遭難の背景
ウィリアム・ハルゼー提督率いるアメリカ海軍第38任務部隊(空母機動部隊)は、戦争中の1944年と1945年に太平洋において台風との遭遇によって2回遭難した。これは前シリーズで述べた第4艦隊事件と対にして語られることがある。原因は、必ずしも船体構造の強度の問題というわけではなかったようであるが、台風の強さや大きさ、海域も異なり同じように議論することはできない。
台風「コブラ」との遭遇
1944年10月の海戦でハルゼー提督率いるアメリカ第3艦隊第38任務部隊は、日本海軍の栗田艦隊をフィリピンのシブヤン海で艦載機で叩いたものの、その後小沢艦隊の攻撃のために北上したため、栗田艦隊のサマール島沖への進出を許した(レイテ沖海戦)。戦闘後アメリカ第3艦隊の指揮官はハルゼー提督からスプールアンス提督に交代して艦隊は第5艦隊となった(指揮官によって艦隊の名称が変わった)。
12月に入って再びハルゼー提督が指揮を執ったため艦隊は第3艦隊に戻り、その第38任務部隊は12月中旬からマッカーサー将軍が率いるアメリカ陸軍のフィリピン・ミンドロ島への侵攻を空から支援した。その後第38任務部隊はフィリピン沖の洋上で補給を行おうとして台風と遭遇し、多くの被害を出した。この台風は、後にコブラ台風またはハルゼー台風とも呼ばれている。またこの事件は、後にハーマン・ウォークのピューリッツァー賞受賞小説「ケイン号の叛乱」のモデルともなった。またこの小説はハンフリー・ボガートなどが主演した映画化もなされている。
第38任務部隊は、エセックス級大型空母7隻、インデペンデンス級軽空母6隻、戦艦8隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦11隻、駆逐艦約50隻などからなっていた。それを率いるハルゼー提督は、上記のように12月11日からミンドロ島のマッカーサー軍を約1週間支援した後、もうしばらく作戦継続を望んだ。しかし、その時駆逐艦の一部は10~15%しか燃料が残っておらず、失った航空機の補充も必要だった。
ハワイ真珠湾の太平洋艦隊気象本部は、太平洋上のいくつかの観測地点からの情報をもとに、気象予報を第38任務部隊へ無線で1日2回送付していた。しかし、当時の技術では太平洋の真ん中にいる台風の位置を正確に捉えることは困難だった。気象本部から送られた気象情報は、弱い熱帯低気圧の発生を知らせていたが、第38任務部隊の気象担当士官は熱帯低気圧は北東へ向かうと考えて、熱帯低気圧を重大事とは捉えていなかった[1]。この弱い熱帯低気圧は、その後急速に強い台風になった[2]。この場合がそうかどうかはわからないが、台風は1日程度で急速に発達することがある。これは「急速強化」と呼ばれる。しかしながら艦隊付近では嵐の兆候はなく、台風が近づくまでそれに気付かなかった。
((2)へとつづく)
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