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気象予測の背景となる考え方の歴史的変遷
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「気象学と気象予報の発達史」(丸善出版)のこぼれ話など気象学の歴史に関連する話を補足、説明していきます。
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2020年3月28日土曜日
気象予測の考え方の主な変遷(1) 古代ギリシャ時代
2020年3月2日月曜日
フォン・ノイマンについて(12)彼の死とまとめ
(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
フォン・ノイマンは科学と純粋数学でみごとな業績を上げただけでなく、抜群の実務能力も持っていた。例えばプロジェクトを設立する際には、財務当局による査定が入って減額されないように、海軍と陸軍とのそれぞれの要請に応じて別々に契約することを避けて契約を一本化したり、持ち前の機知と説得力でかたくなな委員を納得させて委員会の運営をぐいぐい進めるなど、優れた手腕も発揮した。そういった実務力と科学の才能とを兼ね備えていたので、軍人、技術者、企業家、科学者などあらゆる職種の人々から絶大な信頼を得ていた[1]。特に、核ミサイル問題にかけて彼の右に出る者はおらず、「(11)戦略ミサイルと核戦争抑止」で述べたように、彼の言葉は重みを持って受け止められた。
フォン・ノイマンが忙しすぎることを懸念して、彼の周囲は1954年夏にアイゼンハワー大統領の原子力委員(全米で5人)になるように手を回した[1]。この委員は就任に議会の承認を要する重い政策ポストだった。ところが彼は、1955年に癌と診断された。彼は生涯たばこは吸わなかったし、あまり飲酒もしなかった。おそらく1946年のビキニ環礁の核実験(クロスロード実験)に立ち会ったのが癌になった原因だと言われている。
彼は残された時間を惜しむように、車椅子に乗って多忙な生活を続けたが、1956年1月に入院した。彼が亡くなった1957年2月8日には、彼の病室に国防長官と副長官、それに陸海空軍の長官や参謀長などの政府高官たちがベッドをとり囲んで、彼の最後のひとことにまでじっと耳を傾けた[1]。まだ53歳だった。科学界というよりは人類にとって惜しんでも余りある早すぎる死だった。
私はこれまでにも述べてきたように、フォン・ノイマンの幅広い分野を深く俯瞰できる能力に感嘆している。自分の専門分野を深く掘り下げていく科学者は少なくない(というより科学者とはそういうものである)。しかしそうなればなるほど、他分野の研究と乖離していくことが多くなるとともに、研究に行き詰まってくる場合がある(いわゆる努力する割に成果が上がらないという「収穫逓減の法則」である)。
しかし、どこかで誰かがそれまでのさまざまな分野での成果を幅広く総合して整理し、相互に補完・利用できる部分や方向性を明確にできると、そこからそれぞれがあるいは新たな分野が大きく発展する場合がある。彼はそれができる数少ない人間の一人だった。彼は物理学の量子力学と数学のヒルベルト空間を結びつけた。電子工学と論理学を結びつけた。数学と経済学を結びつけた。書くと簡単だが、これは容易なことではない。彼は自らが理論を発展させただけでなく、それを使って現実の政治を動かした。
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フォン・ノイマンが開拓した学問と活躍した分野 |
そして気象学から見ると、気象学と電子工学や論理学(ソフトウェア)とを結びつけた。当時の気象学の内容は主に力学や熱力学、統計学であり、気象学者は気象予報の偏微分方程式であるプリミティブ方程式を数値的に解く、という原理や概念は理解できても、そのための電子コンピュータの回路やそれを動かすソフトウェアのことを理解できる人はほとんど皆無だった。
そういう状況の中でフォン・ノイマンは、プリミティブ方程式を解く意義と解ける見通しを明確に理解して、多くの人々を説得して資金や人を集めて、数値予報のためのプロジェクトを立ち上げ、電子コンピュータやそのソフトウェアを自ら作って、数値予報の実現を進めていった。彼の見通し力、率先力、実行力は、驚くべきものである。これまで述べてきた他分野の業績も合わせて、彼は単なる天才とか先駆者という範疇を超越していると思う。
フォン・ノイマンは、生物の細胞さながらにふるまう人工の素子を使って、人間の脳くらい複雑で高速なオートマトン(自動機械)を作れないかを考えていた[1]。彼が長生きしていれば、現在もてはやされているAIなども、はるかに進歩・進化していたかもしれない。もし彼がいなければ、今の世界はずっと遅れていたかもしれないと思うと同時に、もっと長生きしていれば今の世界はもっと変わっていたかもしれないとも思う。「(1)イントロダクション」で彼に対して鬼才という言葉を用いたが、とにかく異例の科学者であったことは間違いない。
フォン・ノイマンが受けた表彰
1938年:ボッチャー記念賞
1947年:功労勲章
1956年:自由勲章(アイゼンハワー大統領から直々にを手渡し)
1956年:アルベルト・アインシュタイン賞
1956年:エンリコ・フェルミ賞
参照文献
