2020年9月14日月曜日

これまでのタイトル(62~99)の整理

これまで書いたブログ(62~99)の目次を整理しておきます。
タイトルを
俯瞰して見て、目的のブログにアクセスすることができます。


62 フォン・ノイマンについて(1)イントロダクション
63 フォン・ノイマンについて(2) 育ちと性格
64 フォン・ノイマンについて(3) 数学への貢献
65 フォン・ノイマンについて(4) 量子力学への貢献
66 フォン・ノイマンについて(5) 戦争への協力
67 フォン・ノイマンについて(6) 経済学への貢献
68 フォン・ノイマンについて(7) 電子コンピュータの開発
69 フォン・ノイマンについて(8) 原子爆弾の開発
70 フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1
71 フォン・ノイマンについて(10)数値予報への貢献2
72 フォン・ノイマンについて(11)戦略ミサイルと核戦争抑止
73 フォン・ノイマンについて(12)彼の死とまとめ
74 気象予測の考え方の主な変遷(1)古代ギリシャ時代
75 気象予測の考え方の主な変遷(2)天文観測と占星学の登場
76 気象予測の考え方の主な変遷(3)ローマ時代と中世
77 気象予測の考え方の主な変遷(4)大航海時代と科学革命
78 気象予測の考え方の主な変遷(5)科学革命のその後
79 気象予測の考え方の主な変遷(6)近代の始まり(18~19世紀)
80 気象予測の考え方の主な変遷(7)気象学の近代化
81 気象予測の考え方の主な変遷(8)数値予報の発達
82 富士山における気象観測(1)明治初期まで
83 富士山における気象観測(2)野中夫妻による観測
84 富士山における気象観測(3)富士山頂での通年観測
85 富士山における気象観測(4)山頂への送電線設置
86 富士山における気象観測(5)山頂へのレーダー設置計画
87 富士山における気象観測(6)レーダー施設の建設
88 富士山における気象観測(7)レーダードームの設置
89 富士山における気象観測(8)富士山レーダーの完成後
90 台風による第4艦隊事件 (1), The Fourth Fleet incident (1)
91 台風による第4艦隊事件 (2), The Fourth Fleet incident (2)
92 台風による第4艦隊事件 (3), The Fourth Fleet incident (3)
93 台風による第4艦隊事件 (4), The Fourth Fleet incident (4)
94 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(1)
95 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(2)
96 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(3)
97 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2(1)
98 米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2(2)
99 「サイクロン」という言葉について



2020年9月10日木曜日

「サイクロン」という言葉について

 現代日本では、「サイクロン」というとサイクロン式掃除機を思い浮かべる方も多いと思われる。この響きは、渦を巻いて吸い込む激しい風を想像するのにふさわしいかもしれない。インド洋の嵐がサイクロンと呼ばれることがあるが、名称としてはこちらが本家である。ただし、これは正式名称ではない。世界気象機関(WMO)では、北インド洋の風速17 m/s以上の嵐については、サイクロニック・ストーム(cyclonic storm)と呼ぶことになっている。

 インド洋の嵐を正式にはサイクロンと呼ばない理由は、サイクロンという言葉は欧米では低気圧全般ついて広く使われているからである。例えば英語では熱帯低気圧をトロピカル・サイクロン(tropical cyclone)、それ以外の中高緯度の低気圧をエクストラトロピカル・サイクロン(extra-tropical cyclone)として区別している。その経緯については、[1]が詳しいので、そちらを参照していただきたい。

 インド洋の嵐がサイクロンと呼ばれるようになった理由は、本の3-6-3「ヘンリー・ピディントン」に書いたように、18世紀のイギリスの船乗りであるヘンリー・ピディントン(1797-1858)が、嵐を「蛇がとぐろを巻く」という意味のギリシャ語から名付けたためである。彼はインド洋での貿易船の船長とされているが、嵐に関する著書が2つある気象学者でもある。また海難審判所の所長も務めている。彼は1848年に書いた「船乗りのための嵐の法則についての手引き(The Sailor's Hornbook for the Laws of Storms)」の初版の中で、「あらゆる旋風について、ギリシャ語の'Kuklws'(とぐろを巻く蛇を意味する)からサイクロンという言葉の採用を提案する」と述べており、これがサイクロンの語源とされている。

 ところが、彼の意図はその後これと少し変わったようである。というのは、1851年に出した上記の第二版では、彼はサイクロンの語源を'Kuklws'ではなく、'Kuklos' に変更しているからである[2]。'Kuklos'とは言葉ではなく、回転を意味するギリシャ語の語根である。'Kuklos'と'ops(眼)'を合わせた英語に、海神から生まれた一つ眼の巨人Cyclopses(キュクロープス)があり、同様に'Kuklos'と'stoma(口)'を語源に持つ英語として円口類を指すCyclostome がある[2]。円口類とは、口から吸い込んだ水を体側から排出して呼吸するヤツメウナギなどの魚類を指す。

