2023年12月11日月曜日

元寇と神風(2)戦いは1日ではなかった?

 2-3 戦いは1日ではなかった?

これまで最初の侵攻での戦闘は、11月26日の1日だけと思われていたが、近年あらたな説が出てきた。 [3]は九州から京都への報告の日付から、戦いは10日間ほど続いて、元軍が退却したのは12月6日頃としている。また「関東評定伝」に、11月30日に元軍が太宰府近くまで攻めてきたが撃退したという記録が残っていることも、この理由に挙げている。

確かに、26日に今津に上陸して、20km先の博多で夕方まで戦って、また当日のうちに今津へ退却するのは、暗くなることもあってほぼ不可能である。 [3]は、元軍は日本側の拠点となっていた警固山(今の福岡城趾)を落とすことができず、夕方には陣を構えていた西新のすぐ南の祖原山(麁原山)に引き揚げたとしている。元軍の行動として、これは十分に考えられる。そしてしばらくそこを拠点として博多で戦い続けた。

なお、祖原山は現在祖原公園となっており、元寇古戦場跡という碑が残っている。また同書は、別に箱崎付近に上陸した部隊があった可能性も指摘している。これも十分に考えられる。

警固山付近での合戦推定図(燈線は元軍の進路)。合戦は、警固山の北側だったかもしれない。なお、点線は昭和40年頃の海岸線を示している。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに地名や経路を追記して使用)

[3]が指摘しているように、上陸戦では海岸に近い山に海岸堡を確保することが重要である。海岸堡は海からの補給の拠点になり、また攻撃や防衛の拠点にもなる。元軍が拠点とした祖原山(標高33m)は海岸や川から離れた内陸にあり、しかも狭い丘で大規模な軍勢が恒久的な陣を敷くには向かない(祖原山から百道浜までの一帯に布陣していた可能性はある)。

もし本格的に海岸堡を築くならば、もっと大きな小山で、かつ船との往来が容易な川沿いの海岸にある、西公園(荒津山:標高40m)や愛宕山(標高70m)の方がよかったのではないかという疑問は残る。ただ、西公園は日本軍の拠点である警固山に近すぎ(距離約1km)、愛宕山は出撃のたびに大きな室見川を渡らなければならず、それで避けたのかもしれない。

2-4 嵐は起こったのか?

上記の八幡愚童記の記述だけでなく、高麗史(東国通鑑)の記録によると、「たまたま夜大風雨。戦艦巌崖に触れて多く敗る」となっている。さらに元史によると、朝鮮半島にたどり着いたのは400隻で、兵士の損害は、合戦での死者2000名を除くと、13500名が溺死したとされている [5]。

八幡愚童記には合戦当時の夜に雨が降った記述があるが、嵐そのものやその痕跡に関する記述はない。もし嵐に遭遇したとすると、それは博多湾から朝鮮半島へ戻る途中の出来事である可能性が高い。八幡愚童記にあるように、一部の船は難破して志賀島近くまで漂流したのかもしれない。

11月末なので、嵐が台風とは考えにくいが、発達した低気圧と遭遇した可能性は十分にある。この時期は冬季季節風が始まる時期であり、通常西風が卓越する。すると東に戻れないので、たまたま南を通り過ぎようとした低気圧による東風を中国や朝鮮半島へ引き揚げるために利用しようとしたのかもしれない。結果、帰還途中の海上で低気圧に遭遇した可能性はある。

本当に夜間に嵐が起こったのならば、数多くの避難民が松明を利用したり、それに遠くから気づいたりするのは困難である。元史には文永の役の記事に風雨に関するものはない [6]。少なくとも博多での戦いの帰結に、嵐のような気象が関係したとは考えにくい。

いずれにしても武士団は善戦し、元軍は簡単には勝てそうにないことを悟った。冬の北西季節風が卓越するようになると、朝鮮半島との間には簡単には船を回せなくなり、元軍は補給が難しくなる。そのため [3]は、嵐に遭遇したことを、戦闘を中止して撤退するための理由として挙げたとしている。しかし、元史にあるように、帰途時に実際に低気圧に遭遇して、多くの船が難破した可能性がある。その漂流した船を日本側が発見して、嵐による撤退という記述になったのかもしれない(もちろん、元史そのものの信憑性の問題もある)。

2-5 文永の役の考察

2-5-1 上陸に博多湾を選んだ謎

当時、船は軍隊の移動にとって大きな利点があった。大量の兵士や物資を陸上より速く輸送できた。そして、防衛側はあらゆる所を防衛することはできないので、船上の軍は敵の防備の薄いところを見つけて上陸できる。ちょうど同じ頃、ヨーロッパ各地でバイキングが猛威を振るったのは、そういった利点を活かしたからだと考えられる。

