被害と調査委員会 (Sufferings and the investigation committee)
被害の状況
後日の調査で、この台風による大波で、合計19隻が鋲(リベット)の緩みや船体のねじれなど何らかの被害を受けていたことがわかった。特に夕霧と初雪の最新の特型駆逐艦(the latest Fubuki-class destroyer)2隻は、艦首部分が波浪によりもぎ取られるように同じような位置で切断された。これらによる死亡者の数は57名、負傷者は約70名に達した。この台風による多くの艦の破損は、軍艦の設計そのものに問題がある可能性を示した。波が高い台風時とはいえ、困難な環境で戦闘を担う軍艦の船体が波で破損することは、その性能上許されることではなかった。これは国防上の重大な問題と見なされた。
ワシントン軍縮会議とロンドン軍縮会議による軍艦数の建造制限を強いられた日本海軍は、単艦の威力の増大を意図して、艦の規模を超えた無理な性能要求を新たな軍艦に要求していた。特に最新の特型駆逐艦24隻は、わずか排水量1700トンの船体に世界初の5インチ砲6門や9門の魚雷発射管を装備しながら38ノットの高速を出すという、船体強度に対して過大な性能を要求に盛り込んでいた。
1935年10月10日に海軍省に、野村吉三郎大将を委員長として、山本五十六中将、古賀峯一少将などを委員とする臨時の調査委員会が設置され、この事故の原因調査とその対策のための検討が行われた。まず艦の強度に関する調査も行われ、とくに駆逐艦初雪と夕霧の艦首が同じような所から切断した事故は、船の根本的な性能である「復元性」と「強度」に関する問題を提起した。
気象状況と船体強度との関係
この台風の中では、演習参加艦の多くが気象観測を行っていたため、その観測結果は世界的にも稀な台風の中での気象と海象の記録となった。海軍はその観測結果を用いて台風の中での風と波の特徴を徹底的に研究した。その結果、主力部隊が遭遇した台風中心部の波の波長は100~150 m、波高は10~15 mで、特に水雷戦隊が所在した台風の南東部の海面では、波長200 mに対して波高が15 m以上になることがわかった[3]。
水雷戦隊付近で異常に高い三角波が出現した原因として、次のように考えられた。水雷戦隊付近では台風の前面では南東の風、さらに前線の通過によって南東の風域と南の風域が発生した。この台風の移動速度は70 km/hと波浪の移動速度より速く、その後台風の通過によって風向は南~南西に変わった。台風前面の南東風による波やうねりが残っていた海域に、発生した前線による南の風域、さらに台風後面の南~南西の暴風による波が重なって、台風通過後に異常に高い三角波が出現した。
駆逐艦夕霧が遭遇した三角波の3つの峰は、最初の右舷の三角波は南~南南西から、中央の三角波は南南東から、左舷のものは南東から押し寄せてきたと考えられている[1]。特に台風の進行方向の右側後方の第四象限では、台風の反時計回りの風で起こった波と台風の外側からくるうねりという進行方向が異なる二つの波の衝突によって、波高が異常に高い巨大な三角波を生み出されることがわかった。
波長と波高の関係は波が船体にもたらす力(曲げモーメント)に大きく影響する。それまで通常の船体の強度設計では、波高に対する波長比は20程度が想定されていた。ところが水雷戦隊が遭遇した波は、波高に対する波長比が10~15であった。初雪と夕霧の場合は、台風の南東部の波長に対して想定外に波高が高い波によって何度もピッチングを繰り返すうちに、座屈によって生じたしわが亀裂となって船体が切断したと判断された[3]。またこれまでの想定より高い波とともに、過重な装備による船体の強度不足も問題視された。
特型駆逐艦については過重な装備も問題であったが、実は凌波性を高めるために、船首上部が広がったフレアという形状をとっていた。これが船体前部船底が波によって衝撃を受けて船体が急激な振動を起こすスラミングという現象を引き起こしていた。初雪、夕霧の両艦は波浪の中でこの振動の衝撃により船体は過度の応力を受け、船首部船底に損傷を受けて艦首部を切断したことが戦後になって示唆されている[4]。
対策
海軍はこの調査結果を受けて、軍縮条約下で建造された全艦艇の強度検査を行い、ほぼ全艦に船体強度の補強と軽量化のための武装の一部撤去を施した。大多数の艦では改良工事は1936年度末までに終了し、残りの艦も1938年度末には改良工事を完了した[3]。この調査による事故の原因、対策と遭難時の気象については極秘にされた(戦後に公開された)。この改良工事により艦の重量は増加し、最高速度は若干低下したものの、その後日本海軍では第二次世界大戦中に台風などによって被害を受けた艦はなかった。
この事件の原因は日本海軍の艦艇の構造の欠陥だけでなく、特有の特徴を持つ日本近海の波浪に関する理解不足にもあることがわかった。この事件以降海象に対する認識が改められ、海軍水路部の気象課が新たに海象に関することも担当することになった。これは1941年6月に海軍水路部内の気象部となった [5]。
Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.
[3] 第四艦隊事件、失敗知識データベース、http://www.shippai.org/fkd/en/hfen/HB1011022.pdf
[4] 山本善之、角洋一、鈴木和夫、鈴木政直、鈴木隆男、第4艦隊事件の事故原因に関する研究、日本造船学会論文集第158号、社団法人 日本船舶海洋工学会、185, 291-300, 1985.
[5] 気象庁、気象百年史 Ⅰ_通史_第08章_大正期より昭和期の気象事業, 1975.
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