 

エラスムス・フランキスキ(Erasmus Francisci)の著書に見られるキュクロープスの挿絵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Libr0328.jpg

 つまりピディングトンは、これらの英語が'Kuklos'を語源に持っていることから、サイクロンという新たな言葉にそれらと同じ語根を持たせることによって、単に回転する旋風という意味だけではなく一つ穴から空気を吸い込む巨大で破壊的な旋風という意味を加えたかったのではないかと[2]は述べている。たしかに動かない「とぐろを巻いた蛇」よりは、こちらの方が嵐に対してはるかに活き活きとした動的なイメージが湧く。ピディントンは、サイクロンの語源としてこちらの方がよりふさわしいと考え直したようである。そして強力な掃除機がサイクロン式と命名された理由もこの辺にあるのかもしれない。

(次はアリストテレスの二元的宇宙像

Reference

[1] 黒岩宏司-2011-サイクロンの定義とは, 天気, 58, 11, 77-82.

[2] Sen Sarma-2013-On the word 'cyclone', Weather, Vol. 68, No. 12, 323.



2020年9月3日木曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2(2)

被害の状況とその後

 ハルゼーは、6月5日0134時に針路を110度から300度に変更させた。しかしこの変針が逆に台風に近づくこととなり、艦隊にとって命取りとなった。艦隊は約950hPaの中心気圧を持つ台風「コニー(別名ヴァイパー)」の直撃を受けた。ラドフォード隊は、24 kmほど北にいたため難を逃れたが、補給艦隊であるベアリー隊は台風の眼の中で苦闘する羽目になった。波高は20mを超え、最大瞬間風速は65 m/sを記録した。しかし、ベアリー隊での被害は護衛空母2隻とタンカーと護衛駆逐艦の大破だけだった。

台風「コニー」によって被害を受けた護衛空母「アッツ」。甲板上で少なくとも3機のアベンジャー雷撃機が破損している。
https://ww2db.com/image.php?image_id=31115

 一方で、台風の眼はベアリー隊の1時間半後にクラーク隊を通過し、艦隊司令のクラークは艦のエンジンを止めて一時停止するように命じた。しかしクラーク隊は台風の東側にいたためか、彼の隊33隻のほとんどが損傷した。重巡洋艦ピッツバーグの艦首が破断し、空母サン・ジャシント、ホーネット、ベニントン、ベロー・ウッドの4隻が激しく損傷した。死者と行方不明は6名だったが、航空機76機が失われた。第38任務部隊全体では、戦艦のミズーリ、マサチューセッツ、インディアナ、アラバマが、護衛空母のウィンダム・ベイ、サラマウア、ブーゲンビル、アッツが、巡洋艦のバルチモア、クィンシー、デトロイト、サンジュアン、ダルース、アトンランタと駆逐艦11隻、護衛駆逐艦3隻、タンカー2隻、その他輸送船が損傷した[1]。

 

台風「コニー」によって艦首を約30m切断した重巡洋艦「ピッツバーグ」
https://ww2db.com/image.php?image_id=31154


台風によって飛行甲板が損傷した空母ホーネット(1945年6月5日)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c1/USS_Hornet_%28CV-12%29_damaged_flight_deck_1945.jpg

 ハルゼーは前年の12月に続いてまたもや海難裁判を受けることになった。マケーン、クラーク、ベアリーも被告となった。裁判は6月15日にレイテ湾に停泊している戦艦ニューメキシコで行われた。裁判では、ハルゼーが5日の0134時に行った変針の指示が誤りであったと結論した。マケーン、クラーク、ベアリーも、台風と遭遇することがわかっていながら、同じコースを進み続けたことが咎められた。

 裁判官は特にハルゼーとマケーンに引退を勧めた。海軍長官フォレスタルもハルゼーに引退を勧告した。海軍省のキング提督も艦隊が台風を避け得たことを認めた。しかし、ハルゼーは国民的英雄であり、キング提督は彼を傷つけたくなかった。結局ハルゼーに対する処分は行われなかった。しかし、マケーンに対してはそうは行かなかった。ニミッツは彼を退役させ、退役軍人省の副長官にしたが、彼は自宅に戻ったその日に心労のため心臓麻痺で亡くなった [1]。

