2019年4月9日火曜日

ウィリアム・ダインス(5)高層気象学への貢献 (William Dines 5: Contribution to aerology)

19世紀半ばまで、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3) で述べたように、ジェームス・グレーシャーなどイギリスが高層気象観測を先導していた。19世紀末には、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)で見てきたように、ドーバー海峡を隔てたヨーロッパ大陸でも高層気象観測が盛んに行われるようになった。ところがウィリアム・ダインス(2)で述べたように、1879年のイギリスのテイ鉄道橋の大惨事によって、イギリス気象学は、その努力をそれまでの高層気象学ではなく、風力・風速の正確な測定努力へと向かわせた。そのため、19世紀末にはイギリスが主導する高層気象観測はほとんど行われなくなった。

その状況を変えたのが、ダインスだった。彼は19世紀末から20世紀初めのフランスやドイツの高層気象観測を見て、イギリスでも行うように当時のイギリス気象局長官ショー(Napia Shaw)に提案した。彼は1902年から凧を用いた高層気象観測を蒸気船などを用いて行うようになった。1906年からは自宅を人口密度の高いロンドン南西部のオクスショット(Oxshott)からロンドン西方のパートン(Pyrton)に移して、そこで観測を行った。さらに気球観測を行うようになるとパートンでは手狭になり、1913年には高層気象観測のために自宅を数キロメートル南西のベンソン(Benson)に移した。

ダインスのメテオログラフ
彼は得意の製図技術を用いて、自ら箱形の凧などの機器の開発や改善を行った。特に彼が開発した自記記録器は安価(欧州製の1/20)で(Cave, 1928)、小型軽量(60g)であり(Pike, 2005)、高頻度の高層気象観測に大きく貢献した。

それらの高層気象観測による結果から、低気圧域では対流圏内で低温であるが圏界面が低く、成層圏内では逆に高温となっていることなどがわかった。これは今日ではダインス補償(The Dines compensation)と呼ばれることがある。ところがこの結果から、本の8-2-5「異なる気流の接触という考え方の復活」で述べるように成層圏の暖気が地上の低気圧の動きを決定しているという考えが出てきた。これによってショーなどは、研究していた後の前線という考えにつながる気流の衝突という概念を断念したようである。このような紆余曲折は科学にはつきものである。

ウィリアム・ダインスは、1901~1902年に王立気象学会(Royal Meteorological Society)の会長を務めた。1905年には王立協会のメンバーに選ばれ、1914年にはサイモン金メダルを授与された。1905年から1922年までイギリス気象局の高層観測部門の責任者(Director of Experiments on the Upper Air for the Meteorological Office)を務めた。

ただし、彼は気象局から報酬を受けずに、活動は全てボランティアだった(Cave, 1928)。彼は最後のアマチュア気象学者の一人とも言われている。アマチュアというのは、彼の研究内容を指しているのではなく、気象学の研究を報酬をもらう職業として行った人ではなかったという意味である。彼は傑出した気象学者であった。

(このシリーズ終わり。次はヨーロッパでの竜巻研究についての補記
 

 参照文献

  • Cave-1928-MR. W. H. DINES, F.R.S., Nature, 121, 3037, 65-66
  • Pike-2005-William Henry Dines (1855-1927),Weather, 60, 308-315.

0 件のコメント:

コメントを投稿