しかし、船を使った上陸には欠点もある。海岸は、陸という固体と海という液体と大気という気体が混ざり合う所で、それらがぶつかると大きな衝撃が発生する。船は脆弱であり、そうなるとそれらによる影響をまともに受ける。立派な港湾施設などない時代では、上陸は波が凪いだ砂浜にしかできなかっただろう。

また、大型船は直接陸につけることができないので、上陸は少人数ごとに小舟にわけて行う必要があった。これには時間もかかる。もし上陸場所が事前に知られてしまい、そこで迎撃されれば、少人数にわかれた上陸軍は個別撃破されてしまう。そのため上陸戦の要諦の一つは、敵の意表を突いた奇襲である。

元軍は大きな間違いを犯した。事前に対馬と壱岐を征服して襲来を太宰府に予告した。対馬と壱岐の征服には、九州上陸と同時に小部隊を送れば十分だったのではないか?また、迎撃する武士団が待ち構えている本拠地に近い博多湾に上陸した。

確かに博多湾は太宰府に近く、通商の要衝で砂浜を持った大きな湾である。湾は穏やかで、船の停泊にも都合が良いだろう。そこに上陸しようと考えるのは当然ではあるが、防衛側も当然そこを重点に守ることを考える。上陸地点に博多湾を選んだことから、元軍は奇襲上陸をあまり重視していなかったことがわかる。

2万名以上の兵士を沖合の大船から岸へ小舟で上陸させるのは、容易なことではなく、また時間がかかる。本当に11月25日の夕方に到着して、26日の早い時間から進軍を開始したのならば、船にいた兵士や物資の全てが上陸できたわけではなかったかもしれない。元軍は、兵士や馬や物資を十分に上陸させて、その上で戦う準備を整えてから進軍するための時間を稼げなかったのではないか?

一方で日本武士団も、上陸直後の元軍を迎え撃とうと考えていたようには見えない。日本武士団は、進軍する元軍を、今津を含めたあちこちで小勢ではあるが迎え撃っている。しかし、上陸場所が早めにわかれば、逆に日本武士団は上陸中で数が揃わない元軍に対して、先に本格的な攻撃をかけるという考え方もあったはずである。文永の役では、両軍は博多の中心部で、あたかも内陸での対峙戦のように戦ったように見える。両軍ともそういう戦い方しかないと思っていたのかもしれない。

ところで、5回目と6回目の使節であった超良弼は、数か月間博多に留め置かれた間に、付近を偵察していたという説がある。本人にそういう意図があったかどうかはわからないが、帰国後に博多の地理について、いろいろ尋ねられたことは想像に難くない。

 [3]は、博多湾の浅い水深から、元の大船は岸から2kmほど沖合に停泊したのではないかとしている。手漕ぎ船で2kmを何度も往復するのには時間がかかるだろう。上陸場所については、砂浜だけみれば博多湾内だけでなく、博多より北部には津屋崎や神湊付近にも大規模な砂浜がある。唐津湾には虹ノ松原という砂浜がある。

これらの砂浜の沖は水深が深いので、大型船が博多湾より岸近くに投錨できたかもしれない。そうすれば、より速やかな上陸が行えただろう。また、日本は襲来に気づいてからそこまで武士団を派遣するのには時間がかかるので、元軍は海岸で十分に体勢を整える時間が稼げたかもしれない。

もちろん、当時と今とでは戦闘の常識や考え方が異なるので、今の考えをそのまま当てはめることはできない。しかし、ひょっとすると日本は危なかったのかもしれない。もし元軍が周到に準備して、どこかの海岸を奇襲し、拠点となる強力な海岸堡を築き上げてから、太宰府に向けて全軍で一斉に進撃していたら、その撃退は容易ではなかったろう。

2-5-2 撤退時の謎

ところで、別な大きな疑問の一つは、元軍の浜からの撤退時の記録がないことである。八幡愚童記では、元軍は夕方退却を開始して、翌朝には博多湾から姿を消したことになっている。一夜にして元軍が撤退したと読めるような書きぶりとなっている。

今津に上陸したとすれば、夕方に博多から今津にまで撤退することは困難であることは既に述べた。元軍は、事前に祖原山に近い百道浜まで小舟を回して、そこから撤退したのだろうか?それだけでなく、夜間に大勢の兵士を海岸で小舟に乗せ、沖合の大船まで撤収して出航しなければならない。しかも捕らえた住民も連れて行ったようである。当時の状況では、夜間に短時間でしかも隠密裏にこれを行うことは事実上無理があると思われる。

