2020年5月17日日曜日

富士山における気象観測(1)明治初期まで

 富士山は古から信仰の対象とされており、そのため山伏などによって村山修験などの修行が行われていた。江戸時代になると富士講と称して、日本各地から地域を代表して祈願するために、大勢の巡礼者が富士山に訪れるようになった。また麓にはそのための宿泊施設が数多く開設されていた。

 江戸時代に長崎の出島に滞在したドイツ人医師シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、そこで自ら気象観測を行っていた。彼は後に伊能忠敬が製作した日本地図などを国外に持ち出そうとして国外追放になった(シーボルト事件)が、持ち出そうとした目録の中に江戸幕府の気象観測結果も含まれていた。

 彼は出島滞在中に江戸に行くことになり、その途中で日本の象徴である富士山の高さを計測することを計画した。しかし、外国人の行動に対する幕府の監視は厳しく、1828年に本人の代わりに蘭学者で弟子の二宮敬作(1804-1862)が実際に富士山に登って高度を計測した。二宮敬作はおそらく気圧計と温度計を使ったと思われる。既に当時は高度を現地気圧と気温から推定できることがわかっていた[4-8測候高式の発見]。彼は富士山の高度を3794.5 mと算出したらしい。これは実際の高度との差はわずか約20 mという高い精度での測定だった。しかしこの観測は秘密裏に行われ、日本では正式な記録として残らなかった [1]。
晩年のシーボルト
(Unknown artist, "E. Chargouey", 
Naturalis Biodiversity Center - Siebold Collection - Philipp Franz von Siebold - Portrait, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons

 19世紀末から世界各国が高層大気への関心を高める中で、明治維新後に日本においても高山での気象観測が計画されるようになった。その中でまず注目されたのは、高度が高くて孤立峰のため直接高層の大気を捉えることができると考えられたのは富士山だった。

 富士山での気象測定器を使った初めての本格的な気象観測は、当時東大理学部教授のトーマス・メンデンホール(Thomas Mendenhall, 1841-1924)によるものだった。彼は土木学教授のチャップリンと当時学生で後に日本を代表する地球物理学者となる田中館愛橘(1856-1952)らとともに明治14年(1880年)8月3日から4日間富士山頂で重力等の観測を行った際に、気象観測も行った [2]。これが富士山頂での初めての気象観測と考えられている。なお、メンデンホールはアメリカに戻った後、アメリカの国家気象局である陸軍信号部で気象の研究にも携わっている。

 また明治20年(1887年)9月には、当時中央気象台で気象予報を行っていたドイツ人クニッピングらがやはり富士山頂で気象観測を行った。彼は政府に富士山頂での気象観測を提案したが、政府は認めなかった。


参照文献

[1]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年
[2] お雇い外国人(第3)自然科学、鹿島研究所出版会、1968年

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