2020年10月5日月曜日

トマス・アクィナスによるアリストテレス自然哲学とキリスト教の調停

 アリストテレス自然哲学による二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、地上界の出来事(法則)には必然的に天上界が作用するという考え方(ここでは「地上事象天因説」と呼ぶ)の基本となった(本の1-2「プトレマイオスによる天文学と占星学の始まり」と「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)。地上事象天因説という考え方には占星術による運命決定論のようなものが含まれる。地上界のあらゆる出来事は天上界の動きによって予め決まっているという考え方である(「・・・の星の下に生まれた」という言い方はそのような考えに基づいている)。

 ところで、キリスト教にとっては自由意志を持つことは不可欠であった。地上事象天因説による「星の動きが自然の法則的必然性に従って人間の運勢や地上界の事象に影響を及ぼす」という考え方は、キリスト教から見ると全能のはずの神の働きを不当に制限するものであり、占星術による運命論・決定論は人間の自由意志と道徳的自律にも反することになった。

 そもそも神による奇蹟を認めるキリスト神教は、自然が自身の法則性にのっとって自律的に振る舞う古代ギリシャ自然哲学の世界観とは相容れない。4世紀から5世紀にかけてのキリスト教の聖人アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)は、自然に対する知識欲を「目の欲」として現世の罪の一つに挙げ、知識欲は他の肉体的欲求と同様に克服すべき欲望と見なされ、自然の探求は禁止すべきとした。

 キリスト教会は、400年の第1トレド教会会議で「占星術や骨相学は信頼に価すると考える者は排斥される」と決議し、さらに561年の第1プラガ教会会議でも占星術を公式に否定した[1]。その後、ヨーロッパでは古代ギリシャ哲学の書物は、イスラム圏に流出したもの以外は教会の書庫の奥に眠ることとなり、その内容は次第に忘れ去られてしまった。そのため、この時期を科学の暗黒時代と呼ぶことがある。

 ところが12世紀ルネサンスの過程で、イスラム圏からの流入によって、ヨーロッパの知識人たちはアリストテレス自然哲学の地上事象天因説に基づく占星術を知ることになる。そしてアリストテレスの自然哲学が大学で教育され西欧の知識階級に浸透してゆく過程で、地上現象天因説に基づく占星術は一般の人々を広く魅了して浸透していった(本の「2-1-2古代ギリシャ哲学の復活」参照)。キリスト教は、一方的な禁止や弾圧ではアリストテレスの自然哲学を抑えきれなくなってきた。その危機に直面したキリスト教神学を救ったのが、13世紀のドミニコ会士トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)である[1]。

トマス・アクィナス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:St-thomas-aquinas.jpg

 問題は、天上界がどこまで地上界に影響を及ぼすのかだった。トマス・アクィナスは、「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」としてキリスト教と地上事象天因説を調停した。彼の神学思想は、死後一時異端と判断されたが、1322年に復権してキリスト教世界で公式に認められ、14世紀中期に正統神学の地位を確立した。1348年から翌年にかけてヨーロッパを襲ったペストにさいして、正統派キリスト教神学の総本山だったパリ大学は、ペスト発生の原因を天上界の影響として国王に報告した。つまりキリスト教は地上事象天因説を完全に認めた[1]。

 こうして、アリストテレスなどによる古代ギリシャ自然哲学は、公に研究できるようになった。ここを出発点として、アリストテレスやプトレマイオスの宇宙論も研究されるようになった。また占星術の隆盛は、より正確な天文知識を求める需要を引き起こし、天文学の研究を後押しした。これらは、引いてはいわゆる科学革命へとつながっていくことになった。アリストテレスの二元的宇宙像」では二元的宇宙像の科学への貢献を述べたが、そのためには、キリスト教の教義を乗り越える必要があった。神学者トマス・アクィナスはそれを可能にし、その後の科学の進歩に大きな影響を与えた。

(次は、成層圏準二年振動の発見(1) クラカトア東風とベルソン西風

Reference

[1]山本義隆、世界の見方の転換1 天文学の復興と天地学の提唱、みすず書房、2014.