[3]の説のように、博多周辺で10日程度戦ったとしても、元軍の撤退時の記述がないのは不思議である。元軍は不利だったために退却したのだろう。すると、日本武士団は、徐々に浜へ向けて元軍を追い詰めていったとしても不思議ではない。軍事常識では撤退戦は難しい。しかも、最後に兵士を船に収容するとなれば、なおさらである。通常ならば、浜に元軍を追い詰めて、一部の兵士は船に逃れたかもしれないが、日本武士団は多くの兵士を討ち取って大勝となるはずである。そうなれば、日本側はなにがしかの記録を残さないはずがない。

今まで書いた上陸方法は、元軍は沖合の大船から兵士や物資を小舟に積み替え、岸まで漕いで降ろし、また大船に戻ってこれを繰り返すことを前提にしている。しかし、元軍は上陸用に持ってきたパートル軽疾舟300隻に1回で乗れる数の兵士だけを上陸させた可能性もある。

その場合、1隻に漕ぎ手とは別に兵士20名が乗れるとすると [3]、上陸した兵士は多くても6000名程度となる(馬や当座の食糧の輸送を考えれば、実際はこれよりはるかに少ないだろう。 [3]は第1波を約3000名とみている)。それらの船は海岸で待機しており、戻ってきた兵士を乗せてすぐに沖合の大船に戻るというやり方である。しかし、このやり方は後続の兵士や物資をほとんど揚陸できないので、上陸戦というよりは威力偵察に近くなる。

いずれにしても、日本武士団が元軍の撤退を、去る者は追わずとじっと眺めていなかったとすれば、元軍がどうやってほとんど混乱なく陸上から撤退できたのかは謎である。


3. 文永の役の後

3-1 その後の使節

1275年4月、杜世忠を正使とする5名が元使として日本にやってきた。彼ら一行十数人は、博多ではなく長門の室津に到着した。鎌倉幕府は急いで長門の警備を固め、使節全員を鎌倉で斬首した。現在彼らの墓は鎌倉の常立寺にある。この時難を逃れた使節一行の一部が逃げ帰ったが、フビライが使節が斬首されたことを知ったのは5年後だった。

1279年に南宋を滅ぼした元は、前の使節が斬首されたことを知らずに、再び使節を送った。彼らも太宰府で斬首された。

3-2 防衛の強化

翌1275年、執権北条時宗は防衛を強化した。2月に異国警固番役を制度化した。異国警固番役とは、九州の御家人が交替で一定期間、要所の警護をするものである。

一方で異国征伐として、元の日本侵略の基地となっている高麗を、先制攻撃しようという計画が持ち上がった。いわゆる防衛のための敵基地攻撃である。実際に西国の水夫を集めたが、国内の争乱に疲弊していたためかこの計画は実現しなかった。一方で、元は1276年に南宋の首都臨安を陥落させた。

同年に幕府は、九州各国の守護、地頭などを集めて防衛協議を行ない、その結果、石築地の造築が決まった。石築地とは現在元寇防塁と呼ばれているものである。これは高さ約2m、幅3mの石垣で、海岸から50mほど内陸に作った。範囲は博多湾内の東は香椎から西は今津浜まで約20kmにわたった。約半年で作ったとされている。ただ博多湾は全てが砂浜ではなく、岩場もあるので、石築地が範囲内の全てに連続してあったわけではない。

3-3 総司令官を巡る争い

1280年に再度の日本侵攻を決意したフビライは、そのための政府機関「征東行省」を朝鮮に近い満州に設置した。そして高麗に対して日本へ侵攻するために、兵士10000人、水夫15000人、米11万石を用意するように命じた。

高麗内では、高麗の忠烈王とモンゴルに帰順した高麗人である洪茶丘との間に、日本侵攻の主導権争いが起こった。洪茶丘は元の高官であり、高麗内で元寄りの政策をとっていた。一方で忠烈王はフビライの娘と結婚し、妃が王女を出産したことから、皇帝の娘婿を指す「駙馬」の印を得ていた。

忠烈王は、このままだと洪茶丘が総司令官になることを危惧し、自分を征東行省の長にしてほしいとの要望をフビライに出した。フビライはそれを認めて「征日本軍元佩虎符(げんばいこふ)」の割り符を与え、高麗の忠烈王が日本侵攻の総司令官となった [1]。

元寇と神風(3)弘安の役 につづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.



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