2021年9月1日水曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(4)

 4 気候などを通した生活への影響

4.1 天候や気温への影響

本書の「3-3 学会の誕生と気象観測」に示したように、18世紀後半になると各地で測定器を用いた気象観測が行われるようになっていた。しかし、気象観測の正確さを長期にわたって保つのは容易ではない。当時はまだその手法が必ずしも確立しておらず、残されているデータの品質にはばらつきが多い。その中で観測結果に最も信頼を置けるものは、1780年から開始されたドイツのパラティナ気象学会によるものだった。

当時の各地の気象観測を分析した最近の研究によると、ラキ火山の噴火によるヘイズは北半球全体では1783年の夏の気温を下げ、翌年以降の冬季の厳寒に寄与したとする多くの論文がある。しかし地域によって状況は異なっており、後述するようにヨーロッパでは1783年の夏は高温になった地域も多い。また冬季の厳寒とラキ噴火との関係は必ずしも研究者によって一致していない。それでもおよその状況は掴めるので、それらを以下にまとめる。

雷と豪雨と干ばつ

西ヨーロッパでは1783年の夏に晴れた乾燥した日が103日間も続いた所があった。一方で、ヨーロッパ各地で雷雨により洪水が起こった記録が残っている [2]。スペインでも干ばつとなった。リスボンでは6月19日から8月27日までほとんど雨が降らず、またバルセロナで起こった長期にわたる少雨はヘイズによるものと思われた。アフリカでは渇水のためナイル川の水位が異常に低下し、穀物が不作となった。

一方でヨーロッパ中部では、ヘイズに覆われた時期に豪雨や雹を伴った雷雨が多発した [2]。イギリスでは雷がこれほどひどい年の記録はこれまでないという記事が雑誌に載った。人が雷の直撃を受けたり、雷で建物が崩壊しただけでなく、雷の恐怖で死んだり雷鳴で腸痙攣を起こした事例が記録されている [6]。地中海のマルタ島では、本来は夏の少雨の時期である7月1日にそれまでの記録にないような豪雨が降り、雷によって多くの被害が生じた [2]。一方でインドと中国の揚子江地域からは深刻な干ばつが報告されている [4]。

17世紀の稲妻の絵(ガスパール・デュゲ)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gaspard_Dughet_-_Paysage_a_l%27Eclair.jpg

熱波

一方で、ヨーロッパの西部では、1783年7月の気温は当時の30年平均より1.0~3.0℃高くなった [12]。ベルギーのアントワープでは、7月23日から熱波に襲われ、それは7月いっぱい続いた [2]。ルーマニアでは7月14日から8日間、硫黄臭のするヘイズに覆われて異常な熱波に襲われた 。ハンガリーでもヘイズに覆われた7月は例年より気温が高かった[2]

イギリスでは、1783年の夏は高気圧に覆われて数世紀間の中で最も暑い夏となった[8]。この暑い夏のヘイズは、時折稲妻や雷、強い雷雨や強風を引き起こした [7]。この時期にイギリスでは高頻度で南風が観測されており、これは1783年7月に中央または北ヨーロッパに高気圧が持続したという観測と一致している [6]。そのためこの高温の原因は、西ヨーロッパおよび北ヨーロッパに南からの暖かい気団が流入し続けたためである可能性がある。しかしながら、この時期のヨーロッパで高温が起こったメカニズムが自然変動なのかラキ火山噴火が関係していたのかははっきりしていない。

この7月の異常に高い気温が、イギリスでの1783年8月から9月の死亡者数のピークの原因として考えられている。高温により腸疾患が増加し、その後マラリアが蔓延した [6]。イギリスでは当時、腸チフス、赤痢、チフスなどの他の病気も流行していた。高温によって病気を媒介する動物や昆虫が繁殖したり、食物の腐敗が早まってこれらの病気の広がりを強めた可能性がある [6]。また、ちょうどこの時期に終結したアメリカ独立戦争からの帰還兵が、これらの病気をイギリスに持ち込んだ可能性も指摘されている。さらに、二酸化硫黄のガスとそれによるエアロゾルも直接的な健康への影響を引き起こした可能性がある [6]。

一方で、北半球の他の場所では1783年の夏の天候は異常に冷涼だった。夏は西ヨーロッパと北ヨーロッパで例年より-1.1℃低いという涼しい所があった [4]。ロシアとシベリアでは非常に不安定で比較的寒かった。6月23日にポーランドのジェシュフ周辺でかなりの雪が降り、7月にモスクワ近郊で大雪が報告されている [4]。中国でも全般に夏が寒かったことがわかっている [4]。

