2023年12月9日土曜日

元寇と神風(1) 背景と文永の役

はじめに

日本は古から神に守られた国という信仰があった。元は13世紀に2度日本征服のために侵攻した。日本は2度とも撃退に成功したが、その際に起こった歴史上の偶然の幸いが、この考えを強化した。一部の人々は、祈祷によって起きた強風が大損害を与えたために、元軍の撃退に成功したと主張した。このエピソードは、多くの人々に神が日本を救うために強風を起こしたと信じさせ、日本の思想に影響を与えた。

しかし、元寇で実際に何が起こったのかを、現代において正確に説明することは容易ではない。それは限られた歴史的文献における記述のあやふやさや違い、および人によるそれらの解釈の違いによる。現在、鷹島では沈没した元軍の船の引き上げ調査が行われている。これによる新たな事実によって、これまでの解釈が今後変わる可能性もある。

私は福岡市で暮らしていたことがある。埋め立てなどで元寇の時代とは変わってしまった部分もあるだろうが、少なくとも上陸戦に重要な博多の地形・地理には馴染みがある。ここでは、まず近年まで信じられてきた説を説明しながら、私が知っている範囲で専門家による新たな説も補足して、元寇時に起こったことを、気象を中心に説明することにしたい。なお、文献によって暦の表記方法が異なることがあり、ここでは文永の役は太陽暦、弘安の役は日本の太陽太陰暦を使っている。

1. 背景

1-1 文永の役前の使節

モンゴルのフビライは、モンゴル帝国の中で中国北部を領土としていたが、1264年にハーンの座を争っていた弟のアリクブケを降し、単独のモンゴル皇帝(ハーン)となった。そして、文永の役(1274年)までに日本に6回の使者を送った。

  1. 1266年、1回目。使節は朝鮮から日本に渡らず、国書も日本に届かなかった。
  2. 1268年1月、2回目。使節が太宰府まで来る。国書を渡すが返書を得られず帰国。
  3. 1269年2月、3回目。使節は対馬に到着するが、九州本土に渡れず、そのまま対馬から島人2名を連れて帰国。
  4. 1269年9月、4回目。使節は対馬で国書を渡すだけで、島人2名を対馬で返還して帰国。
  5. 1271年9月、5回目。使節(超良弼)は博多湾の今津浜に到着。入京を望むも許可されず、そのまま帰国。
  6. 1272年3月、6回目。使節(超良弼)は太宰府に到着し、そのまま1年近く留めおかれた末に帰国。

最初の使節は、高麗まで着た後、日本への渡航を躊躇して引き返している。5回目と6回目の使節である超良弼は、帰国後フビライに、日本に侵攻しても利点はないのですべきでないと進言した [1]。もちろん、当時海を渡ることは命がけだっただろう。しかし、それだけではなかったかもしれない。鎌倉政権は発足当初から血で血を洗う闘争を繰り返しており、そのことはある程度高麗にも伝わっていたと思われる。そのような気性の荒い日本人に、モンゴルへの服従を説得するのは困難、と見ていたのかもしれない。

文永の役の前は、モンゴルからの何れの使節も帰国を許したが、執権や天皇に謁見させなかった。また国書は鎌倉政権や御所へ送られたが、返書はモンゴルへ送られなかった。

1-2 モンゴルの目的

モンゴルの他国の支配は、出先機関として徴税官(ダルガチ)を配置して税金を徴収するだけだった。その地の既存の政権や宗教には干渉しなかった [1]。そのため、日本を配下に置けば税金を徴収できるという期待はあったのだろう。しかし、それ以外の目的があったかどうかについては定説がない。

他の目的としては、当時モンゴルは南宋の征服の途上であり、南宋と通商している日本が、モンゴルが結ぶことによって南宋を孤立させるため [2]、軍事物資である硫黄の南宋への供給を止めて、逆にモンゴルがそれを手に入れるため [3]、征東行省という日本を攻略するための役所の官僚の出世欲のため [1]、弘安の役では、征服した南宋軍の始末のための植民のため [1] [4]などが挙げられている。

1-3 当時の日本の状況

1268年3月に北条時宗が第8代執権に就任した。北条時宗は、執権になる前から連署という立場で政治に関わっており、彼は元からの使者の意図を含めて、元と南宋との動向に詳しかったと思われる。2回目の使節(日本に来た最初の使節)を元に戻すと、すぐに西国の守護に異国の襲来に備えるように指示を出している。また、朝廷も「異国降伏」の祈祷を全国の神社に命じている。それらの対応を見ると、おそらく最初から元と結ぶ気はなかったと思われる。