蛇足

 戦争が終わった後の1945年10月24日に、台風「ルイーズ」が沖縄を襲った。連合国軍は、日本が降伏しなければ11月に南九州上陸作戦を予定していた。沖縄は南九州上陸作戦ための主要基地となる予定だった。作戦はなくなっても、多数の艦船が停泊して海岸には補給のための基地があった。この台風は沖縄にいたアメリカの艦船と海岸基地に甚大な被害を与えた。沖縄の港で12隻が沈んで222隻が波にひどく洗われただけでなく、陸上施設の多くが破壊された。36名が死亡し、47名が行方不明、100名が負傷した。アメリカ海軍の歴史はこの台風についてこう述べている。「もし戦争が終わっていなければ、この損害、特に107隻の水陸両用舟艇の被害は日本上陸作戦へ深刻な影響を与えていただろう。」[3]

(完。次は「サイクロン」という言葉について

Reference (このシリーズ共通)

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/

[2] Kenneth et al.-1946-Typhoons of the Southwest Pacific-1945, Bulletin of American Meteorological Society, 27, 288-305. 

[3] Jack Williams, How typhoons at the end of World War II swamped U.S. ships and nearly saved Japan from defeat, The Washington Post, July 17, 2015.



2020年8月27日木曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2(1)

台風「コニー」との遭遇

 1945年5月18日に、ハルゼーは旗艦である戦艦ミズーリに乗って、第5艦隊のスプールアンスと交代するために沖縄沖に向かった。そこにはマクケーン率いる第38任務部隊がいた。第38任務部隊は、クラーク隊、シャーマン隊、ラドフォード隊の3つの隊からなっていた。ハルゼーはシャーマン隊をレイテで休養させ、ラドフォード隊に6月2日から南九州の飛行場への空襲を命じた。ハルゼーとマクケーンが乗ったクラーク隊は沖縄沖に残った。3日午後に南九州を空襲したラドフォード隊が帰途につくと、ハルゼーはラドフォード隊とクラーク隊に南東に向かってドナルド・ベアリー率いる補給艦隊と合同するように命令した。 [1]。

 その頃、気象観測船と航空機による観測によって、南にある熱帯低気圧が沖縄に向けて北上し始めていることが報告されていた。6月4日にラドフォード隊とクラーク隊は補給艦隊と合同し、ハルゼーは熱帯低気圧から発達した台風の予想進路から外れるように、艦隊が東南東へ向うように命令した。しかしこの台風「コニー」は急に向きを東寄りに変えて、沖縄へではなく第38任務部隊と遭遇する進路を進んでいた。



空母「ホーネット」で作成された19456月の台風「コニー」の進路(黒線)と第38任務部隊の針路(赤線)
https://ww2db.com/image.php?image_id=31111
を元に作成

 ハルゼーの艦隊は、最新式のレーダーと電子機器を装備した通信指揮艦アンコン(Ancon)を伴っていた。アンコンは、艦隊の針路交差するように台風が急速に北東に向かっていることに気づき、台風の新しい場所と進路を無線で連絡した。しかし、通信は規定により暗号化されていたため、その解読のために時間を費やし、ハルゼーがこれを知ったのは翌日の0100時だった[2]。

陸海共同作戦のための通信指揮艦アンコン。アンコンはノルマンディ上陸作戦に参加し、激戦だったオマハビーチの上陸部隊の旗艦として作戦成功に貢献した。しかし、太平洋では第38任務部隊の遭難を止めることは出来なかった。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Ancon_(AGC-4)_at_anchor,_circa_in_1945_(NH_99150).jpg

Reference (このシリーズ共通)

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/

[2]Kenneth et al.-1946-Typhoons of the Southwest Pacific-1945, Bulletin of American Meteorological Society, 27, 288-305.



2020年8月19日水曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(3)

被害の状況とその後

 台風の中で軽空母「カウペンス(Cowpens, CVL-25)」では、飛行甲板の1機のF6Fヘルキャットが波の衝撃で跳ばされて燃料に火がつき、7機が波にさらわれた[5]。軽空母「モンテレー(Monterey, CVL-26)」では波で70度まで傾いて、搭載機が格納庫内で隔壁にぶつかって火災が発生した。それによって機関室員が避難したために一時航行不能になった。この火災と波にさらわれたものとで合わせて18機を失い、16機が破損した。実はこの船には後に大統領になるジェラルド・フォード(Gerald  Ford)少尉が乗り組んでいた[5]。彼は艦長から格納庫の火災を調べるように命令され、格納庫内でぶつかり合う飛行機を避けようとして危うく海に投げ出されそうになった。「モンテレー」は幸運にも火災が鎮火し、航行可能となった。[3] 

台風の中で波浪によって傾いた軽空母「ラングレー(CVL-27)」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Langley_(CVL-27)_and_battleship_in_typhoon_1944.jpeg

