2023年3月20日月曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(3)

1703年の大嵐

経過

11月中旬から連続的にイギリス諸島を嵐が襲った。これらは結果として26日の大嵐の序章となった。これらの嵐は、ロンドンの煙突を倒し、沿岸の船を沈没させた。実際、ロンドンの街を歩いていたデフォーは突然に煙突が倒れてきたため、危うく命を落とすところだった [2]。そして、26日夜半から27日にかけて、その頂点となる大嵐が襲来した。これは旧ユリウス暦なので、現在のグレゴリオ暦に直すと嵐は12月7日に発生したことになる [2]。この嵐は、歴史上英国を襲った最大の暴風雨と考えられている。

当時入手できたわずかな気象学的情報から、嵐の中心はスコットランドの北を通過し、南西には副低気圧が形成され、ウェールズ南部からハンバー河口まで英国を横断したようである。本の「4-2 気圧計の発達」で述べたように、この当時は既に較正された気圧計が普及していた。ウィリアム・デラム牧師が測定した当時の気圧は、エセックス南部で973 hPaに相当した。低気圧の中心はミッドランドを通過する際に950hPaまで低下した可能性があるとの指摘もある [2]。日本でいう台風並みの嵐だった。

イーストアングリアでは、風速は44 m/sを超えたと推定されている [2] 。おそらく竜巻も発生したのだろう、牛が巻き上げられて木の高いところに持って行かれた、あるいは少年が教区教会の尖塔を飛び越えたことを自慢した [3]という記述もある。

強い風のために家はガタガタと震えて、人々は家の倒壊を覚悟した。しかし、この揺れを地震と思った人も多かったという [3]。当時の人々の自然現象に対する理解や関心はこのようなものだった。外は家の上からレンガ、タイル、石が勢いよく飛んで来るため、人々は誰も外に出ようとはしなかった [4]。

被害

設計技師ヘンリー・ウィンスタンリーが1696年に建設したドーバー海峡最初のエディストーン灯台は、嵐によって跡形もなく破壊された。嵐の際に灯台にいたウィンスタンリーは行方不明となった [2]。

 

当時のエディストーン灯台
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edystone_Winstanley_lighthouse_Smeaton_1813.jpg 

ブリストルでは、高潮がそれまでの満潮時よりも10フィート(3.3m)近くも高くなり、町を浸水させた。セヴァーン川を遡上した高潮は、モンマスシャー州とグロスターシャー州の間の橋を破壊し、モンマスシャー州の南の土地(ムーアと呼ばれる)は、約30 kmにわたって高潮洪水に襲われた。セヴァーン川沿いでは、15,000頭の羊が満潮時に溺死した [2]。

英国南部のワイト島では、塩が雪のように降り積もった。海岸から25 km離れたタイスハーストのような内陸部でも、生垣の葉がかなり塩辛かったという記録が残っている [3]。イギリスの田園地帯では風車の多くが、強風による羽根の高速回転によって摩擦熱で燃えるなどして、400基以上が破壊された [2]。

ポーツマスなどの沿岸の町は、デフォーが「敵に袋叩きにされたような、最も惨めにバラバラに引き裂かれたような」と表現するほどの大被害を受けた [2]。ボーンマスの東にあるニューフォレストだけでも4千本の木が根こそぎ倒れた。家屋800~900棟が破壊され、100棟以上の教会が暴風で大きな被害を受けた [2]。

ロンドンでは、ウェストミンスター寺院の重い鉛の屋根は、羊皮紙のように巻き上がって吹き飛ばされた。セント・メリーズ教会や聖マイケル教会など、街中のほとんどの教会の尖塔が被害を受け、無傷だった家屋はほとんどなかった。強風が吹き荒れ、建物が壊滅的な被害を受けると同時に、風が火をあおって瞬く間に火災が広がるという事態になったが、住民は風を避けて避難し、消火活動は行われなかった [2]。この暴風雨で英国内の陸と海の人命が失われた数は、8000から9000、おそらく15000人に達したと考えられている。

海上ではこの大嵐の前から暴風は続いていたため、沖合で遭難した船は多くなかった。船舶の被害は沿岸や河川に集中した。テムズ川では、ロンドン橋の下流にあるプールで700隻の船が押し潰されたとデフォーは報告している。ロンドン・ガゼット紙によれば、暴風雨が襲ったとき、500隻の船がグレート・ヤーマスの沖合にあり、その多くが遭難したり、沖に流されたりした [2]。

スペイン継承戦争に参戦していたイギリス海軍は、この時、ドーバー海峡で3つの艦隊がその猛威にさらされた。イギリス海軍の船は13隻以上が失われ、バジル・ボーモント少将を含む1500人の船員と将校が犠牲になった [2]。

1703年11月26日 の大嵐でボーモント少将が行方不明になったダンケルク沖の艦隊。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Great_Storm_1703_Goodwin_Sands_engraving.PNG


デフォーの「嵐」には、倒れた樫の木についての言及が多い。彼は、ケント州の短い旅の間に、17,000本の倒れた樫の木を数えたと主張しているが、疲れすぎてそれ以上数え続けることができなくなった [1]。

デフォーが樫の木に関心があったのには訳があった。ホイッグ党寄りだったデフォーは、英国の大陸政策に高い関心があった。この政策を支えるのは英国海軍である。この嵐で壊滅した英国海軍の再建のために必要な、樫の木の状況が気になっていた。

無残な英国海軍は嵐によって二重の打撃を受けた。貴重な船が破壊されただけでなく、新しい船の建造に必要な樫の木も、この嵐によってたくさん倒れてしまった [1]。

つづく

参照文献

[1]    R. Hamblyn, aniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003.
[2]    Heidorn, "BRITAIN'S GREAT STORM OF 1703-2007," [オンライン]. Available: http://www.islandnet.com/?see/weather/almanac/arc2007/alm07nov.htm.
[3]    D. G. Clow-, "DANIEL DEFOE'S ACCOUNT OF THE STORM OF 1703," weather, 第 巻43, 第 3, pp. p140-141 , 1988.
[4]    J. J. MILLER, "Writing Up a Storm," 2011. [オンライン]. Available: https://www.wsj.com/articles/SB10001424053111904800304576476142821212156.

 



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