1272年には二月騒動が起きて、時宗は異母弟である北条時輔とその一派を討伐した。とかく争乱が多い鎌倉時代だったが、これで時宗政権に反抗する大きな勢力はなくなり、元に対する挙国一致体制が築けたという説もある。そして、この北条時宗の政権下で元寇を迎えることとなる。

1-4 当時の朝鮮半島の状況

朝鮮半島の当時の状況にも触れておいた方が良いかもしれない。当時の朝鮮半島の政権である高麗は、1231年から1259年まで6回にわたってモンゴルの侵攻を受けていた。そのたびほぼ全土が蹂躙され、和議を結ぶことを繰り返していた。高麗内部も徹底抗戦派とモンゴル帰順派に分かれており、帰順派の高麗人の一部はモンゴルに逃れた上にモンゴル側に寝返った。また侵攻のたびに多数の住民がモンゴルに連れ去られた。

そのためモンゴルには、モンゴルに帰属する高麗人も一定数いたようである。1260年にフビライがモンゴルのハーンに即位し、高麗も元宗が即位すると、高麗は元に降伏して、親元路線をとるようになった。1274年に元宗が亡くなり、息子が即位して忠烈王となると、その流れはより確かとなった。そして、文永の役を迎える。

2. 文永の役(1274年)

13世紀に東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国の皇帝フビライは、1271年には元と国名を改め、上記のようにその前後から使節を日本へ6回派遣した。 [1]は、他の地域への場合のようにいきなり侵攻せずに、モンゴルが8年間にわたって6回の使者を日本へ送り続けたのは異例と述べている。しかしモンゴルは、2回目の使節が戻る前の1268年に、高麗に対して日本侵攻のための船の建造を命じていた。和戦両構えだったことがわかる。

元と国名を改めていたモンゴルは、何度も送った国書に対する返書を行わない日本に対して、1274年にいよいよ侵攻を決意した。高麗は元はとともに侵攻するための軍を準備するように指示された。

一方、日本の鎌倉幕府の執権北条時宗は元の襲来を予想して、西国の防衛を固めた。しかし、それは幕府としての統一的な防衛軍を組織したのではなく、西日本の御家人たちにそれぞれの手勢を率いた防衛を指示したものだった。

2-1 元軍の構成

1274年の最初の侵攻では、日本征討都元帥にヒンドゥ(忻都)、征東右副元帥に洪茶丘、同じく左副元帥に劉復亨、そして都督使に金方慶が任命された。ヒンドゥのことは元の公式記録になく、彼のことはよくわかっていない。彼は1271年に高麗で起こった三別抄の乱の鎮圧にあたったモンゴル軍の将軍の一人だった。元の公式記録に記載がないことから、彼は服属したどこかの地域の異民族出身だったと考えられている。

 [1]は、彼を部族を率いた代表ではなく、能力を買われた軍人官僚として日本遠征の総司令官の地位に就いたとしている。洪茶丘は高麗人であるが、上述したモンゴルに帰順した高麗人の息子である。劉復亨は、漢人か女真人とみられている。金方慶は高麗人である。彼は高麗軍を束ねるのに必要だったのだろう。

侵攻軍の司令部にモンゴル人はいない。元が直属のモンゴル人部隊を異民族の配下に置くとは考えにくく、遠征軍は異民族からなる混成軍であっても、その中にモンゴル人部隊はいなかった可能性がある。その上、同じ高麗人でもモンゴルに帰順していた洪茶丘の方が金方慶より上位に位置している。司令部も複雑な混成軍であったことがわかる。モンゴル人はいなくても、馬の扱いに長けた民族の兵士はいたと思われる。

高麗史によると、元軍は高麗軍と合わせて兵士約2万6000人と船約900隻から成った [3]。元史からはもう少し詳しいことがわかる。それによると、侵攻軍は「千料舟」と呼ばれる大型の船が300隻、「バートル軽疾舟」という小型の船 が300隻、「汲水小舟」つまり補給船が300隻の合計900隻からなった [1]。兵士は、屯田軍・女直(女真) 軍・水軍で構成された元の遠征軍が15000名(元史日本伝)、そして高麗軍が8000名、操船に関係する者が6700名(東国通鑑)とされている [1]。

2-2 日本への上陸(11月26日)

