び、その子が「天子」として人間世界を支配するということである。そしてその天からの支配権の委譲が「天命」と考えられた。

しかし天は直接には語らない。そのため、洪水や干ばつなどの天変地異は、天が地上における有徳の政治が失われた状態を見てそれらを引き起こしたと考えられた [4]。つまり天命とは、天命を受けた者は統治者となるが、その統治者に倫理的・政治的な過失があれば、天は災異によって警告する。統治者がそれを改めなければ天は最終的に統治者の命を奪って滅亡させ、別な有徳者に天命を授けて次の統治者となすというものだった [5]。これは「易姓革命」とも呼ばれている [6]。

また周王朝の「周礼」では、当時既に自然現象に基づいた占いが行われたとされている。日食、月食、五惑星(木星・火星・土星・金星・水星)の会合などの天文現象から吉凶を占うだけでなく、気象(雲や風や虹、太陽の周囲に現れる暈)からも水害や干ばつなどを予測し、諸国の農作物の豊穣・凶作を占うことが行われた [1]。

2 災異説

しかし、天は王朝の交替をも決定するという思想は諸刃の剣であり、「天命」は徳ある者に政権を付与する一方で、徳を失った統治者からは政権を奪うことも正当化した。天は、統治者の権力の根拠であると同時に、それを制限する根拠ともなった [4]。例えば中国においては治水によって河川の氾濫による被害を防ぐことが統治者の大きな課題だった。そのため、後漢時代の辞書である「説文解字」によると「政治」という言葉は「正しい治水」から来ているとも言われている [1]。このため、洪水の発生は統治者が民を正しく治めることができなかった証拠とも見なされた。そのため天変地異が発生すると、それは正しい政治が失われたためと解釈された。この考えは「災異説」となっていった。 

上記の災異説の一つの典型的な考え方は、統治者が立派な徳を身につけて正しい政治を行えば、天はその徳を感じて雨、陽光、暖、寒、風という天の恵みを地上にもたらす。逆に統治者の徳を失って悪政を行うと、天は長雨や干ばつ、あるいは冷夏や暖冬などの天候不順、地震や水害・虫害・疫病などの災害異変を起こすというものである [1]。災異説は儒教に取り入れられたため広く流布し、後述するように前漢の董仲舒によって政治へと反映されていくことになる。

3 陰陽説

古代中国で広く信じられていた自然観は陰陽説である。これはいろんな物を陰と陽に分類し、両者の生成消滅のバランスで世界が成り立っているという考え方である。陽を代表するものには天、男、太陽などが挙げられ、陰を代表するものには地・女・月などが挙げられる。両者は対等で物事の裏表であり、優劣があるわけではなく、またどちらかだけでは世界は成り立たない。四季の循環もその陰陽説で生まれるとされており、草木は陽気の兆す春に芽吹き、陽気の最も盛んな夏に生育し、陰気と陽気とが交わる秋になると実を結び、陽気が衰えて陰気が満ちる冬に枯死する。そして、それらは絶えず繰り返されると考えられた [1]。

これに、中国戦国時代の思想家だった鄒衍が、世界は木、火、土、金、水の五つの要素から構成されるという五行説を加えて、「陰陽五行説」が完成した。この考え方は儒教に大きな影響を与えた。

陰陽説を表す太極図

4 漢時代前後の災害に対する考え方

天人相関説は災異説、陰陽五行説などと融合して儒教の一部となり、その儒教は当時の政府に取り入れられ、いわば「国教」となった。当時の天人相関説に関する代表的な書物や人物の考え方を紹介する。

4.1 呂氏春秋

呂氏春秋」は、秦の丞相であった呂不韋(? ~紀元前235年)が編纂して紀元前239年に完成したとされている。これは各季節をさらに「孟」、「仲」、「季」の順に3分してその気象や気候を記した12の「紀」からなっている。ただし夏至や冬至は真ん中の「仲夏紀」と「仲冬紀」に含まれており、現在の季節とは1か月程度ずれている。呂氏春秋によると、季節は陰陽五行説に基づいて陽気と陰気とが1年周期でその勢力が交代するために起こる。しかしその交代は因循的、規則的なものではなく、その時々の状況、特に夏至と冬至の頃の状況がその後の両者の勢力の度合いに影響して、続く冬や夏の動向が決まるというものであった。そしてその季節の状況には天人相関思想に基づいて人間の振る舞いも含まれていた [7]。そのため、統治者は季節の動向にも注意しなければならなかった。

4.2 淮南子

淮南子」は、高祖の孫で淮南王となった劉安(紀元前179年~紀元前122年)が、学者を集めて編纂させた思想書である。淮南子では、災異説に基づいて統治者は天に従わねばならない。それを怠ると天に異変が生ずるとし、人間の行動は天すなわち自然にも作用すると考えられた。天地自然と人間との間は、「気」を通して相互に作用することで、天は統治者が人々に対して正しい政治をしているかどうかを判断するとされた。

例えば、「淮南子」の「天文訓」では、

人主之情,上通於天,故誅暴則多飄風,枉法令則多蟲螟,殺不辜則國赤地,令不收則多淫雨.