2020年10月2日金曜日

アリストテレスの二元的宇宙像

 アリストテレスの二元的宇宙像については、本の1-1-2「アリストテレスの宇宙像」で触れた。この考え方は、その後の自然哲学、あるいは後世の科学、占星術に多大な影響を与えた。そのため、改めて整理しておきたい。

 アリストテレス自然学では、月下の世界は土・水・空気・火の四元素より成り、それらは相互に移り変わることが可能としている。この月より下の常に転化して生成・変化・消滅を繰り返す世界は「地上界」と呼ばれる。それに対して月とそれより先のエーテルよりなる世界では決して転化することがなく、生成や消滅は見られない。この不変の世界は「天上界」と呼ばれる。彼はそれぞれの世界は別な法則に従っていると考えた。この考え方は二元的宇宙像(論)と呼ばれている[1]。

アリストテレスの二元的宇宙像

アリストテレスの二元的宇宙像

 このアリストテレスによる二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、「地上界の出来事には必然的に天上界が作用している」という考え方の基本となった。月齢による海の干満や曇りの日でも花が太陽の方向を向く植物などから、当時の人々から見ればこれは当然であった。これをここでは「地上事象天因説」と呼ぶことにする。ちなみに東洋では古くから「天人相関説」が有名で、これは易姓革命など人間の行為が天にも影響するため双方向性である。西洋での古代ギリシャ自然哲学は単方向で、地上界は天上界に影響を与えることはない。

 地上事象天因説の考えは、地上界の出来事の原因を天上界(つまり星の動き)に求める占星術(学)が隆盛するもとともなった。本の1-2「プトレマイオスによる天文学と占星学の始まり」や「気象予測の考え方の主な変遷(2)天文観測と占星学の登場」で書いたように、プトレマイオスはこの法則性を綿密に探るために彼の著書「アルマゲスト」で、将来の惑星の動きを(誤差は大きかったが)計算して予測できる宇宙モデルを初めて構築した。そして地上事象天因説の法則性を探ろうとした著書「テトラビブロス」では、気象と天体の動きとの関係についても述べている。これは占星気象学となって、やはり中世に大きな影響を与えた。ドイツの天文学者ヨハネス・スタビウスや医師カルダーノはテトラビブロスの気象予測の部分を高く評価していた[1]。

 この影響を受けた研究者として、16世紀のデンマークの有名な天文学者チコ・ブラーエがいる(本の3-1-2「ティコ・ブラーエの占星気象学と天体観測」参照)。彼は占星学の研究者でもあった。彼は精巧な天文観測装置を作ったことで有名だが、その動機の一つとして、天上界の地上界への影響の法則を正確に捉えられないのは観測精度が足らないと考えたことも動機となっている。そして地上事象天因説の影響が最も現れるものの一つとして気象を取り上げた。彼は天文観測しながら1582年の10月から1597年の4月まで、15年間にわたってヴェーン島で気象観測の記録を残している。これは占星気象学の検証のためと思われている[3]。

 チコはこうも述べている。「太陽は四季の循環をもたらし、月の満ち欠けにともなって・・・、潮の満ち干が生じる。・・・経験を積んだ観測者は、惑星の配置が天候に大きな影響を及ぼすことを知っている。火星と金星が天のある場所で会合するとき雨や雷が生じ、太陽と土星の会合では大気が濁り不快になる。太陽と恒星は毎年おなじように動くが、惑星はそうではないために、天候は年ごとに異なる。」[1]

 こういう考えをもっていたのは、決してチコだけではない。フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンは「天の影響はしばしば暴風、旋風、また種々の天候、長雨の原因となるからである。」と述べている[2]。ヨハネス・ケプラーは占星術者としても有名だった(本の3-1-3「占星気象学者ケプラーによるケプラーの法則の発見」参照)。彼の占星術的予言はもっぱら自然占星術であり、その大部分が気象予測であった[3]。彼の著書「第三の調停者(Tertius Interveniens)」でも1592 年から1609年までの16 年間にわたって気象観測を継続して、その間に観測された星相と天候異常の関係の実例をいくつも記している[3]。また著書「世界の調和(Harmonices Mundi)」の中でも「ひたすら天候を観察し、そういう天候を引き起こす星相の考察をしたからであった。すなわち、惑星が合になるか、一般に占星術師が弘布した星相になると、そのたびに決まって大気の状態が乱れるのを私は認めてきた。」と述べている[3]。