2-2-1 対馬と壱岐での戦い

元軍は1274年11月11日(太陽暦)に対馬の佐須浦に姿を現して上陸した。対馬の守護代が数十名で迎え撃ったが、鎧袖一触というのだろうか、数で圧倒された。元軍は付近を蹂躙した。対馬は高麗から九州への補給基地となった。元軍は11月20日には壱岐の勝本に姿を現した。壱岐の守護代は、対馬から元軍の襲来の連絡を受けて防備を固めていた。しかし、元軍数百人が勝本に上陸して、その日のうちに城を破られて、守護代は自刃した。

27日には鷹島に元軍800名が上陸し、鷹島一族と松浦党など数十名が応戦したが、鷹島一族は全滅し、松浦党の一部は島を脱出した [5]。ただし、 [3]は鷹島に関する記述は、明治に編纂された八幡愚童記の伏敵編にのみ収録されて、それ以外の八幡愚童記にはないので、事実ではないとしている。

2-2-2 博多湾上陸

11月25日夕に元軍はいよいよ博多湾に姿を現した。翌26日朝元軍は博多湾内西端の今津浜に上陸した(夜半から未明に上陸したとの説もある [3])。今津浜は砂浜で大きな入江になっており、多数の船舶が停泊して上陸するには都合が良かったのだろう。 [5]は今津浜の日本側の防備は30名程度で薄かったとしている。

その日に元軍は、東に向けて長垂(ながたれ)海岸、生の松原、姪浜、百道浜、赤坂へと、今の福岡市の中心部に向けて筥崎宮付近まで、各地で戦闘しながら進軍した。そうだとすると、湾内の南岸はほぼ押さえられたことになる。今津浜から筥崎宮まで歩くと約22kmある。不可能ではないが、重装備の兵士が戦闘しながら歩くのは困難だろう。別働隊が、小型船でどこかに上陸したのかもしれない。

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)。燈線は、元軍がたどったと思われる経路。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに、地名や経路を追記して使用)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)。クリックすると拡大。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

[3]によると、最初(第1波)の元軍の上陸部隊の人数は3000名で、それを迎え撃った警固山の日本武士団は、馬上の武士1000騎を含む3000名程度だったとされている。元軍は他の場所にも上陸していたかもしれない。時間はかかると思われるが、第2波、第3波が順調に上陸していれば、数の上では日本勢を圧倒していたかもしれない。

竹崎季長奮戦図

竹崎季長奮戦図。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

ともかくも日本武士団はこれを迎え撃ち、激戦となった。相互の戦法は異なっていた。日本は伝統的に単騎で矢合わせしてから勝負を挑もうとしたが、元軍はいきなり太鼓を合図とする集団戦法をとった。また「てつはう」という鉄砲の原型となる火器を用いた。この戦いの日本での唯一の記述である八幡愚童記には、元軍は「鎧軽く、馬に良く乗り、力強く、命惜まず、豪勢勇猛自在極りなく、良く駆け引きせり」と記されている。

武士団は長射程の弓矢で対抗したものの、武士たちは不利となり水城までの退却を始めた(水城とは奈良時代に博多と太宰府の間に作られた、全長約1.2kmの土塁を持った水堀である)。ところが八幡愚童記によると、追撃してきた敵の副将劉復亨に対して、大将である少貳景資が放った矢が命中した。これに元軍は動揺した。このとき日没となり元軍は船へ戻った [6]。

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている [3]。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

2-2-3 元軍の撤退

その夜元軍は日本から撤退し、翌朝に元軍の姿はなかった。八幡愚童記は次のように記している。

さる程に夜も明ぬれば廿一日(注:太陽暦の26日のこと)なり。あしたに松原を見ればさばかり屯せし敵もあらず。海のおもてを見渡すに、咋日のタベまで所せまし賊船一艘もなし。こはいかに、いづくへは隠れたる。・・・皆打たれたまたま沖に逃のびたるは、大風にふき沈められにけり。この事先に生捕れたる日本人のその夜帰り来て語ると、今朝生捕りたる蒙古が言と同じ事なりければ、更に誤りあるべからず。 [6]

座礁した船が1隻あり、約50名が捕虜となった。彼らの証言と船から逃れた日本人の言から、船は沖で大風で沈んだとなっている。これが元軍の撤退を神風のなせるわざとなった起源の一つとなったのだろう。

元軍が撤退した理由には、日本武士団の抵抗が激しいことや副将が負傷したことが挙げられている。また日本武士団は、付近の住民を放置して避難させていなかった。多数の住民が元軍に捕らえらたり、家から放逐されたりしたが、残った大勢の住民が、夜間に避難しようとして利用した松明を、元軍が日本の新たな援軍と見間違えたことも挙げられている [6]。

元寇と神風(2)へとつづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.





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