(統治者の感情は天に届いているので、暴力的な罰は多くの風を引き起こし、無駄な法律は多くの昆虫の害を引き起こし、罪のない人々を殺すことは国の荒廃をもたらす。そしてそれらを受け入れなければ多くの雨が降ることになる。)としている。

しかし、淮南子では災異に関する説話を引用しているだけで災異説を論理的に細密に構築しているわけではない [8]。淮南子での考えは陰陽思想に基づいており、清陽と重濁の気、つまり陽と陰の気が上下に分離、凝縮して天と地が形成されたとしている。そして、雨、雷、雪などの気象も天と地の気に起因する。洪水や早魅も陰陽の気の生み出す現象とした [4]。また、人間は自然にも作用するとしたため、雨乞いの根拠にもなった。また、「淮南子」に既に二十四節気が記されていることは注目される。

4.3 董仲舒

前漢の儒学者、董仲舒(紀元前176年? ~紀元前104年?)は、統治者である皇帝の専制的権力を正当化するために、天人相関説という新しい統治のイデオロギーを提示した。その元となった考え方は災異説である。つまり、自然界の陰と陽とがバランスしているならば、雨は然るべき時に然るべく降り、風は然るべき時に然るべく吹く、その結果農作物は豊かに実る。ところが災害異変が発生して農作物に被害が出るのは、地上での悪政に天が鳴らした警鐘であるというものであった。つまり異常気象は政治を行う統治者に原因があるとするものである。

董仲舒は「春秋繁露」で次のように述べている。そもそも災害異変はことごとく国家の失政によって生ずるものである。国家に失政の兆しがあると、天は災害を起こしてその国に警告する(天譴)。天が譴告しているのに天の意を理解しようとしない場合、天は次に怪異を示してその国を威嚇する。それでも非を改めようとしなければ厳罰を下して国を滅ぼす[6]。

これは天は統治者の政治を監視して、統治者(とその側近)によって失政や悪政が起これば、天はそれを咎めて天変地異(天譴)を起こして、国家の存亡を警告するという政治理論となった。彼の天人相関説は、秦の始皇帝が苛烈な専制政治によって大勢の民を苦しめた後、わずか数十年で滅亡したことを踏まえて、統治者の権力が暴走することを防ぐためとも考えられている [1]。 

この天人相関説のため、統治者は天のもたらす自然現象にたえず注意して、天の意思にかなった政治に努めることが必要になった。そしてその天の意思をまず示すものは、彗星や新星などの天体の異常とされた。そのため、天体観測は統治者にとって重大事となった [4]。逆に彩雲などの気象は祥瑞とされ、善政を布いた統治者への称揚と考えられた。また董仲舒は、人間の気は天の気へ影響するため、人間の行為によって雨を降らせることも止めることも可能であると考えていた [4]。

4.4 天人相関説に基づいた漢時代の政治

前漢の時代は、董仲舒の災異説の影響を色濃く受けた政治が行われた。しかし、天の監視対象は統治者だけではなかった。漢の正史である「漢書」には

『人君』は『心』を正して『朝廷』を正し、『朝廷』を正して『百官』を正し、『百官』を正して『万民』を正し、『万民』を正して『四方』を正す。

とある [9]。つまり、君主は一人で政治を行うのではなく、有能な臣下を組織してその助けを得て政治を行うと考えられ、逆に言うと、天譴や災異は臣下の行動にも関連すると考えられるようになった。

前漢の武帝の時代に太史令となった司馬遷は「史記」の「天官書」に天の異常現象のもつ意味を詳細に記述した占星の記事を収めた [4]。そのため、漢時代以は天に異変が起こると、その意味を天官書に従って調べて報告したり、対処したりする役職が置かれた。つまり天の観測は行政の一部となった。

前漢の考え方は後漢にもひきつがれ、天についても董仲舒の思想が正統的な位置を維持した。しかし、その思想の核にあった災異説は、五行説と融合してより神秘性の強い考え方となっていった [4]。例えば、災異を木火土金水の五行の循環を用いて解釈し、自然と人間の未来を予言しようとするものなどである。それは一種の宿命占星術のようなもので、怪しいものも含めていろいろな形で広がっていった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] (編集)串田久治 (2020) 天変地異はどう語られてきたか. 東方書店.
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991)  『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.




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