厳冬

1783~1784年の冬は、過去250年間でヨーロッパと北アメリカで記録された最も厳しい冬の一つであり、両地域から異常に長続きした霜が報告された [4]。平均気温の偏差は、ヨーロッパと米国東部で約-3°Cという極めて強い寒冷化を示した。

1783年から1784年の冬はアイスランドでは9月から10月の間という極端に早く始まり、その後非常に厳しい冬となった。スウェーデンなどの北ヨーロッパでは春の雪解けが遅く、川などが凍ったままで物資が輸送できず、穀物相場が跳ね上がった [2]。アムステルダムでは、人々が凍結したマルケル湖を馬車で横切ることができるほどの厳冬だった。ウィーンでもドナウ川が完全に凍りつき、すべての輸送を妨げた [4]。

ユトランド半島では4月中旬でもまだ1メートルの厚さの雪に覆われていた。そして春の雪解け時には、中央および南ヨーロッパのすべての主要な河川の水位が上昇して洪水が起こり、甚大な物的損害を引き起こした [4]。スコットランド東部でも1783年から1784年の冬は当時の10年平均気温と比べて、2.0℃から2.6℃低かったことがわかっている [7]。

イギリス中部エジンバラの気温は、1783年12月から翌年4月まで135年間の月平均値より1.9℃から2.9℃下回った。ひと月だけの月平均気温ではもっと寒い年もあったが、これだけ長く続いたのは珍しかった [7]。イギリスでの1784年1月~2月の死亡者数の増加は、この低温の時期と一致している [6]。1783~84年と1784~85年の冬は、アイスランドとグリーンランド周辺の海氷が最も発達した冬となった [7]。

多くの専門家はこの厳寒はラキ噴火の影響と考えているが、ラキ噴火とは関係ないという説を唱えている専門家もいる。この年の冬はヨーロッパだけでなく、ロシアや日本でも寒冬となった。自然変動としてはこの時期にNAO(北極振動)の指数が負で、またENSOとの関連を指摘する説もある [2]が、それらだけでこの寒冬を説明するのは困難なようである。逆にラキ噴火が影響していたとはっきりいえるほどの証拠が集まっているわけではない。

4.2 農作物への影響

この噴火が引き起こした動植物への影響によって、アイスランドでは数年間にわたって社会に壊滅的な飢饉が発生した。上述したように、この飢饉はアイスランドでは「霧飢饉」として知られている [10]。この飢饉の間に、アイスランドの人口の約4分の1(1万人以上)が、作物の不作、家畜や魚の死、フッ素中毒などのさまざまな病気の結果として亡くなった [8]。また、スウェーデンのストックホルムでも、いくつかの地方では餌となる穀物の収穫ができなかったため、家畜を減らした [2]。イギリスでも穀物と植物の被害の時期はヘイズの出現時期と一致している [6]。

1783年の夏は、北ヨーロッパでは冷夏の傾向だった一方で、ドイツ、オーストリア、エスニア、スロバキアなどの中央ヨーロッパでは果物や穀物が豊作になった [2]。7月のハンガリーとオーストリアではブドウの実が例年になく数多く実り、10月の収穫は多くの地域で期待以上になった。ルーマニア、ハンガリー、セルビアではあらゆる果物が豊作だった。ワルシャワでは、例年になく7月初めにはトウモロコシの収穫が始まり、エン麦や大麦が熟し始めた。ラトビアやエストニアでは、雨が少なかったため砂地の果物には悪影響が出たが、ヘイズによる弱い日射は夏の土地の乾燥を防いだため、湿った土地の小麦などの穀物には好影響を与えた [2]。また、アメリカでも記録的な豊作となった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.
[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland,SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
[8] Richard B. Stothers(1996)The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 32, 79-89.
[9] Franklin Benjamin(1784)Meteorological Imaginations and Conjectures, Manchester Literary and Philosophical Society, Memoirs of the Manchester Literary and Philosophical Society, 2, 373-377.
[10] Gaston R. Demaree, E. J. Ogilvie, De'er Zhang Astrid(1998)Further Documentary Evidence of Northern Hemispheric Coverage of The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 39, 727-730.
[11] Grattan J., Pyatt P. J.(1999)Volcanic eruptions dry fogs and the European palaeoenvironmental record: Localised phenomena or Hemispheric impacts? Global and Planetary Change. Aberystwyth University.
[12] Manley Gordon(1974)Central England temperatures : monthly means 1659 to 1973, Royal Meteorological Society, Quarter Journal of Royal Meteorological Society, 100, 389-405.



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