観測への従事
ドイツのライプチッヒ大学地球物理学研究所は、第一世界大戦の途中までヴィルヘルム・ビヤクネスが所長を務めた所だった。ヴィルヘルム・ビヤクネスがノルウェーの戻った後も、人事交流などの密接な関係は続いていた。その一環で1921年にロスビーもライプチッヒへ行くことになった。ベルゲン学派は、雲の観察によって直ちに判断できる間接的な高層気象観測を重視していたが、ライプチッヒ大学地球物理学研究所では探測気球などの観測に基づいて高層気象天気図作成し、それを用いた解析を行っていた。当時の高層気象とは主に対流圏中層の気象のことである。ロスビーはこれに興味を持ち、実際に高層気象観測を行っているリンデンベルグ高層気象台へ行き、約1年間気球や凧を用いて観測しながら高層大気を解析した [2]。高層大気の風は、地上付近と比べると比較的規則的な振る舞いをする。彼は高層大気を理解するのに、理論的な分析が必要であることを感じた。1921年に故郷スウェーデンのストックホルム大学に戻って数理物理学を学んだ [2]。その間、学費を稼ぐ目的もあってスウェーデン気象水文研究所(Swedish Meteorological and Hydrological Institute)でも働いた。1924年にはそこで初めての論文を発表している。1923年にはノルウェーの小さな観測船に乗り組んで、グリーンランド東岸で気象学と海洋学の研究を手伝った。ところが船は海氷に閉じ込められ、2か月後に危うく沈没する寸前に救出された [1]。
翌年にはスウェーデン海軍の気象士官として、帆船を用いたスウェーデン海軍の士官候補生のための訓練航海を担当した。この航海の目的はイギリスを1周して、海洋での気象予報の必要性と有用さを確かめることだった。彼は航海中に探測気球を上げて観測し、他からの気象観測報告を受け取り、天気図を描き、予報を準備して船長に提出するのが仕事だった。しかし船は嵐に巻き込まれ、アイルランド沖を漂流した。船は座礁しないように岸に近づきすぎないようにする必要があった。しかし、彼は出した予報に自信がなくなかなか寝付けなかったが、予想通りに風向が変わると安堵して眠りについたこともあった [1]。おかげで、航海は無事に終了した。ロスビーが乗り組んだスウェーデン海軍の帆船 af Chapman号。船名はG.D. Kennedyから改名したものである。https://en.wikipedia.org/wiki/Af_Chapman_(ship)#/media/File:GD_Kennedy_SLV_AllanGreen.jpg
1925年にストックホルム大学から数理物理学の修士号を得たが、彼の正規の学歴はそこで終わった。彼はこの後、さまざまな傑出した業績を残したが、博士号を取ることはなかった。
(カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学へつづく)
Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times,
Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the
American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957.
Biographical Memoir, National Academy of Sciences.
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