 この地上事象天因説のもととなっている「天上界」と「地上界」という考え方が終焉するのは、ニュートンによる万有引力の法則の発見によってである(本の3-2-4「ニュートン力学の誕生」参照)。この法則によって天上界と地上界とに同じ法則が適用できることがわかった。この法則は天上界と地上界の区別を消し去り、これが彼が発見した万有引力(universal gravitation)にわざわざ「万有」と断わり書きが入っている理由の一つである。

 ところが、占星術は天上界による地上界への影響がはっきりしないまま、星の動きを「未来を指し示す予兆」と捉える星占い(ホロスコープ)として、幅広く民衆に広がっていった(本の2-1-3「占星気象学の普及」気象予測の考え方の主な変遷(3)ローマ時代と中世を参照)。他方、この人々に広がった星占いは、そのためのエフェメリス(天体暦)やアルマナック(生活暦)という惑星を含む天体の正確な運行という強い需要を喚起し(これがないと星占いが出来ない)、チコやケプラーによるその後天文学の発展を推進する動機ともなった。これは結果として、いわゆる科学革命へとつながっていった面があった。

このようにアリストテレスの二元的宇宙像は、後世に大きな影響を与えたのである。

(次はトマス・アクィナスによるアリストテレス自然哲学とキリスト教の調停

Reference

[1]山本義隆、「世界の見方の転換1 天文学の復興と天地学の提唱」、みすず書房、2014年、ISBN 978-4-622-07804-3 C1340.

[2]山本義隆、「世界の見方の転換2 地動説の提唱と宇宙論の相克」、みすず書房、2014年、ISBN 978-4-622-07805-0 C1340

[3]山本義隆、「世界の見方の転換3 世界の一元化と天文学の改革」、みすず書房、2014年、ISBN 978-4-622-07806-7 C1340

2020年9月14日月曜日

これまでのタイトル(62~99)の整理

これまで書いたブログ(62~99)の目次を整理しておきます。
タイトルを
俯瞰して見て、目的のブログにアクセスすることができます。


62 フォン・ノイマンについて(1)イントロダクション
63 フォン・ノイマンについて(2) 育ちと性格
64 フォン・ノイマンについて(3) 数学への貢献
65 フォン・ノイマンについて(4) 量子力学への貢献
66 フォン・ノイマンについて(5) 戦争への協力
67 フォン・ノイマンについて(6) 経済学への貢献
68 フォン・ノイマンについて(7) 電子コンピュータの開発
69 フォン・ノイマンについて(8) 原子爆弾の開発
70 フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1
71 フォン・ノイマンについて(10)数値予報への貢献2
72 フォン・ノイマンについて(11)戦略ミサイルと核戦争抑止
73 フォン・ノイマンについて(12)彼の死とまとめ
74 気象予測の考え方の主な変遷(1)古代ギリシャ時代
75 気象予測の考え方の主な変遷(2)天文観測と占星学の登場
76 気象予測の考え方の主な変遷(3)ローマ時代と中世
77 気象予測の考え方の主な変遷(4)大航海時代と科学革命
78 気象予測の考え方の主な変遷(5)科学革命のその後
79 気象予測の考え方の主な変遷(6)近代の始まり(18~19世紀)
80 気象予測の考え方の主な変遷(7)気象学の近代化
81 気象予測の考え方の主な変遷(8)数値予報の発達
82 富士山における気象観測(1)明治初期まで
83 富士山における気象観測(2)野中夫妻による観測
84 富士山における気象観測(3)富士山頂での通年観測
85 富士山における気象観測(4)山頂への送電線設置
86 富士山における気象観測(5)山頂へのレーダー設置計画
87 富士山における気象観測(6)レーダー施設の建設
88 富士山における気象観測(7)レーダードームの設置
89 富士山における気象観測(8)富士山レーダーの完成後
90 台風による第4艦隊事件 (1), The Fourth Fleet incident (1)
91 台風による第4艦隊事件 (2), The Fourth Fleet incident (2)
92 台風による第4艦隊事件 (3), The Fourth Fleet incident (3)
93 台風による第4艦隊事件 (4), The Fourth Fleet incident (4)
94 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(1)
95 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(2)
96 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(3)
97 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2(1)
98 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2(2)
99 「サイクロン」という言葉について



