3. 噴煙の大気への影響
ヘイズと硫黄性ガスの発現時期
ラキ火山噴火の噴煙は、割れ目の南と南東にあるアイスランドの農村地帯に対してヘイズ、降雨、酸性雨をもたらし、太陽の色を真っ赤にし、気温を低下させた。そして噴火した6月8日からおよそ2週間以内に北ヨーロッパの大部分で細かい灰の降下と、二酸化硫黄の火山ガスが変化したエアロゾルによる煙霧をもたらした。当時のヨーロッパの人々が驚いたこの持続的で広範囲に広がる硫酸エアロゾルによる煙霧は、「(グレート)ドライフォッグ(乾いた霧)」などと呼ばれた。ここではこれ以降ヘイズという呼称を用いるが、この現象は他にも「煙った太陽(スウェーデン)」、「上空の煙(ドイツ)」、「煙霧(アイスランド)」 [4]、「黄色や硫黄色の霧やヘイズ」と呼ばれたりすることもあった [7]。
火山灰の降灰は、まず噴火2日後の6月10日にイギリス北方のフェロー諸島とノルウェー北部で観測された [4]。6月14日頃から20日頃までにはスコットランド東部で大気中に浮遊する細かな火山灰が観測された [7]。スコットランド東部では、その後6月24日頃から火山灰ではないヘイズが観測された [7]。
ヨーロッパでは濃い持続的なヘイズが観測される前に、薄いヘイズが観測された。それは遅くとも6月13日にはロンドン近郊に、6月14日にはフランス東部のディジョンに、6月16日にはローマに現れた [8]。最初の濃いヘイズ(ドライフォッグ)は、6月16日にドイツ中部とチェコスロバキア西部で発生した。これを記録したのは、1780年に気象学会(パラティナ気象学会)による世界で最初の本格的な気象観測網を構築したヨハネス・ヘンメルである。彼は本書の「3-3-5 気象を専門とする学会による気象観測網」で述べたように、本職は司祭であったが気象学者、物理学者でもあり、気象学の農業への適用に興味を持っていた。6月17日には大規模な濃いヘイズがスイスとドイツのバイエルンに到達し、北東にはポーランドに出現した。 6月18日にはフランス全土とイタリア北部および中央部、6月19日にはイングランドとスコットランドに到達した。これらは当時の多くの書物に記録されている [8]。
この発生時期の地域による違いは、その時の気象状況の違いによって起こったようである。後述するように、この時期にヨーロッパで発達した高気圧内の下降流が上部対流圏か下部成層圏に滞留していた硫酸エアロゾル(ヘイズ)を地上に輸送して各地でヘイズを発生させたと考えられている [5]。この濃いヘイズは6月22、24、25日にオスロ、ストックホルム、モスクワに、6月23日にブダペスト、6月30日にシリア、7月1日にバグダッドと中国西部のアルタイ山脈に到達した [8]。
6月中旬以降、局地的な風の変化の結果として、ヘイズは西のアメリカに向かってもゆっくりと移動した。当時フランスにいたベンジャミン・フランクリンは、カナダ東北部のラブラドルの住人の日記やハドソン湾会社からの出版物を調査し、1984年5月以降に北アメリカの大部分でヘイズ(ドライフォッグ)が発生したという報告をしばしば引用している [9]。またアフリカ北西部のアゾレス諸島より北の大西洋やニューファンドランドでも目的された記録がある [10]。またヘイズはアルタイ山脈を越えて中国河南省にも到達し、正確な日時は不明だが煙霧で何度も空が曇ったという記録が残っている [10]。このように、ラキ火山噴火によるエアロゾルはおよそ35N°以北の地球の大半を覆ったようである。
ヘイズの光学的特徴
太陽や星の明るさと色の記録は、ヘイズの光学的厚さ(濃さ)に関する情報となる。アイスランドでは、1783年の夏には、太陽が正午でも光線がなく青みがかった白に見えたり、時にはおかしな「赤い球」のように見えたりした [8]。当時のヨーロッパの書物では、太陽は正午でもほとんど見えず、その後直接肉眼で見ることができるほどの光量になったと述べている [11]。7月4日にはパリでは熱いヘイズが大気を覆い隠し、太陽は冬季に霧が時々作り出すような鈍い赤い色となった。 霧はパリだけではなく、ローマやスペインからやってきた人たちも同様に濃くて暑かったと認めている [11]。ベンジャミン・フランクリンも、凸レンズで光を焦点に集めても、茶色の紙を燃やすことがほとんどできないほど太陽の光が弱かったと述べている [9]。
輸送のメカニズム
ヨーロッパ各地で目撃されたヘイズがラキ火山の噴火によるものであることを示すには、
- アイスランドからヨーロッパへ輸送されるメカニズム
- 高層ではなく低層(大気境界層内)にヘイズが存在するメカニズム
- その濃度が十分に高かったこと(つまり拡散されていない)
を示す必要がある。
夏季にヨーロッパの広域でヘイズが観測されたメカニズムの一つの可能性としては次が考えられている。1783年の夏はヨーロッパで高気圧が発達したことが気圧の観測記録として残っている。ラキ火山噴火による火山ガスは上空の西風に乗ってヨーロッパ上空に到達し、輸送途中で生成された硫酸エアロゾルの一部はこの高気圧内の沈降する気流によって地表に向かって輸送された。 エアロゾルはヨーロッパ上空の高気圧内で渦巻き状に下降して、高度約1 kmの大気境界層上端に蓄積した。大気境界層内とその上の自由対流圏は一般的には容易には混合しない。しかし、日々の地表面の加熱と冷却によって駆動される空気の垂直混合によって、エアロゾルが大気境界層内へと輸送されていった可能性がある [4]。 これが、6月21日以降にヨーロッパ各地の広範囲にわたって地上で観測されたヘイズのメカニズムとして考えられている。
