アメリカ気象局への留学
1925年に修士号を取ると、彼はスウェーデン・アメリカ基金(American-Scandinavian Foundation)によるアメリカ留学生制度に申し込み、90名の中の6名の合格者の一人となった。アメリカへの留学の目的は、ベルゲン学派の寒帯前線論のアメリカの気象での応用研究だけでなく、気象力学の問題を研究することも含まれていた [1]。1926年に彼はワシントンにあるアメリカ気象局(U.S. Weather Bureau)へ渡った。ベルゲン学派の論文はアメリカ気象局が発行するMonthly Weather Review誌にも発表されており、アメリカ気象局のルロイ・メイジンガー(Leroy Meisinger)などはベルゲン学派の手法を用いた研究を行っていた。しかし不幸なことに、1924年にメイジンガーは気球に乗っての観測中に雷に打たれて墜死していた [3] 。ロスビーは、アメリカ気象局でわずかに残っていたベルゲン学派気象学への興味を持つ気象学者リチャード・ウェイトマン(Richard. H. Weightman)とアメリカでのベルゲン学派気象学の有用性を示す論文を出したが、ほとんど顧みられなかった [3]。アメリカ気象局ではベルゲン学派の手法を用いた研究は衰退していた。当時のアメリカ気象局では気圧分布などを用いた経験的な予報手法が墨守されており、前線などを用いたベルゲン学派の手法は歓迎されなかった。
ロスビーはベルゲン学派気象学の普及だけでなく、アメリカ気象局の地下室で地球規模の大気循環を模した回転水槽を用いた実験を手がけたり、乱流の研究などを行ったりしたが、アメリカ気象局には大気の力学的な取り扱いに興味を持つ人はほとんどいなかった [2]。しかし、アメリカの科学技術の歴史家であるフレミング(Rodger Fleming)は、この回転水槽実験が後にロスビーが大気を二次元で順圧的に扱う鍵になったと述べている [4]。アメリカ気象局において、ロスビーは図書館の片隅に席を与えられただけで冷遇された [3]。
ところがそういう状況の中で、ロスビーはアメリカ海軍の気象士官ライケルデルファー(Francis Reichelderfer)と知り合いになった。ライケルデルファーは、海軍の高層気象の担当で、予報のためのデータを集めに、毎日気象局を訪れていた。これはロスビーにとって運命的な出会いとなった。ライケルデルファーは独学でベルゲン学派の手法を学んだが、もっと詳しく知りたいと思っており、彼にとってもロスビーはまさに意中の人だった。そこからロスビーの人生は急展開することになった。
ライケルデルファーの写真(後年)https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Reichelderfer#/media/File:Francis_W._Reichelderfer,_1940.jpg
( カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献へとつづく)
Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318.
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