2026年5月13日水曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(3) ベルゲン学派との出会い

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  


3. ベルゲン学派との出会い 

1920年頃、ノルウェーではヴィルヘルム・ビャークネスを中心とする小さな気象学グループ(ベルゲン学派)が新しい手法による気象予報を行っていた。その新しい手法とは、低気圧周辺の気団の境目である前線という狭い構造を立体的に捉える手法である。それまでの気象予報は、低気圧の周辺は天候が悪くなるという漠然としたものだった。ベルゲン学派による新しい手法は、気象解析によって天候が変わる場所と時刻とその内容をそれまでより正確に予測できるものだった。

その初期のグループにはヤコブ・ビャークネス、ハルバー・ソルベルグ、トル・ベルジェロン、カール・グスタフ=ロスビーなどがいた。彼らがノルウェーで行っていた予報は、第一次世界大戦での物資不足による飢饉を救うため、農業・漁業生産を上げるためだった。漁船の被害軽減や牧畜用干し草の生産に、この手法の有用性が確認されたため、政府からその拡大を求められていた。またベルゲン学派も自分たちの低気圧モデルを発展させた極前線という新しい概念を広めようとしていた。それは低気圧の生成消滅過程を地球規模で議論しようとするものだった。資金は政府の協力によってなんとか目途がついたが、当時の気象学はマイナーで目立たない分野であり、優秀な人材の確保に困難を極めていた。

ペターセンはオスロ大学で地球物理学の専攻を希望していたが、その希望分野に気象学は入っていなかった。当時の伝統的な気象学は専門分野として確立しておらず、地球物理学の一部として物理法則を使わずに叙述的に教えられていた。しかしヴィルヘルム・ビャークネスは、その気象学を改革して、科学化された分野として確立しようと奮闘していた(「気象予測の科学化とノーベル賞」を参照)。オスロ大学の一部の教授はそのことを知っており、ペターセンに将来有望だからと気象学を勧めた。

ベルゲン学派は自分たちの気象学を広めるべく手広く活動しており、その一環で1923年春にオスロ大学で資金援助がついた採用のためのセミナーを開催する予定だった。ベターセンはセミナー開催のためにやってきたベルシェロンの面接を受けて、セミナー参加者として選ばれた(ベルシェロンはのちに雨が降るメカニズムの解明などを行うことになる)。ペターセンはこのセミナーに必ずしも感銘を受けたわけではなかったが、典型的なボヘミア的な芸術家肌を持ったベルシェロンには惹かれたようである。それでもペターセンは迷っていた。彼は気象学へ進むべきかどうかを正直にベルシェロンに相談した。 

トル・ベルシェロンの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Tor_Bergeron#/media/File:Tor_Bergeron.jpg

 ベルシェロンは192210月に北ヨーロッパを襲った有名な嵐の解説をペターセンに行った。従来の気象学者たちはこの嵐に対する警報の発表に失敗したが、ベルゲン学派はこの嵐の事前警報に成功していた。ベルシェロンは、なぜベルゲン学派がこの警報に成功したのかということを夢中になって熱い思いで語ったようである。これがペターセンが気象学への道に進む決め手となった。

その際にペターセンは、気象学を祖父のような耳で吹雪の中を進むことができるような漠然とした「技術」ではなく、「科学」として気象を定式化・数値化することに努めなければならないと決意した。そして気象予報とその予測可能性を集中して勉強することにした[1]。

オスロ大学の学生でありながらベルゲン学派グループに属することになったペターセンは、学資の心配から解放されて、軍籍から離脱した。彼は氷河の調査やベルゲン学派での一時的な予報官助手を務めた後、オスロ大学の修士課程を修了した。そして彼は、ベルゲン学派の新進気鋭の気象研究者としてトロムソの地球物理学研究所に職を得た。そこでアムンゼンなどによる北極探検と関わることになる。

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

 

0 件のコメント:

コメントを投稿