船体の工法の問題とその後(The issue of method of construction of hulls and aftermath)
台風に遭遇して船体が切断された 2 隻の特型駆逐艦は、その船体が全溶接工法で作られていた。船体の建造時に溶接を採用すると艦艇の船体重量が10~15%も軽減化されるため、海軍の軍縮条約後、各国は溶接技術を飛躍的に向上させて軍艦などの工法に溶接を取り入れた。これは世界的な趨勢であり、日本海軍も艦船の建造手法に溶接を積極的に取り入れていた。しかし当時の鋼材の材質と溶接技術から見て、強引に溶接化を進めた面もあった。そのため、この事故は建造に溶接工法を採用した日本海軍艦艇の強度に対して疑念を生じさせた。
実は根本的な原因は船体に対する過大な性能要求にあったのだが,この疑念により、海軍は艦船の建造の際の溶接の採用を制限した。艦政本部(The Navy Technical Department)は事故調査後に、溶接工法(welding method)を鋲接工法(rivet joint)に戻す溶接工法の制限を発令した[6]。[6]は溶接工法が第4艦隊事件の原因のスケープゴートにされたと述べている。この海軍の艦艇建造方針の大転換のため、その後建造された軍艦の船体は、溶接と鋲接混用で建造された。しかし、鋲接は溶接に比べてその接合箇所が衝撃に対して弱点になる可能性があった。欧米の最新の建造艦の多くは全溶接工法で建造されており、アメリカ海軍などの艦船に比べて、日本の軍艦は耐衝撃性能が劣ることとなった。[6]
ちなみに溶接か鋲接かは戦車を見るとわかりやすい。日本軍の97式戦車は一部鋲接を用いているため表面がでこぼこしているが、ドイツ軍の戦車やアメリカ軍のM4戦車は、ほとんど溶接工法で作られているため表面が滑らかになっている。戦車でも、鋲接は砲弾などを受けた際の衝撃により鋲が跳んで中の乗員を殺傷する可能性があるため、危険視されていた。
日本軍の97式戦車 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Battle_of_Bukit_Timah.jpg |
アメリカ軍のM4型戦車 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:M4A1_to_M4A3_tank_animation.gif |
戦艦「大和」(Battle ship Yamato)と同型艦の「武蔵」(Musashi)は、艦内の要所がアメリカ戦艦の主砲でも破壊できない分厚い装甲板に覆われているため、不沈艦と謳われていた。しかし、実はその装甲板は鋲接工法で建造されていた。戦艦「大和」は、1943年12月25日に潜水艦から魚雷1本を受けた際に装甲板の鋲接部分が緩んで内部の火薬庫に浸水したことが判明していた。戦艦「武蔵」もフィリピンのレイテ沖の戦いに向かう際に、1944年10月24日の航空攻撃によってシブヤン海で沈没したのも、航空魚雷によって装甲板の鋲が緩んでそこから海水が内部に大量に流入したためと推測されている[7]。同型艦である空母「信濃」(Carrier Shinano)も 1944年11月29日に潜水艦から魚雷を受けた際に、武蔵同様に装甲板の鋲接部分が破断して海水が流入し、縦隔壁の破損によって海水が片舷だけに片寄ったために転覆した[8]。装甲空母「大鳳」(Carrier Taiho)もマリアナ沖海戦において、1944年6月19日に潜水艦から魚雷1本を受けて、装甲板の鋲継ぎ手に隙間が生じたことが装甲板内部の前部軽質油庫からガソリンが漏洩して爆発した原因となった[9]。台風による遭難から始まった第4艦隊事件は、その後の日本海軍に大きな影響を与えたということができる。
1944年10月24日にシブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_battleship_Musashi_on_24_October_1944,
_down_at_the_bow_and_sinking_(NH_63434).jpg |
第4艦隊事件のような大きな事故というのは、いきなり起こることはあまりない。大事故の前にそれにつながる小さな事故というものが起きているものである。実は海軍の演習が行われた年の7月に、数隻の特型駆逐艦が東京湾外で高いうねりの中で高速航行の試運転を行った。その際にその中の1隻の駆逐艦「叢雲」では、その艦橋とその前方の一番砲塔との中間に座屈(過加重によるたわみ)によると思われる変形が生じていることが発見されていた[4]。
艦政本部の設計部署は直ちに調査して、特型駆逐艦の強度に問題がある可能性を突き止めていた。特型駆逐艦の9月の演習への参加に不安が持ち上がった。直ちにその旨の報告を艦政本部へ上げたが、艦政本部は問題になることを恐れて不問に付した。そのまま、特型駆逐艦は演習において嵐の中を航行することになったのである[3]。事件発生後、海軍による艦政本部への処分が行われた。しかし、百名以上が死傷するという大事故の割には、責任者数名の軽度の謹慎という甘い処分で終わった。
台風による第4艦隊事件 (完)
Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.
[3] 第四艦隊事件、失敗知識データベース、http://www.shippai.org/fkd/en/hfen/HB1011022.pdf
[4] 山本善之、角洋一、鈴木和夫、鈴木政直、鈴木隆男、第4艦隊事件の事故原因に関する研究、日本造船学会論文集第158号、社団法人 日本船舶海洋工学会、185, 291-300, 1985.
[5] 気象庁、気象百年史 Ⅰ_通史_第08章_大正期より昭和期の気象事業, 1975.
[6] 一般社団法人 日本溶接協会 溶接情報センター、社団法人日本溶接協会50年史、第1編 総論、3 日本溶接協会の設立、3.1 協会設立以前の我が国の溶接事情、1999、http://www-it.jwes.or.jp/jwes_50th/jwes_50th.jsp
[7] NHK、NHKスペシャル戦艦武蔵の最期~映像解析 知られざる“真実”~、2016.
[8] NHK、NHKスペシャル「幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~」、2019.
[9]山本善之、航空母艦大鳳の大爆発1、らん、関西造船協会、46、58-65、2000.
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