第二次世界大戦の戦局が逼迫してきた1944年4月に、大本営は連合国軍の首都東京への攻撃を早期に探知するため、東京と八丈島間の通信回線を確保するように逓信院に命令した。富士山頂は通信回線の中継地点として絶好の地点にあった。そのため、山頂の東安河原にある旧気象観測所の建物の一部を無線中継所とすることに決まった。
それまで山頂では、電気を発動発電機で時々発電し、それを蓄電池に貯めて少しずつ使っていた[1]。そのためには重油を山頂まで運ばなければならず、また希薄な空気と低温下では、発電機のエンジンをかけることは容易ではなかった。山頂の暮らしを改善することと、無線中継所として常時安定した電源が必要であるため、逓信院は山頂の無線中継所まで送電線を敷設することを決めた。
送電線の敷設工事は9月1日から開始されたが,この作業には軍が協力することになり、御殿場に駐とんしていた工兵隊の500人の兵士が動員された。電源ケーブルは、冬季のなだれによる損傷を防ぐために、地面の下に敷設する必要があった。山の斜面に沿った敷設は難工事になることが予想され、そのため工事は3 m間隔ごとに兵士を配置するという人海戦術によって行われた。戦時だからこそ可能なことだった。その結果、工事は接続箇所を残して1週間で完成した。送電線工事は1944年11月27日すべて完成し,30日には通信回線も開通した[2]。
無線中継所は連合国軍の空襲の情報を早期に伝えるのに役立った。しかし、1945年7月30日に連合国軍機6機によって山頂の施設が銃撃を受けた。富士山周辺は連合国軍の東京空襲の経路となっており、連合国軍は怪しい施設と思ったかあるいは山頂からの無線発信を探知したのかもしれない。気象観測所は被害を受けて、2名が負傷した。
電線が敷設されたのは山頂の東安河原の無線中継所までで、それが剣が峰の気象観測所に延びたのは1947年1月だった。送電は3300 Vの高圧送電だったので100 Vに電圧変換するための1個83 kgあるトランスを、なんと強力が一人で麓から剣が峰の気象観測所まで合計で2個担ぎ上げた[1]。これで観測所は電気を使った文明的な暮らしの恩恵にやっとあずかることができるようになった。なお、気象観測所は1951年に正式名称が富士山測候所と変わった。
東安河原の無線中継所は、別な無線回線が出来たため1948年6月に廃止されたが、山頂までの送電線はそのまま残された。この戦時中に敷設された送電線がなければ、後年に富士山頂にレーダー施設を建設して運用することは実質的に不可能だった[2]
参照文献
[1]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年
[2]気象庁、気象百年史資料II各種史談類第13章、1975年
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