フンボルトについては本の「5-1-1アレクサンダー・フォン・フンボルトについて」でその生涯と業績、および気候図の作成についてまとめているが、少しその補足を行っておきたい。
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フンボルト |
ドイツの博物学者、探検家であるアレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt, 1769-1859)は、若い頃言語学、解剖学、地質学と天文学を含む幅広いさまざまな研究分野をハンブルグ、イェナとフライベルクの大学で勉強した。卒業の後、1792年にプロシア政府の鉱山の調査官となった。彼は鉱山の調査だけでなく植生の調査も行い、この仕事によって彼は自然研究者でもあった著名な詩人ヨーハン・ウォルフガンク・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の注目を受けた。
フンボルトはゲーテによって多くの科学者や知識人との知遇を得た。フンボルトの探検時以外の人生の多くはサロンなどでの知的議論に費やされることになった[1]。それにはドイツの詩人、歴史学者、思想家フリードリヒ・シラー(Friedrich
von Schiller)とアメリカの海洋学者、地質学者、古生物学者ルイ・アガシ(Jean Louis
Agassiz)、アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者ヘンリ・デイヴィッド・ソロー(Henry David
Thoreau)、イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者チャールズ・ダーウィン(Charles Robert
Darwin)など当時の主要な知識人の多くとの議論を含んだ。
フンボルトと親友の植物学者ボンプラン(Aimé Bonpland)はスペインの首都マドリッドに行った際に、スペイン国王カルロスIV世からアメリカ大陸スペイン領の探検の許可を得た。この後、1799年から1804年まで中南米スペイン領とアメリカ合衆国を延べ1万キロメートルにわたって旅行した。そしてその結果を「Le voyage aux régions equinoxiales du Nouveau Continent, fait en
1799–1804(1799-1804年に行われた新大陸の回帰線地域への旅行)」に発表した。彼の探検は、ラテンアメリカに対する世界の一般的な見方が変わるほどの成果を得た。
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フンボルトの探検ルート(https://es.wikipedia.org/wiki/ Archivo:Mapa_del_viaje_de_Alexander_Von_Humboldt _en_el_Continente_Americano.pngより) |
フンボルトは探検時に高度、温度と磁場を測定し、地質を調査し、岩、植物と動物の標本を集めた。彼はデータや標本を取得する際に注意深く科学的に行い、特別な注意を払って測定場所や標本の取得場所をきちんと地理的に特定して記録した。これらのフンボルトによる探検のやり方はそれまでの一般的な探検の手法とは異なっており、科学的な資料収集と分析という点で探検のやり方に革命をもたらした。
それまでのように単にデータや標本を収集するだけなく、彼は収集したデータや標本の正確さやそれに付随する情報の正確さに重点を置いた[1]。彼は最初の全球の地磁気および気候地図を作成し、南米の地質学的断面図を描き、収集したサンプルをきちんと分類した。5-1-2「気候図の発明」に記した気候図をはじめとして、このような手法はその後新たな学問の手法を確立するための手法となっていった。
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フンボルトが描いたチンボラソ火山の植物分布 |
これらをもとにフンボルトは「Relation
historique du Voyage aux Régions équinoxiales du Nouveau Continent, etc.
