2023年3月16日木曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(2)

 2. 当時のイギリスの状況

デフォーは時事問題に関するパンフレットの執筆者として活躍しており、嵐が襲った頃の彼の状況と背景は、1700年頃のイギリスの複雑な政治状況と絡んでいた。当時イギリスの政治勢力は、いわゆるトーリー党ホイッグ党に分かれて政権がときおり交代していた。国王が一方の党に肩入れすることも多く、一方が与党になると他方を弾圧することもあった。

それら2つの党の考え方の違いは国内外の施策と宗教にまで及んでいた。トーリー党は国教であるプロテスタントを厳格に守り、ホイッグ党はカトリックにも寛容だった。また、国際政策の考え方も両党で異なっていた。当時スペインのカルロス2世の死去により、1700年にフランスのルイ14世の息子がスペイン王フェリペ5世として即位した。これによりルイ14世にとっては、フランスとスペインの合併も視野に入ることになった。

それに反発したのがオーストリアとオランダと、ホイッグ党寄りだったウィリアム3世が国王だった英国だった。英国王ウィリアム3世はフランスの拡張政策に恐怖を感じ、強力なフランス・スペイン同盟に軍事力で対抗することを望んだ。ウィリアム3世は、オランダ連合州とオーストリア皇帝の指導者たちと、1701年にハーグ条約対フランス大同盟)に調印した。これがその後スペイン継承戦争へとつながった。ドーバー海峡に面した要塞を制圧したフランスの勢力拡大を抑えるために、イギリスは1701年2月にスペイン領オランダに進攻した。

しかしトーリー党は、スペイン継承戦争に関与するよりは国内政治を重視していた。1702年にウィリアム3世が死去してトーリー党寄りアン女王が即位すると、対フランス大同盟の構想に反対し、同時にウィリアム3世の他の政策、特にカトリック対する寛容な政策をできるだけ覆そうとした。こういう状況のもとで、英国は1703年11月の大嵐を迎えることになる。

アン女王の肖像画
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Closterman%2C_John_-_Queen_Anne_-_NPG_215.jpg


3. 当時のデフォーを巡る政治状況

当時デフォーは、国王ウィリアム3世の庇護の元でホイッグ党の評論者として活動しており、時にはトーリー党の政治家たちを攻撃するような論評を書いていた。そういう中で1702年に彼の庇護者であったウィリアム3世が亡くなり、今度はトーリー党寄りのアン女王が即位した。

彼は、1702年に匿名の執筆者が書いた風刺小冊子「The Shortest-Way with the Dissenters(非国教徒との最短の道])」を出版した。これはトーリー党の聖教者が書いたとされ、イギリスの安全のために唯一賢明な手段は、国教反対者を虐殺と追放によって追い払うことだと提案していた。しかし、アン女王はこの小冊子の執筆者の処罰を望んだ。この小冊子の作者が誰なのかは英国中の話題となった。そして、デフォーが風刺としてこの小冊子を書いたという噂が立つと、政府は「大罪と不敬」の罪名で彼への逮捕状を出した [1]。

彼は逃亡したが、嵐の約半年前の1703年5月21日、匿名の情報提供者の裏切りによって、捕らえられた。彼は裁判で女王の許しが出るまでの収監と罰金と、7月29日から3日間にわたって3か所でさらし台にさらされるという判決を受けた。さらし台(Pillory)とは、広場やその他の公共の場所で、頭と両手を直立した木の檻に固定されて立たされるものである。1時間から2時間、集まった野次馬から、腐った果物、動物の糞、石ころ、レンガなど、どんなものでも受けなければならなかった。投げられた物によっては骨折したり瀕死の重傷を負うこともあった。

さらし台上の17世紀の偽証者タイタス・オーツ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TitusOates-pilloried_300dpi.jpg

ところが、彼は獄中で「さらし台への賛歌(A Hymn to the Pillory)」という批判書を書いて、さらし台の日に合わせて出版した。これはさらし台にふさわしいのは自分ではなく裁判官であり、自分の唯一の罪は真実を書いて発表したことであることを仄めかした韻を踏んだ詩だった。この詩の出来映えがよほど良かったようで、彼はさらし台にさらされた3日間、聴衆から笑いと時折花を投げつけられる以外には何も起こらなかった [1]。

下院議長のロバート・ハーレイ(後のモーティマー伯爵)の計らいによって、デフォーは今後女王に協力するという条件で、11月初めに釈放された。そしてその直後の11月中旬から、ロンドンでは嵐の序章となる悪天候が続いた。そして11月26日にそのピークとなる大嵐を迎えた。

(つづく

参照文献

[1] R. Hamblyn, Daniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003. 

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