1. 第一期キスカ島撤収作戦
連合国軍のアッツ島上陸により、日本軍はキスカ島の将兵約5600名を救出する必要に迫られた。聯合艦隊は北方を守る第五艦隊に対して1943年5月29日にキスカ島からの撤退である「ケ」号作戦を開始するように下令した。ガダルカナル島からの撤退作戦は「ケ」号作戦とされたが、キスカ島からの撤退作戦も同じ名称が付けられた。
しかしキスカ島は連合国軍の航空機、哨戒艇、潜水艦によって四方から厳重に封鎖されていた。そのため、「ケ」号作戦は主に潜水艦を使用してキスカ島の守備隊を撤収させるものだった [1, p565]。しかし、それでは全員の撤収には9月末までかかると考えられ、諸状況を考慮すれば、半分撤収できれば良い方と考えられた [2, p468]。
北方部隊潜水部隊は、作戦発令前の5月27日から潜水艦を使って、まず傷病者と軍属のキスカ島からの撤収を開始した。「ケ」号作戦には13隻の潜水艦が参加した。6月9日までに6回の撤収が無事に成功し、1回の救出数は60~80名と効率が悪かったものの、潜水艦を用いた撤収は順調に進むかのように見えた。
実は、この時期のアメリカ艦隊はアッツ島の作戦が一段落したため、基地へ戻って補給を行っていた。しかし6月10日頃になると、アメリカ軍によるキスカ島付近の哨戒網が再構築された。アメリカ軍の攻撃を受けて潜水艦「伊二十四」が6月11日に、そして潜水艦「伊九」が14日に消息不明となった。それらの被害を受けて「ケ」号作戦は中断された。
潜水艦を用いた撤収は、6月18日に4隻の潜水艦を用いて再開された。21日に最初にキスカ島の七夕湾に進入しようとした潜水艦「伊七」は、駆逐艦「モナハン」から霧の中でレーダーによる砲撃を受けた。砲弾が艦橋に命中して司令と艦長が戦死し、潜航不能となった。同艦は旭岬に擱座して応急修理を行った。翌日に応急修理を終え濃霧の中を横須賀に向かおうとしたところ、再び同駆逐艦からレーダー射撃を受けたためキスカ島へ戻ろうとしたが、被弾によって浸水が激しく付近の岩礁に擱座するに至った[1, p580]。この戦闘で乗組員80名が戦死し、同艦は後日暗号書とともに爆破された。
これにより23日に「ケ」号作戦のいったん中止が指令された。結局6月18日までに潜水艦でキスカ島からの撤収に成功したのは、主に軍属や傷病者の872名だった [1, p574]。
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