2020年9月10日木曜日

「サイクロン」という言葉について

 現代日本では、「サイクロン」というとサイクロン式掃除機を思い浮かべる方も多いと思われる。この響きは、渦を巻いて吸い込む激しい風を想像するのにふさわしいかもしれない。インド洋の嵐がサイクロンと呼ばれることがあるが、名称としてはこちらが本家である。ただし、これは正式名称ではない。世界気象機関(WMO)では、北インド洋の風速17 m/s以上の嵐については、サイクロニック・ストーム(cyclonic storm)と呼ぶことになっている。

 インド洋の嵐を正式にはサイクロンと呼ばない理由は、サイクロンという言葉は欧米では低気圧全般ついて広く使われているからである。例えば英語では熱帯低気圧をトロピカル・サイクロン(tropical cyclone)、それ以外の中高緯度の低気圧をエクストラトロピカル・サイクロン(extra-tropical cyclone)として区別している。その経緯については、[1]が詳しいので、そちらを参照していただきたい。

 インド洋の嵐がサイクロンと呼ばれるようになった理由は、本の3-6-3「ヘンリー・ピディントン」に書いたように、18世紀のイギリスの船乗りであるヘンリー・ピディントン(1797-1858)が、嵐を「蛇がとぐろを巻く」という意味のギリシャ語から名付けたためである。彼はインド洋での貿易船の船長とされているが、嵐に関する著書が2つある気象学者でもある。また海難審判所の所長も務めている。彼は1848年に書いた「船乗りのための嵐の法則についての手引き(The Sailor's Hornbook for the Laws of Storms)」の初版の中で、「あらゆる旋風について、ギリシャ語の'Kuklws'(とぐろを巻く蛇を意味する)からサイクロンという言葉の採用を提案する」と述べており、これがサイクロンの語源とされている。

 ところが、彼の意図はその後これと少し変わったようである。というのは、1851年に出した上記の第二版では、彼はサイクロンの語源を'Kuklws'ではなく、'Kuklos' に変更しているからである[2]。'Kuklos'とは言葉ではなく、回転を意味するギリシャ語の語根である。'Kuklos'と'ops(眼)'を合わせた英語に、海神から生まれた一つ眼の巨人Cyclopses(キュクロープス)があり、同様に'Kuklos'と'stoma(口)'を語源に持つ英語として円口類を指すCyclostome がある[2]。円口類とは、口から吸い込んだ水を体側から排出して呼吸するヤツメウナギなどの魚類を指す。

 

エラスムス・フランキスキ(Erasmus Francisci)の著書に見られるキュクロープスの挿絵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Libr0328.jpg

 つまりピディングトンは、これらの英語が'Kuklos'を語源に持っていることから、サイクロンという新たな言葉にそれらと同じ語根を持たせることによって、単に回転する旋風という意味だけではなく一つ穴から空気を吸い込む巨大で破壊的な旋風という意味を加えたかったのではないかと[2]は述べている。たしかに動かない「とぐろを巻いた蛇」よりは、こちらの方が嵐に対してはるかに活き活きとした動的なイメージが湧く。ピディントンは、サイクロンの語源としてこちらの方がよりふさわしいと考え直したようである。そして強力な掃除機がサイクロン式と命名された理由もこの辺にあるのかもしれない。

(次はアリストテレスの二元的宇宙像

Reference

[1] 黒岩宏司-2011-サイクロンの定義とは, 天気, 58, 11, 77-82.

[2] Sen Sarma-2013-On the word 'cyclone', Weather, Vol. 68, No. 12, 323.