3.2 人体や生物への影響
火山ガス
ヨーロッパ北西部でのヘイズによる青みがかったまたは赤みがかった色合いガスは、地上で硫黄臭、苦味、目と喉への不快感、2 km程度の視程の低下、植物や銅の表面での酸化による損傷を引き起こした。また、当時始められていた湿度計の測定により、非常に乾燥していることが示された。 当時既にヘイズは部分的に硫酸や硫黄のガスからなっていることが認識されていた [8]。
最初の3回の噴火エピソード(6月8~14日)では、ジェット気流の高度に十分な二酸化硫黄が流入し、そこで約60 Mtの硫酸エアロゾルが生成された [4]。これは、10 km以上の高度で積分すると、35°N以上の北半球全体の平均で約60 ppbの濃度に相当する。
ちなみに現在の日本の環境基本法による二酸化硫黄の健康基準は、1時間平均値で100 ppbを超えず、かつその1日平均値が40 ppbを超えないこととなっている。当時の記録によると、数か月間の長期にわたって地上の二酸化硫黄濃度は1000 μgm-3(350 ppb)を超えたかもしれないと推定されている [5]。また各地で記録された二酸化硫黄臭は、およそ500 ppbから1500 ppbに相当するといわれている [6]。これは明らかに呼吸器疾患、循環器系疾患に影響を与えて死亡率を上げた可能性が高い。また後述する1783年夏の高温(熱波)も人々の健康状態に影響を与えたと思われる。
エアロゾルなど
アイスランド南東部は、火山の爆発の際に「ペレーの毛」と呼ばれるマグマの一部が吹き飛ばされ空中で急速冷却し髪の毛のようになった細かい灰で覆われた。これは肺の奥にまで入る可能性があり、噴火の開始後8日から14日以内に大勢の人々が亡くなった [4]。
ラキ火山の噴火によって放出された二酸化硫黄は、その酸化によって大気中でかなりの量の硫酸エアロゾルに転化したと考えられている。その場合、細かいエアロゾル粒子(いわゆるPM2.5)の生成が主体となる [6]。これは肺の奥まで届くので、大きなエアロゾル粒子(PM10)より人体に有害とされている。
この二酸化硫黄のガスと硫酸エアロゾルを含んだヘイズは、人々に衰弱、息切れ、心臓の動悸を引き起こした。人を不快にさせただけで無く、眼の痛みや呼吸器系の問題を引き起こした [2]。フランスの記録に残っている症状は近年の大気汚染の症状と酷似しており、二酸化硫黄の濃度が人体に有害な濃度を超えたと思われている [5]。オランダでは、ヘイズが非常にはっきりとした硫酸臭をもたらし、6月23日から25日まで特に顕著だった。 同時に、多くの人が厄介な頭痛、呼吸困難、喘息発作を引き起こした [4]。ドイツのライン川下流ではシーツに硫黄臭が染み付いて取れなかったため、大勢の住民が家を離れたという記録もある [2]。
当時の死亡者数のきちんとした統計は少ないが、フランスの教区毎に記録された埋葬数でみると、前年の1782年の月埋葬数と比べて1783年8月から10月の埋葬数は、多い月は2倍程度となっている。一部イギリスを含めた総教区数で見ると、1783年8月から10月の月平均埋葬数は前年平均の1.38倍、1783年8月から1784年5月まで見ると1.25倍となっており、その増加数はフランスだけで16000人を超えると推測されている [5]。また、その影響のためか、1784年のその後の月平均埋葬数が1782年の月平均値より下がっていることも特徴となっている。これは弱者から死亡したとみることが出来るかもしれない。イギリスでも1783年8月から9月と翌年1月と2月に死者数が増加した。その増加は約3万人とされている [6]。
また火山ガスで有毒なのは二酸化硫黄だけではない。この噴火では7 Mtの塩素ガス、15 Mtのフッ素ガスが放出されたとみられている [5]。アイスランドでは噴火によって草類が火山性のフッ素に汚染されたため、家畜の牛の53%、羊の80%、馬の77%が死んだ。この結果家畜により生活している住人にも影響が出て、アイスランド住民の19~22%、約1万人が死亡したとされている [2]。そのため、アイスランドでは1783年から1784年にかけては「霧飢饉(famine of the mist)」と呼ばれている。
酸性雨
放出された二酸化硫黄は雨に溶けて酸性雨を引き起こした。降雨中の酸性度は、エゾノギシギシの葉を焦がし、動物や人間の皮膚に火傷を負わせるほどだった [4]。オランダでは6月25日の朝には、土地は荒廃して植物の緑は消え、葉はどこでも乾燥したようになり、葉の色は緑色から茶色、灰色、黒色へと変わった [11]。イギリスのノーフォークと南部のセルボーンでは、トウモロコシが枯れ、小麦の穂が黄色に変わり、霜で焦げたようになった [4]。同じくイギリス南部では、7月30日にエムズ川の木々の緑が一夜にして枯れてしまった。フランスのパドカレーでは一部でトウモロコシが枯れてしまった 。ノルウェー中部のトロンハイムでは、酸性雨のため木々の葉は一部焦げたようになり、ヘイズに触れた草はほとんど真っ黒になるほどだった [2]。
0 件のコメント:
コメントを投稿