5. 噴火の社会への影響
5.1 同時期の災害
ヨーロッパにおいては、1783年は自然災害について異常な年だった。以下に示すさまざまな自然現象が起こり、人々に対して自然に対する関心の高まりと混乱をもたらした。
ヨーロッパの地震
1783年2月5日19時頃にシシリー島のメッシーナやイタリア南部のカラブリア州を中心とした大地震が起こった。この地震による家の倒壊などにより約2万人が亡くなったとされている [2]。このニュースは当時の新聞を通じて全ヨーロッパへ誇張気味に伝えられた。さらにナポリ近くのベスビオス火山や地中海のブルカノ島とストロンボリ島の火山も同時期に噴煙を上げたため、何かの大災害がさらに起こるのではないかと人々は恐れた [2]。人間はいつの時代も未知の現象に遭遇すると、その不安を和らげるためにその原因を知ろうとする。もちろん当時は地震の科学的なメカニズムなどはわからないので、同時期に起こった火山の噴火や激しい雷雨などがこの地震が起こった原因の憶測として飛び交った。
同年の7月6日に、今度はフランス西部からスイスにかけての地域、フランシュ=コンテ、ブルゴーニュ、ジュネーブで地震が起こった。7月30日には北アフリカ地中海沿岸のトリポリで地震が起こった。8月7日から8日にかけて今度はアーヘンなど北フランスを中心とした地域で地震が起こった [2]。これらの地震は大きくなくそれほど被害はなかったが、イタリア南部の地震の記憶がまだ生々しかった時期だった。しかも、この頃には既にヨーロッパをヘイズが覆っていたがアイスランドの火山噴火はまだ伝わっておらず、その原因は全く不明なままだった。ヘイズの原因としていろいろな憶測が流布しており、後述するようにヘイズの原因の一つとしてこれらの地震も挙げられた。
流星
この年は流星が多発したことで知られている。頻度だけでなく、いくつか大きな流星も出現した。その一つは1783年8月18日のもので、イギリスのシェトランド諸島からドーバー海峡までイギリス上空を太陽とほぼ同じ大きさの光彩を持った隕石が長い尾を引いて通過し、その後に爆発して7-8個に分裂した[2] [9]。さらに10月4日の午後7時過ぎにも月とほぼ同じ大きさの赤い輝きをもった流星が観察された [9]。中世からこういった現象は悪いことが起こる予兆と捉えられることが多く、その後科学の進歩で少しずつ天体のことがわかってきていたが、まだ中世的な考えは払拭されていなかった。これらの流星の出現は、人によってはさらに悪いことが起こる予兆として捉えられた。
アイスランド南西沖での火山噴火
ラキ火山噴火と連動しているかどうかはわからないが、同じ年の1783年5月にアイスランド南西の海洋上で海底火山(Reykjaneshryggur)の噴火が起こり、激しい噴煙が上るとともに島が一時的に形成されたようである。この噴火と島は1783年5月22~24日頃に船員が目撃している [2]。この噴火は8月15日まで続いた [6]。アイスランドの住民も4月20日頃から遠くの海洋上での噴火を目撃していた [2]。
疫病
当時はこの本のコラム「ヒポクラテスの生気象」で述べたように、ギリシャの哲学者ヒポクラテス以来の病気は天候や地理によるものという考えが広まっており、病気(家畜の病気を含む)と気象との関係を研究するため、パリ医学アカデミーやオランダの医療通信学会が気象観測網を構築していた。しかし、これらは必ずしも観測基準や観測手法の統一がなされておらず、あまり精度の良いものではなかったようである。
1783年の夏にヘイズが広がるとこの大気現象と病気との関係が注目された。当時の気温と死亡者数に関する研究によると、夏季の高温のピークと死亡者数のピークとの関係には1か月程度の時間差があり、熱波による熱中症などの直接的な死者はそれほど多くはなかったと考えられている。むしろ高温によって蠅、蚊、シラミなどが増加して、赤痢、腸チフス、マラリアなどの感染症が蔓延したり、肉が腐敗しやすくなった結果、徐々に死亡者数が増加したと考えられている [6]。
一方で、冬の厳寒による気温の低下は直ちに死亡者数の増加と結びついた。もちろん凍死なども増えただろうが、老人や虚弱体質者から肺炎、気管支炎、インフルエンザにかかりやすくなったと考えられている。あるいは人々が寄せ合って暖を取ろうとした結果、シラミを媒介する発疹チフスが広がったとも考えられている [6]。
5.2 人々の反応
この時代、いわゆる啓蒙思想が盛んになりつつある時代で、これに啓発された多くの一般の人々が自然現象を観察して記録し、科学界も活発な議論を行っていた [10]。長期にわたる広範囲のヘイズの出現は、西ヨーロッパの人々に環境と社会に関する大きな関心を引き起こした。自然科学者たちや一般の人々にとってこの長期にわたって持続するヘイズの原因は当時の議論の的になった。
ところが6月8日のラキ火山噴火がヨーロッパ各国に伝わったのは遅かった。噴火のニュースは9月1日にようやくコペンハーゲンに伝えられ、それは9月11日にスウェーデンのストックホルムへ伝わり、9月15日にドイツのブレスラウへ、9月20日にウィーンに、9月22日にブリュッセルとサンクトペテルブルグに、9月30日にパリへ、10月1日にベルン、ベニスへようやく伝わるという具合だった [2]。多くの地域ではそのニュースの到着はヘイズの発生から3か月以上経っており、しかもその時点ではヘイズの最盛期は過ぎていた。