[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書[2] ジョン・コックス著、堤之智訳(2013)「嵐の正体にせまった科学者たち―気象予報が現代のかたちになるまで」、丸善出版
2020年2月28日金曜日
フォン・ノイマンについて(11)戦略ミサイルと核戦争抑止
(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
フォン・ノイマンは「(6)経済学への貢献」で述べたゲームの理論を国防に応用すべきと考えていた。そして、対二次世界大戦後に東西冷戦が激しくなると「もし米ソ開戦が避けられないなら、ソ連が原子爆弾をもたないうちにやるべき」と主張した。これはソ連への先制攻撃を言い張る好戦派、タカ派という評判を彼にもたらした。
しかし彼はハンガリー生まれのユダヤ人として、母国や同胞の過酷な歴史を知りあるいは体験していた。彼は精通している歴史の知識、深い科学知識、広い人脈と人を動かすための得意の説得力を総動員して、第二の母国であるアメリカがハンガリーの二の舞になって、自分や多くの民衆が迫害を受けることを避けるための最善の手法を考えていたのだと思う。
彼は確かな将来の予見能力とそれを用いた構想力、論理的に明確な説得力と築いた人脈を通して、さまざまな顧問や委員会の委員を引き受けた。1950年には軍の武器体系評価グループ(Weapons Systems Evaluation Group: WSEG)と国軍特殊武器計画(The Armed Forces Special Weapons Project: AFSWP)の顧問を引き受けた [1]。
トルーマン政権下の1951年から1953年にかけて、さらにフォン・ノイマンは国防関係の仕事として、①中央情報局(CIA)の顧問、②原子力エネルギー委員会(Atomic Energy Commission)に助言する総合諮問委員会(the General Advisory Committee)の委員、③核兵器の研究開発を目的として設立されたローレンス・リバモア研究所の顧問、④合衆国空軍の科学諮問委員会(Scientific Advisory Board of the U.S. Airforce)の委員を引き受けた[1]。
空軍は改革推進の作業を加速するため空軍内の様々な委員会を整理統合することを計画し、その要となる委員会の長をフォン・ノイマンに委嘱した。これは通称「フォン・ノイマン委員会」と呼ばれ、空軍直轄の諸計画について空軍長官に助言するほか、軍事ミサイル関係の大型計画についても国防長官に答申する権限を持つ委員会だった[1]。これは彼にとって将来の国防計画に関与する絶好の機会となった。
そして、1954年にフォン・ノイマン委員会は、ソ連が先行している核弾頭つき長距離弾道ミサイルのアメリカでの開発を答申した。弾道ミサイルの開発には相当な時間が必要である。1957年にソ連がスプートニク衛星の打ち上げに世界で最初に成功したように、当時弾道ミサイルの開発はソ連がかなり先行していた。
しかしその後、このフォン・ノイマン委員会の答申によって開発に成功したミサイルのうち、ICBMと略称される大陸間弾道ミサイル(アトラス、タイタン、ミニットマン)と中距離ミサイル(ソア、ジュピター)と潜水艦発射のポラリスミサイルは、米ソ冷戦時の戦略バランスに大きな役割を果たした[1]。例えば核戦争の瀬戸際まで行った1962年のキューバ危機の海上封鎖の際に、最終的にソ連が手を引いたことは、これらミサイルによる戦略的効果を如実に物語っている。これは彼が如何に先見の明を持っていたかを示す例の一つかもしれない。
参照文献
2020年2月17日月曜日
フォン・ノイマンについて(10)数値予報への貢献2
(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
参照文献
2020年2月10日月曜日
フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1
(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
一方で、膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのために人々にとってわかりやすい目的が必要だった。彼は実用的な気象予測と気象制御をその目的の一つに据えた。[1]。彼は例えば北極の氷を染めて反射するエネルギー量を減少させれば、アイスランドの気候をハワイのような暖かな気候に変えることができると考えていた[2]。もちろん、現実には気候はさまざまな要素と相互作用をするので、話はそう単純ではない。しかし、そういった気象の複雑性がわかってきたのは、もっと後のことである。
しかし、本の「9-3 リチャードソンによる数値計算の試み」で述べたように、これはイギリスの気象学者ルイス・リチャードソン(Lewis Richardson, 1881-1953)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗した予報の数値計算を、電子コンピュータに置き換えただけでうまくいくわけではないことははっきりしていた。そのためには本の「10-3-3数値予報の課題解決」で述べているように、解決すべき難問が横たわっていた。
参照文献
[2] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.