2020年9月3日木曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2(2)

被害の状況とその後

 ハルゼーは、6月5日0134時に針路を110度から300度に変更させた。しかしこの変針が逆に台風に近づくこととなり、艦隊にとって命取りとなった。艦隊は約950hPaの中心気圧を持つ台風「コニー(別名ヴァイパー)」の直撃を受けた。ラドフォード隊は、24 kmほど北にいたため難を逃れたが、補給艦隊であるベアリー隊は台風の眼の中で苦闘する羽目になった。波高は20mを超え、最大瞬間風速は65 m/sを記録した。しかし、ベアリー隊での被害は護衛空母2隻とタンカーと護衛駆逐艦の大破だけだった。

台風「コニー」によって被害を受けた護衛空母「アッツ」。甲板上で少なくとも3機のアベンジャー雷撃機が破損している。
https://ww2db.com/image.php?image_id=31115

 一方で、台風の眼はベアリー隊の1時間半後にクラーク隊を通過し、艦隊司令のクラークは艦のエンジンを止めて一時停止するように命じた。しかしクラーク隊は台風の東側にいたためか、彼の隊33隻のほとんどが損傷した。重巡洋艦ピッツバーグの艦首が破断し、空母サン・ジャシント、ホーネット、ベニントン、ベロー・ウッドの4隻が激しく損傷した。死者と行方不明は6名だったが、航空機76機が失われた。第38任務部隊全体では、戦艦のミズーリ、マサチューセッツ、インディアナ、アラバマが、護衛空母のウィンダム・ベイ、サラマウア、ブーゲンビル、アッツが、巡洋艦のバルチモア、クィンシー、デトロイト、サンジュアン、ダルース、アトンランタと駆逐艦11隻、護衛駆逐艦3隻、タンカー2隻、その他輸送船が損傷した[1]。

 

台風「コニー」によって艦首を約30m切断した重巡洋艦「ピッツバーグ」
https://ww2db.com/image.php?image_id=31154


台風によって飛行甲板が損傷した空母ホーネット(1945年6月5日)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c1/USS_Hornet_%28CV-12%29_damaged_flight_deck_1945.jpg

 ハルゼーは前年の12月に続いてまたもや海難裁判を受けることになった。マケーン、クラーク、ベアリーも被告となった。裁判は6月15日にレイテ湾に停泊している戦艦ニューメキシコで行われた。裁判では、ハルゼーが5日の0134時に行った変針の指示が誤りであったと結論した。マケーン、クラーク、ベアリーも、台風と遭遇することがわかっていながら、同じコースを進み続けたことが咎められた。

 裁判官は特にハルゼーとマケーンに引退を勧めた。海軍長官フォレスタルもハルゼーに引退を勧告した。海軍省のキング提督も艦隊が台風を避け得たことを認めた。しかし、ハルゼーは国民的英雄であり、キング提督は彼を傷つけたくなかった。結局ハルゼーに対する処分は行われなかった。しかし、マケーンに対してはそうは行かなかった。ニミッツは彼を退役させ、退役軍人省の副長官にしたが、彼は自宅に戻ったその日に心労のため心臓麻痺で亡くなった [1]。

蛇足

 戦争が終わった後の1945年10月24日に、台風「ルイーズ」が沖縄を襲った。連合国軍は、日本が降伏しなければ11月に南九州上陸作戦を予定していた。沖縄は南九州上陸作戦ための主要基地となる予定だった。作戦はなくなっても、多数の艦船が停泊して海岸には補給のための基地があった。この台風は沖縄にいたアメリカの艦船と海岸基地に甚大な被害を与えた。沖縄の港で12隻が沈んで222隻が波にひどく洗われただけでなく、陸上施設の多くが破壊された。36名が死亡し、47名が行方不明、100名が負傷した。アメリカ海軍の歴史はこの台風についてこう述べている。「もし戦争が終わっていなければ、この損害、特に107隻の水陸両用舟艇の被害は日本上陸作戦へ深刻な影響を与えていただろう。」[3]

(完。次は「サイクロン」という言葉について

Reference (このシリーズ共通)

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/

[2] Kenneth et al.-1946-Typhoons of the Southwest Pacific-1945, Bulletin of American Meteorological Society, 27, 288-305. 

[3] Jack Williams, How typhoons at the end of World War II swamped U.S. ships and nearly saved Japan from defeat, The Washington Post, July 17, 2015.