2020年5月31日日曜日

富士山における気象観測(3)富士山頂での通年観測

 皇族である山階宮菊麿王(Yamashinanomiya Kikumaro-ou, 1873-1908)は気象学に興味を持っており、私財を投じて筑波山山頂に気象観測所を建設した。また富士山での気象観測計画も持っていた。ところが、菊麿王は途中で亡くなったため、富士山での観測計画は実現しなかった。しかし、その子である鹿島萩麿伯爵は父の遺志を引き継ぎ、筑波山気象観測所長をしていた佐藤順一氏が持っていた富士山での観測計画を支援した。佐藤順一はその支援を得て1927年に山頂に富士山気候観測所を建設し、夏季だけの観測を開始した。中央気象台も人を送ってこの観測を支援した[1]。
旧筑波山観測所(現筑波山神社・筑波大学計算科学研究センター共同気象観測所)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meteorological_Observation_Station_at_the_summit_of_Mt._Tsukuba,Tsukuba-city,Japan.JPG

 佐藤順一は1929年1月に約1か月山頂に滞在して冬季の気象観測を行った。山頂滞在中に脚気を患い、また登下山時に足が凍傷にかかった。1931年には彼と中央気象台のグループは年末から交代で翌年の2月12日まで山頂に滞在して、富士山頂での暮らしや観測のための調査を行った。

 第2回国際極観測年(International Polar Year; 本の「11-3 第2回国際極観測年(1932~1933)の開催」参照)に日本も参加することになり、第2回国際極観測年のための観測という目的で、中央気象台が山頂の東安河原に観測所を建設して、初めて1932年8月から富士山での通年気象観測が行われた。観測所には当時としては最先端のVHF(超短波)の無線電話も設置された[1]。

 なお、第2回国際極観測年では、日本は他にも中央気象台が地磁気の観測や航空機を用いた流氷観測を行い、海軍技術研究所が日本独自の装置を使って短波を使った電離層の観測を行った[2]。余談ではあるが、日本は当時の短波や超短波の研究では世界と肩を並べていた。

 第2回国際極観測年が終わった後も三井報恩会の寄付と有志で観測が継続された。それらの活動により、富士山頂の気象観測は中央気象台の正式な観測としての予算が認められた。東安河原は風が周囲の影響を受けるため、剣が峰に新たに「富士山頂観測所」が建設され、1936年8月1日に通年観測が始まった [1]。1938年には剣が峰の北に、陸軍の「軍医学校衛生学教室富士山分業室」ができた。しかし、こちらはあまり使われなかったようである。これは終戦とともに廃止された[1]。

参照文献

[1]志崎大策, 2002, 富士山測候所物語, 成山堂 
[2]中川靖造, 1990, 海軍技術研究所, 講談社

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