そのため、この噴火はヘイズの原因となかなか結びつかず、ヘイズの原因についてさまざまな憶測が飛び交った。情報がない中で原因として有力視されたものの一つが、2月にイタリア南部カラブリア州で起こり2万人が死亡したとされる大規模な地震だった。それによって地中からの放出されたガス状の物質がヘイズの原因と噂された。
今日から見ると地震と大気現象であるヘイズはなかなか結びつかないが、当時はまだギリシャの哲学者アリストテレスによる自然哲学が有力視されていた。「気象予測の考え方の主な変遷(1)古代ギリシャ時代」で述べたように、自然現象を引き起こす原因の一つとして彼が提起したexhalation(蒸発気もしくは蒸発物と訳される)のようなものが、地震によって地中から立ち上って大気現象を起こしたと考えても、それほど違和感はなかったと思われる。
1755年11月1日の万聖節の日にポルトガルのリスボンで大地震(リスボン地震)が起こり、数万人が亡くなったとされている。当時敬虔なカトリック信徒が多いと言われていたリスボンの壊滅的な被害は、近代的な啓蒙思想のヨーロッパでの普及を後押ししたとも言われている。この地震の前にヨーロッパの一部でヘイズが起こったことが知られていた。このヘイズはたまたま1755年10月から始まったアイスランドのカトラ火山の噴火によるものである可能性がある [2]。しかし、リスボンでの大地震の原因も一部ではその前に起こったヘイズと関連付けて考えられていた。
それ以外にも、ヘイズの原因として夏の異常高温によって上部地殻から蒸発した物質によるものという説や、泥炭の燃焼、大気電気、流星の破片、彗星の尾の破片、太陽からの放出物などのさまざまな説が流布した [5] [8]。当時、アイスランド以外でヘイズの原因を初めてラキ火山の噴火と結びつけたのはフランスのモンペリエのロイヤルアカデミーで8月7日に講演した自然科学者マーグ・ド・モントレドンとされている [5]。
「地球環境の長期監視の重要性」の所でも少し触れたが、何か異常現象が起こった際にその原因を的確に推定するには、平常時からのデータの蓄積が重要である。その上で、それに基づいて何がどう異常なのかを把握し、それを科学的な知識を総動員して合理的に原因を判断する必要がある。そうでなければ、いろんなあやふやな憶測が飛び交うことになる。現在、世界気象機関(WMO)が各国と協力して世界規模で地球環境の観測を長期にわたって継続している[13]。しかし、平常時にはその必要性についてなかなか理解を得られにくい場合がある。
5.3 フランクリンの活動
アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンは自然科学者としても有名である。彼は当時駐仏アメリカ大使でパリ郊外に滞在しており、1783年夏のヘイズ(ドライフォッグ)を受けて、その原因について後述するようにいくつかの考察を行った。彼はこの持続する乾燥したヘイズの原因と影響について、イギリスの友人で医師であったトーマス・パーシバルに宛てに手紙を書いた。パーシバルは1784年12月22日にマンチェスター文学哲学協会(Manchester Literary and Philosophical Society)でこの手紙を読み上げている。その後この内容は、協会の定期出版物(Memoirs)の中で出版された。
この手紙の中でフランクリンはヘイズの原因についてアイスランドの火山噴火によって引き起こされた可能性を挙げるとともに、これによる乾燥した霧による日射の減衰が1783年から翌年にかけての厳冬の原因であった可能性を指摘している。彼は火山噴火が気候に影響して厳冬を引き起こす可能性があることを指摘した初めての人物だった。現在では1991年のピナトゥボ火山噴火によってその気候への影響がはっきりしたものの、当時において「火山の噴火が気候に影響を与える」という考えは極めて先見の明があった。そしてそれだけではなく、もしそうであれば、大規模火山噴火の翌年の冬は厳冬になるので、それに供えるべきという季節予報を用いた防災も提唱した。彼はこう述べている [9]。
歴史に記録されている厳しい冬に、今回と同様の持続的で広がった夏の霧があったかどうかを調べる価値はあるようである。 もしそうならば、ひきつづく厳しい冬と春の凍った川の融解によって起こるであろう被害を予想し、最後に起こる被害の影響を避けて自分自身を守るために、実行可能な措置をできるだけ講じることが出来るかもしれない。(拙訳による)
「4.1 天候や気温への影響」で述べたように、1783年から翌年にかけて厳しい冬によって、飢饉や凍死が起こり、また大量の積雪や氷結した河川は1784年の春に一斉に溶融したため洪水が起こった。彼はそれらを事前に備えることによって防止できると述べている。
社会への影響の所でさまざまな原因説があったことを述べたが、実はフランクリンはヘイズの原因として、この年に多発した流星による隕石か彗星による影響の可能性も挙げている。これは地球外からの影響が気候変動の原因として考察されたおそらく最初の例とされている [9]。現在でも、例えば太陽から出る宇宙線が雲粒子の核になる粒子に影響を与えているのではないかという研究がある。そういった発想の先駆けとなるものであった。
(つづく)
参照文献(このシリーズ共通)
[13] 堤 之智(2017)新たなWMO/GAW実施計画:2016-2023について, 気象学会, 天気, 8, 64, 607-614.
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