3. 第二期第二次キスカ島撤収作戦
3.1 第一次撤収作戦失敗の後
第五艦隊による撤収作戦の中止に、聯合艦隊司令部は強い不満を抱いた。そして督戦の意味をこめて7月20日に第五艦隊司令部に参謀副長小林謙五少将を派遣した [1, p627]。また、多少の犠牲はやむを得ないと考えていた第五艦隊司令部も、第一水雷戦隊の慎重な行動を非難した [1, p628]。一方で、第一水雷戦隊では駆逐艦を多数失えば今後の戦局に重大な影響があるため自分たちの慎重な行動を当然と思っており、第五艦隊司令部による非難を心外と捉えていた [1, p630-631]。
第五艦隊と第一水雷戦隊では立場、考え方に違いがあり、そのため次回は第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」で第一水雷戦隊に同行して、第五艦隊司令部が現場で突入の判断を行うことになった [1, p631]。なお突入の判断の後、「多摩」はキスカ島へ突入せずに幌筵へ戻ることになっていた。また特設巡洋艦「粟田丸」は撤収艦隊から外された。
次の霧はなかなか発生しそうになかった。通常ならば北緯30度付近にある太平洋高気圧の中心が、この年は北緯42度付近にあったため霧が出にくかった [6, p65]。8月になれば霧の出現は期待できないと考えられていた。また重油も幌筵には艦隊行動でキスカ島までの往復1回分しか残されていなかった。竹永気象長は霧が出にくい原因まで叱責され、ノイローゼ気味となった。
3.2 第二次撤収作戦の発動
7月22日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵付近は霧となった。この低気圧が東進してベーリング海に入ると、プラス2セオリーから25日頃に南風によって霧がアリューシャン列島に発生することが期待された。7月26日のキスカ島突入を予定して第二期第二次撤収作戦が開始された。巡洋艦3隻、駆逐艦11隻と補給艦からなる艦隊は、22日夜に幌筵を出港した。
7月23日~24日
第一水雷戦隊では26日の予報を曇り時々霧で見通しは良いと考え、突入日の27日への延期を第五艦隊司令部に具申した。しかし第五艦隊司令部はこれを認めず、26日の突入を変えなかった [1, p633]。
ところが、この低気圧は予想より速く進み、24日にはキスカ島を通過してしまい、その後キスカ島付近は晴れてしまった。一方で艦隊付近は連日の濃霧で隊形が混乱し、7月24日にた補給隊の油槽船「日本丸」と海防艦「国後」が隊列からはぐれてしまった。このため「多摩」の第五艦隊司令部は突入日の27日への延期を認めた [1, p633]。
この日の1500時に「木曽」は仮装備した陸軍の野戦高射砲の試射を霧の中で行ったところ、たまたまこの音を聞きつけた「日本丸」と合同することが出来た [1, p634]。作戦の途中で「日本丸」から重油の補給ができなければ、艦隊は作戦を継続できないところだった。しかし、補給隊のもう1隻である「国後」はまだ行方不明のままだった。
7月25日
この日敵潜水艦のレーダーを艦隊のすぐ近くに逆探知したため韜晦行動を行った。この韜晦行動により、キスカ島への突入日は28日もしくは29日に変更された [1, p634]。第一水雷戦隊では東北沖にある低気圧が北東進すれば、29日以降にキスカ島付近の天候が悪くなると予想した [1, p635]。
この25日から突入日までの韜晦行動に関して、第五艦隊司令部と第一水雷戦隊では考え方に違いがあった。第一水雷戦隊ではいったん南下して敵潜水艦から離れ、突入日に間に合うように北上すれば良いと考えていた。しかし第五艦隊司令部の指示は、突入の即応体制を取るためその付近で待機(往復運動)するというものだった。第一水雷戦隊は敵潜水艦に接近したままの指示に釈然としなかったが、これに従った [1, p636]。
7月26日
早朝に水雷戦隊は突入日を29日に決定して、第五十一根拠地隊から了承を得た [1, p636]。艦隊付近は引き続き濃霧のため、はぐれた「国後」以外は単縦陣で航行していた。ところが1744時に「国後」が霧の中から突如艦隊付近に現れ、軽巡洋艦「阿武隈」の右舷中部に衝突した。このため隊形が混乱し、駆逐艦「初霜」は駆逐艦「若葉」と「長波」に接触した [1, p636]。「若葉」と「初霜」は最高速度が12ノットに低下したため、「若葉」は自力で幌筵へ回航、「初霜」は「国後」の護衛に回ることとなった [1, p64]。「若葉」に座乗していた第二十一駆逐隊司令は、「島風」に移乗した。
一方で、キスカ島付近では20日以降24日を除いて連日晴天が続いており、敵機や敵艦隊の活動が活発だった。キスカ島の第五十一根拠地隊は霧の季節が終わったのではないかと危惧したが、これを逃すと二度と撤収機会の見込みは無く、キスカ島への突入を要望した [1, p640]。
7月27日
この日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵は霧となった。これに基づいて、7月27日0600時に第一水雷戦隊ではプラス2セオリーからキスカ島付近の29日の天候を霧と判断した。しかし、第五艦隊司令部では薄霧で敵機の飛行は可能と判断した [1, p640]。なお後述するように、この日の夜にアメリカ艦隊はキスカ島南方海域においてレーダーで探知した幻の目標に夕方から砲撃を加えていた。
7月28日
キスカ島では昨日オホーツク海で発生した低気圧が近づいてきて、予想通り早朝から霧となった。第一水雷戦隊では29日の天候を「西の風で曇りときどき霧」と判断した。第五艦隊では「南西の風、曇りで淡霧だが敵機の飛行は困難」と予測した。しかし、軽巡洋艦「多摩」の第五艦隊司令部は突入するかどうかで迷った [1, p642]。第一次撤収作戦では第一水雷戦隊の行動を批判した第五艦隊司令部だったが、現場で当事者になってみると机上で考えていたようには行かなかった。迷った司令長官河瀬四郎中将は、座乗していた「多摩」艦長で積極果敢な神重徳大佐に意見を求めたところ、ぐずぐずしていたら突入の時期を失するという意見に押されて突入を決断した [1, p642]。
