20世紀初めの有名な気象学者ウェーゲナー(Alfred Wegener, 1880-1930)のヨーロッパの竜巻に関する調査に光を当てた論文[Antonescu et al., 2019]が出たので、それをもとにヨーロッパでの竜巻研究について補足しておきたい。気象学者ウェーゲナーについては、ケッペンについて2で述べたが、改めて紹介する。
彼はドイツの気象学者で北極圏の探検者でもあり(グリーンランドの探検中に遭難して亡くなった)、むしろ近年は大陸移動説(continental drift)を最初に唱えた人物として有名である。彼の専門は幅広く、その研究分野は気象学、地質学、地球物理学、古気候学、流星学にまで及ぶ。気象学もその中で雲物理、熱力学、大気成分の鉛直分布、大気光学の論文がある。さらに彼の竜巻に関する本(Wind- und Wasserhosen in Europa, ヨーロッパにおける竜巻)がこの論文[Antonescu et al., 2019]で紹介されている。
ウェーゲナーは、1906年からのデンマークによる北極探検隊に高層気象観測者として参加した。その際にグリーンランドのビスマルク岬(Cape Bismarck)から竜巻(watersprout)の集団発生を目撃して竜巻に興味を持ったようでである。ウェーゲナーはヨーロッパ各地の竜巻報告を収集して分析することにより、竜巻の気候学と一般的な性質の解明を行った。そして1917年に彼は上記の本を出版した。私は「気象学と気象予報の発達史」(以下、私の本)の中で、「ヨーロッパでは発達した低気圧による被害はあっても、ハリケーンや竜巻に直接襲われることは少ない。」と書いたが、不正確であったようである。ウェーゲナーは本の中で、ヨーロッパで毎年少なくとも100個の竜巻発生を推定している([Antonescu et al., 2016]によると2000-2014年のヨーロッパでの竜巻発生は平均すると毎年242個だそうである)。ヨーロッパの竜巻は決して少ないとはいえない。ここで訂正しておく。
ヨーロッパでの竜巻に関する最初の詳細な研究は、フランスの物理学者ペルチェ(Jean Peltier, 1785-1845)による。彼は異なる金属を接合して電流を流すと、接合点で熱の吸収・放出が起こる「ペルチェ効果」の発見者として知られており、この効果を使った機器は現在いろいろな所で使われている。ペルチェは1456年から1839年までの竜巻の報告を集めて研究し、1840年にこれを電気現象と結論した[Antonescu et al., 2019]。私の本の6-1-6 「アメリカ暴風雨論争」で述べたように、この頃、アメリカではペンシルベニア大学の化学の教授であるヘア(Robert Hare, 1781-1858)は、嵐の原因を電荷に対抗する電流が引き起こす現象と主張しており、大気現象に電気が関わっているという説は、特殊なものではなかった。
ちなみにペルチェが15世紀からの古い竜巻の記録を収集できたのは、私の本の2-2-3 「印刷技術などの発達とその影響」で書いたグーテンベルクによる活版印刷技術の発明(1445年頃)が関係していると思われる。読みやすい活字による本の大量印刷は、各地での知識の集積と保存を可能にし、図書館などを通した知識へのアクセスを劇的に改善することで、科学などの発達に大きく貢献した。ペルチエの研究の後、ドイツの数学者ライエ(Theodor Reye, 1838-1919)は、1872年に地表加熱が竜巻の原因と唱えたが、ウェーゲナーは、ペルチェとライエの説を否定し、竜巻はガストフロントの渦の一部(vortex filaments)であると主張した。
ウェーゲナーは第一次世界大戦に従軍しており、最初は歩兵として2度負傷した。1916年からは彼は気象士官となって西部戦線近くの軍の気象観測所で従軍した。戦況によって場所を移動しながらではあったが、気象観測所では落ち着いて調査と執筆が行えたようである。彼は上記の竜巻に関する本を1917年に出版した。
私の本の9-2-1 「ノルウェーの危機とビヤクネス」で書いたように、ノルウェーの気象学者ヴィルヘルム・ビヤクネス(Vilhelm Bjerknes, 1862-1951)は戦時の物資不足と多くの部下の戦死によりドイツでの天気予報の理論研究を断念し、ノルウェーに戻ってからは祖国の食糧危機を救うべく実践的な天気予報を開始した。9-3-2 「戦場下での数値計算」では、イギリスの気象学者リチャードソン(Lewis Fry Richardson, 1881-1953)は、やはり西部戦線で救急車を運転しながら、気象予測の数値計算を行ったことを書いた。リチャードソンは砲撃下の運転で戦後にストレス障害に悩まされた上に、イギリス気象局が軍の管轄に入ると、毒ガスへの利用を恐れて自身の気象研究を全て破棄した上で気象局を辞めた。戦争は当時の気象学者たちにも大きな影響を与えたのである。
なお、ケッペンについて2 で書いたように、ウェーゲナーは1925年にオーストリアのグラーツ大学の地球物理学と気象学の教授となったが、1930年に3度目のグリーンランド探検の途中で遭難し消息不明となったままである。
(次は「気象観測と時刻体系」)
参照文献
- Antonescu et al.-2019-100 YEARS LATER Reflecting on Alfred Wegener’s Contributions to Tornado Research in Europe, BAMS, DOI:10.1175/BAMS-D-17-0316.1
- Antonescu et al.-2016-Tornadoes in Europe: Synthesis of the observational datasets. Mon. Wea. Rev., 144, 2445.2480, https://doi.org/10.1175/MWR-D-15-0298.1.
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