(1814–1825),(新大陸の回帰線地域への旅行の歴史との関係(1814-1825))」を出版し、これによってアンデス山脈の植物相と動物相を明瞭な気候学的で地形学的な背景を考慮しての社会の進化に潜在的に影響を及ぼす気候変動への人間の影響を説明した[1]。
フンボルトとコロンブスとの比較
時代背景が異なるので同列に比較することは難しいが、探検によってアメリカ大陸を発見したコロンブス(Christopher Columbus, 1446-1506)と比較してみると時代の違いとフンボルトの立ち位置がよくわかるかもしれない。本の「2-3-1熱帯の横断と新世界」で紹介したように、コロンブスはアジア航路の開拓という名目で大西洋を西へ向かった。しかし彼には営利目的もあった。彼は探検前に巨額の探検費用の大半を負担するスペインのイサベル女王とサンタ・フェ契約を結んでおり、発見した土地の統治権とそこからの利益の1割を得ることになっていた。そのため、後述するように新大陸側から見ると彼は厄災を巻き起こすことになった。
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コロンブスの航路(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Viajes_de_colon_en.svg) |
一方フンボルトの探検費用は自前であり、探検によって発見された資源の所有権は全てスペインに帰することになっていた。つまりフンボルトは世俗的な利益には興味がなかったことがわかる。おそらく科学的な発見やそれに基づいた人々との交流に悦楽を見出していたのではないだろうか。フンボルトが発見した知見は世界に科学的な恩恵をもたらした。
話は脱線するが、当時の多くの地理学者や探検家は、探検に政治的な境界(つまり国家利益の分岐線)を定めることにも興味を持っていた。つまり発見した土地とその資源は発見者の国の所有となるためである。当然その度合いに伴って発見者にもたらされる恩恵も多かっただろう。1494年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたトルデシリャス条約(Treaty of
Tordesillas)でヨーロッパより西側世界の領有権の境界が子午線に従って定められた(西側がスペインで東側がポルトガル)[2]。
1500年にポルトガル人カブラル(Pedro Cabral)が率いるポルトガル遠征隊が南アメリカ大陸(ブラジル)東端に漂着した。そこがトルデシリャス条約境界の東側であることがわかったため、それがきっかけで旧ブラジルはポルトガル領となった。これが南アメリカに(広大だが)ぽつねんとブラジルというポルトガル語圏がある理由である。
スペイン領ではなかったため、フンボルトはポルトガル領ブラジルには行っていない。ただし、当時の「南北アメリカ大陸」は、ポルトガル領ブラジルと独立したばかりの北アメリカ東部のアメリカ合衆国を除いて、大半がスペイン領であったことには注意する必要がある。フンボルトはその広大なスペイン領を自由に探検する許可を得ていた。
ちなみに1529年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたもう一つのサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)は、西太平洋の分割境界線(子午線)を定めており、これはヨーロッパ諸国が日本を含むアジアに進出するきっかけの一つとなった。大航海時代はヨーロッパにとって新たに発見した土地の自由な切り取り合戦をも意味した。これはデマルカシオン(世界領土分割体制)とも呼ばれる[2]。日本の戦国時代に送られた宣教師たちはそのための偵察・情報収集であった面もあった。ただし正確な経度測定の困難さとその後のヨーロッパ諸国の力関係の変化により、アジア各地域の領有は複雑な経緯を辿った。その影響は第二次世界大戦前までアジアの植民地や宗主国という形で残った。
閑話休題。フンボルトは、取得したデータやサンプルを自ら分析するだけでなく、データとサンプルの多くを共有にして、科学者間の国際的でオープンな議論を確立しようとした。彼の業績は科学的に高く評価されている。そのためかフンボルト大学、フンボルト海流、フンボルトペンギンだけでなく、地形や自然では湾、川、林、野生保護区、沼地、湖、山脈、山や山脈、森林、国立公園、滝、動物ではイカ、コウモリ、サル、スカンク、カタツムリ、甲虫、川イルカ、植物では顕花植物、マメ科植物、肉食植物、サボテン、樫、ラン、
ユリ、キノコ、宇宙にも月の海、二つの小惑星にフンボルトの名が冠されている[3]。さらに彼は自由と平等を唱え、奴隷制と搾取による植民地主義を非難し続けてもいた。
一方でコロンブスは新大陸発見では有名であるが、彼は金や植民地を得るためにアメリカインディアンを虐殺し(アメリカインディアンに免疫のない伝染病をまき散らした面も大きい)、またアフリカ人を植民したことでも知られている。コロンブスの行った政策はその後の南米での植民地統治のモデルともなった。その後の厳しい植民地政策と伝染病により、南米・中米のマヤ、アステカ、インカ文明などは次々と滅んでいった。コロンブスは新大陸をアジアと主張したこともあってか、新大陸は後に探検したアメリゴ・ベスビッチにちなんで、アメリカ大陸と名付けられた。コロンブスの名前は南米のコロンビア共和国に残っているだけである。
ちなみにフンボルトの兄の言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)は、大学を改革して近代的な大学のモデルとなったベルリン大学(Humboldt-Universität zu Berlin)を創設しただけでなく、後にプロイセンの教育相、内相まで務めている。
なお、フンボルトについては、その生涯や膨大な業績について多数の著書が出ているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。
[1]Becker, T. W., and C. Faccenna (2019), The scientist who connected it all, Eos, 100, https://doi.org/10.1029/2019EO132583. Published on 11 September 2019.
[2]平川 新-2018-戦国日本と大航海時代, 中公新書, 中央公論新社.
[3]http://vincentdamiangabrielle.com/uncategorized/why-is-everything-named-humboldt-our-city-forest/