1600時には艦隊はキスカ島へとコースを向けた。なお、幸運なことにこの日1010時から30分間だけ霧が晴れて天測により艦隊の位置を確認するとともに艦隊の隊形を整えることが出来ていた。夜になると霧は一層深くなっていった。
3.3 キスカ島での撤収
7月29日は、キスカ島では霧のため視程は1500 m程度と突入には絶好の天候となった。0700時に第五艦隊司令部が乗った軽巡洋艦「多摩」は、予定通り第一水雷戦隊から別れて幌筵に向かった。キスカ島の北側を時計周りに回っていた艦隊は、近くの岩礁などを避ける必要があったが、霧に閉ざされて正確な位置が不明だった。11時半頃に一瞬霧が晴れてキスカ富士を視認でき、これで艦隊の正確な位置を確認できた。キスカ島の東に回り込むとキスカ島から発信されるビーコンにより一挙に突入することが出来た [7, p404] 。
当日、キスカ島では朝から電探が敵機を上空に捕え、9時頃までに2回対空戦闘があった。ところが1000時頃から霧が深くなったためか敵機は戻っていった。同じく午前中にはキスカ島付近を哨戒する敵駆逐艦の音も聴音されていたが、同様に戻って行ったようだった [7, p358]。第一水雷戦隊では、入港直前の1150時にキスカ島から敵艦船の聴音の報告があり、また駆逐艦「島風」も高感度の目標を探知したため、会敵を予期していたところ、1300時に艦影を発見したため「阿武隈」が咄嗟に魚雷攻撃を行った。しかし、艦影に見えたものはキスカ島付近の小島だった [1, p644]。
第一水雷戦隊は1340時に無事キスカ湾に入った [1, p644]。キスカ島周辺は深い霧に包まれていたが、湾内の視界は良好だった。撤収作業は島内に残っていた大発と艦隊が搭載してきた大発を使って順調に行われた。全将兵は1時間以内に船に収容された。
1430時頃には撤収を終わり、艦隊は出港した。ところが1627時に「阿武隈」が距離わずか約2 kmでアメリカ軍の浮上潜水艦を発見してこれを回避した。艦隊は発見されたと思われたが、アメリカ艦隊と誤認したのか潜水艦から無線は発信されなかった [1, p646]。これは、アメリカ軍の巡洋艦に似せるために軽巡洋艦の煙突1本を白く塗った効果だったかも知れない。また、北方部隊では7月29日に艦隊が大湊に在泊しているような偽電を発信していた [3, p320]。
艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして5186名が無事にキスカ島から撤収され「ケ」号作戦は成功した。この作戦の間幌筵の重巡洋艦「那智」で気象予測を行った竹永気象長は、それまでとは打って変わってみんなから感謝された。古賀連合鑑隊司令長官は、31日に慰労電を発信した。8月2日には大元帥である天皇陛下から撤収作戦に関して御嘉賞のお言葉を賜った [2, p492]。
3.4 キスカ島沖での幻の海戦
キスカ島からの撤収作戦の成功には、アメリカ艦隊の行動が大きく関係していた。哨戒していたカタリナ飛行艇は、7月24日にアッツ島南西150 kmに7隻の船をレーダーで感知した [8, p91]。北太平洋軍はこれを日本軍の増援と判断し、阻止するためにキスカ島の南西でキスカ島を封鎖していた駆逐艦2隻を含めて、艦隊をキスカ島南西の該当海域に向かわせた。7月27日の深夜、この艦隊の戦艦「ミシシッピー」、「アイダホ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「ポートランド」がキスカ島の南西150 km海域でレーダーの反応を認めた [9, p93]。艦隊は直ちに、この目標に22 kmまで接近して約30分間にわたって砲火を浴びせた。ただし星弾(照明弾)を用いてもその目標を視認できなかった。夜が明けた28日に偵察機を飛ばしたが、いかなる残骸や漂流物も認められなかった [9, p93]。
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艦隊のレーダー担当士官は、後にそのレーダーの反応が異常な大気状態による約180 km離れたアムチトカ島からの電波反射が原因だったかも知れないと示唆している [8, p91]。この戦いはピップスの戦い(The Battle of the Pips)とも呼ばれている。
このアメリカ艦隊の幻との戦いによって、日本艦隊がキスカ島からの撤収を行っていた29日頃、アメリカ艦隊はキスカ島付近には駆逐艦1隻だけを残して、キスカ島の南東200 kmの地点で消耗した砲弾や燃料の補給をしていた [2, p88]。これによって、この時だけアメリカ軍の封鎖網に隙が生じて、日本艦隊にキスカ島との航路が開けていた。もちろんアメリカ軍では、この一瞬の隙を突いて日本軍が撤収したことに全く気付かなかった。
(つづく)
参照文献(このシリーズ共通)
[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦. 朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-. 朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期. 朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器. 光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退. 株式会社文藝春秋, 1988.
[7] キスカ会. キスカ戦記. 原書房, 1980.
[8] Navy U.S. The Aleutians Campaign June 1942-August 1943. Naval History and Heritage Command, U.S. Navy, 2018.
[9] Wilder A. Carol. Weather as the Decisive Factor of the Aleutian Campaign, June 1942-August 1943. Drake University, 1983.
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