2020年8月11日火曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(2)


 事件の経過

 12月17日の1000時に第1地点付近で燃料が欠乏しているいくつかの駆逐艦からまず給油を始めた。ところが海は荒れ始め、風速は20 m/sを超えて多くの船で給油ホースが外れてしまった。ハルゼーは燃料を搭載できない船には、転覆を避けるために海水をバラストとして詰める命令を与えていたが、海が静まれば直ちに給油できるようにタンクを空にしたまま待つ駆逐艦もあった[3]。

 波浪のために艦隊の補給は困難になった。ハルゼーは1300時に、「熱帯低気圧が700 km南西にあり、今後北東に進路を変える」という気象担当士官の予測に基づいて北西へ向かい、第2地点での翌18日朝0600時からの給油を指示した[1]。ところが、この熱帯低気圧は急速に発達して台風となり、しかも実は艦隊の南東 200 kmを北西に進んでいた。艦隊はハルゼーの命令に基づいて、艦隊の針路を西290度に取った。図に台風の推定進路と艦隊の推定航路を示す。

台風の推定進路(実線)と艦隊の推定航路(破線)。番号は本文中の給油予定地点。白丸は最終的な給油地点。艦隊の推定航路は[2]の記述に基づいて作成。ただし針路と継続時間しかわからないので誤差を含む。台風の推定進路は[4]の進路を参考にして作成。本文の記述に合うように進路を調整している。The estimated track of the typhoon (solid line) and the estimated route of the fleet (dashed line). The numbers and closed circles are replenishment points planned which are referenced in the text. The open circle is the eventual replenishment point. The estimated route of the fleet is created from the description (only courses and duration) in [2], probably including large errors. The track of typhoon is estimated using the reference of [4] based on re-analysis data. The track is adjusted to fit in with the text.

 夕方になるにつれて海はだんだん荒れて、艦隊の全ての艦船が緊張に満ちた状態になった。空母クェゼリン(CVE-98)は、大波のうねりの中で、船首全体が水から出てきかと思うと数秒の間浮かんだ後、今度は飛行甲板が波の底へと突き落とされた。甲板はピッチングとローリングのたびに海水であふれた。数万トンもある大型船があたかもカヌーのように波に揺さぶられた。

1944年12月17日に荒波の中を給油地点へ向かうタンカー。An oil tanker trying without success to move into refueling position on December 17, 1944, https://en.wikipedia.org/wiki/File:Oil_tanker _trying_to_move_into_refueling_position_during_Typhoon_Cobra.jpg

 ハルゼーは焦っていた。予定通りマッカーサー軍の攻撃を空から支援するためには18日朝までに補給を行わなければ間に合わなかった。第2地点はあきらめられ、その代わりに第3地点が設定された。艦隊は針路を再び290度付近に変えたものの、実はそれによって台風と併走することとなった。数時間後、第3地点もあきらめられ、第4地点が設定された。2300時にハルゼーは少しでも波が穏やかになる場所を求めて、針路を南へと変更したが状況が変わらなかったため、翌18日0200時に北東へ向かうように指示した[2]。

 朝0400時には台風が艦隊に迫っていることが明らかになった。0430時にハルゼーは空部ヨークタウンのマッケーン提督と空母レキシントンのボーガン提督と相談し、第4予定地点を止めて南へ向かい、可能な状態になればそこで給油を開始することにした [2]。しかし、0830時には状況はさらに悪化し補給は不可能となった。ハルゼーはマッカーサー軍への支援を諦めた。彼は台風からなんとかして逃れるために、0913時に艦隊針路を南西に取るように命令し、各艦に対してようやく警報を発した[1]。

台風の中を高波に揺られながら航行する巡洋艦「サンタフェ」。砲塔は正面からの海水が入らないように横に向けられている。(1944年12月16日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=31109

 1000時頃から気圧が急激に下がりはじめ、数隻の空母はレーダーで台風の眼を捉えた。レーダーは第二次世界大戦直前に開発された純軍事技術だった。ところが雨や雲の影響を受けることがわかり、当初はノイズと受け止められたが、戦争の後半には水象の監視に用いられるようにもなっていた(本の「10-1-3レーダーの気象学への利用」参照)。

このとき捉えた台風の眼のレーダー画像(1944年12月18日)。これはレーダーで捉えた2回目の台風の眼とされている。Structure of a typhoon captured by a Navy ship's radar (1944 December 18). This storm was the second tropical storm to ever be observed on radar. In: Hurricane Detection by Radar and Other Means", Vaughn D. Rockney, Tropical Cyclone Symposium, Brisbane , December 1956. Image ID: wea01232, Historic NWS Collection, https://www.photolib.noaa.gov/historic/nws/wea01232.htm

 台風の眼の近くでは瞬間で50 m/sを超える風速を記録した[2]。台風は1100時から1400時にかけて最も発達し、中心付近の船は最大平均風速54 m/s、最大瞬間風速67 m/sを記録した[2]。観測した最低気圧は907hPaに達した[4]。波の高さは20mを超えた[1]。1150時にハルゼーは艦隊を解いて針路を南東に変えて各艦で台風を乗り切るように指示した[3]。その後は風は左舷船尾からとなり、艦隊の大部分は台風から離れることができた。しかし、艦隊は既に80 km四方に散らばっていた。しかもこの時までに実は3隻の駆逐艦が既に転覆し、多くの船が損傷していた[3]。

(3)へとつづく

Reference(このシリーズ共通) 

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/

 [2]Carl M. Berntsen, 2007, TYPHOON COBRA AND CARRIER TASK FORCE 38, http://ussdehaven.org/typhoon_cobra.htm

[3] Samuel J. Cox, Typhoon Cobra. The Worst Natural Disaster in U.S. Navy History, 14.19 December 1944, 2019

[4] Choi. et al., 2017, Storm waves during Typhoon Cobra (Halsey's typhoon) in December 1944, Procedia IUTAM, 25, 44-51.

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