 駆逐艦隊はひどい状況に陥っていた。転覆しないように波に向かって操船しようにも燃料を節約せねばならず、また操船する艦長も必ずしも十分な経験を持っていなかった。駆逐艦「スペンス(Spence, DD-512)」は燃料があと24時間も持たないほど欠乏していた。同艦はタンカーからの給油を待っていた。そこを台風による激浪に巻き込まれてバラストタンクに海水を注入する時期を失した。同艦は何度か横転しそうになりながらも耐えていたが、艦内に流れ込んだ海水で電気系統がショートして排水ポンプが機能しなくなり、1110時に転覆した。313名の乗組員の中で助かったのは23名だった。[3]

 駆逐艦「ハル(Hull, DD-350)」はタンカー群を護衛する役目だったが、同じ位置に留まりすぎた。「ハル」は旧式の駆逐艦だった上にさらに500トンの装備を追加してトップヘビーになっていた。昼頃瞬間最大風速57 m/sを記録して、激しく傾いた際に煙突から浸水して沈没した。無理解な艦長が、周囲の進言を無視して強引に波間を突破しようとして沈没したという説もある。これが小説「ケイン号の叛乱」のきっかけとなった[5]。202名の乗組員の中で助かったのは62名だった[3]。


台風「コブラ」の中を航行する駆逐艦「マドックス」(1944年12月18日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=31065

 真珠湾で日本の特殊潜航艇を沈め、またキスカ島で潜水艦「伊七」を沈めた旧式の駆逐艦「モナハン(Monaghan, DD-354)」は、バルブが故障してバラストに海水を注入できなくなった。1130時頃電気系統が故障して機関が止まり、1145時頃に沈没した。256名の乗組員の中で助かったのはわずか6名だった[3]。

 他に護衛空母2隻。重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、護衛駆逐艦2隻が大破し、軽空母4隻、護衛空母3隻、戦艦1隻、駆逐艦1隻、護衛駆逐艦2隻、タンカー1隻が小破した[3]。他の空母でも甲板の飛行機が流されたり、他の飛行機にぶつかって多くの飛行機が破損したりした。艦船搭載の航空機を含めると、飛行機の被害は146機に達した。

 

台風の波で搭載機とともに傾く空母「カウペンス」(1944年12月18日)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Cowpens_(CVL-25)_during_Typhoon_Cobra.jpg

 激しい嵐の中で一部の艦は、沈没した艦の乗組員救助に決死の努力をしたが、しかし沈没した船の乗組員は、サメが遊よくする広い海域に散らばっていた。18日午後遅くには嵐は収まり晴れてきた。19日に給油が終わると、ハルゼーは艦隊を800m間隔で横一列に並べて海面を梳くように、遭難者の捜索を開始した[2]。合計で92名が救助されたが、結局780名が亡くなった。

 艦隊がウルシーに帰投後、12月26日からこの海難に対する裁判が行われた。法廷はハルゼーの安全への責任が何に対しても勝ることを述べて、嵐の場所と経路を予測する際の彼の「大きな過失」を挙げた。しかし、それとともに彼を支援する気象学の能力が、作戦に対する期待と要求の重要性に鑑みて経験と体制の点で不十分であると結論した[1]。

 アメリカ太平洋艦隊司令長官だったニミッツは、この裁判の後、「後に不必要だったのではないかと言われることを恐れて、予防措置を惜しむことほど海の男にとって危険なことはない。数千年にわたる海の安全は確実にこのことを示している」と訓示した[3]。そして彼は、西太平洋に3隻の気象観測船を要求し、気象観測機を配置した[1]。また、この事件を教訓として、後にハワイに合同台風警報センターが設置された。

 ハルゼーは5月に第3艦隊に復帰するが、彼が率いる第3艦隊は翌月台風に再び見舞われることになる。

 (完。米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2へと続く

Reference (このシリーズ共通)

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/

 [2]Carl M. Berntsen, 2007, TYPHOON COBRA AND CARRIER TASK FORCE 38, http://ussdehaven.org/typhoon_cobra.htm

[3] Samuel J. Cox, Typhoon Cobra. The Worst Natural Disaster in U.S. Navy History, 14.19 December 1944, 2019

 [4] Choi. et al., 2017, Storm waves during Typhoon Cobra (Halsey's typhoon) in December 1944, Procedia IUTAM, 25, 44-51.

[5] Sebastien Roblin, During World War II, the U.S. Navy Tried to Beat a Typhoon, February 26, 2017, The National Interest, https://nationalinterest.org/blog/the-buzz/during-world-war-ii-the-us-navy-tried-beat-typhoon-you-can-19583