2026年6月4日木曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(9)アンツィオ上陸作戦の予報

   (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

9.         アンツィオ上陸作戦の予報

194211月の北アフリカ上陸作戦と翌年のシチリア島上陸作戦の後、連合国軍の戦線が地中海域で拡大していた。イギリスに戻ったペターセンに、194311月に英国気象局長のネルソン卿から、ペターセンが地中海戦域の米英共同予報サービスのチーフを務めるという提案があった話をした。そこでは英軍と米軍がそれぞれ独自の予報で動いており、それを一元化しよういう考えだったと思われる。しかし、ペターセンは一元化は容易ではないと感じ、ネルソン卿にもできればペターセンに英国気象局に留まって欲しいという希望があったため、ペターセンはこの話を断った。

しかし、この話はこれでは終わらなかった。翌年1月初めに再び別な話があり、今度は約1か月間、英米空軍の地中海での気象中枢があるイタリアのバーリへ行って欲しいということだった。これは上層部で政治的妥協として持ち上がった話のようだった。ネルソン卿を困らせたくないこともあり、ペターセンはこの話を引き受けた。

バーリにて 

ペターセンは早速アルジェ経由でバーリへ到着した。バーリはナポリとほぼ同緯度であるが、アドリア海に面した都市である。そこにある予報センターへ行くと、何か変わったことがあったことがすぐにわかった。前夜にブルガリアの首都ソフィアを爆撃した際に、その爆撃隊10機が未帰還になっていた。地上天気図によると、バルカン半島を東に向かって平坦に伸びる、風が弱い高気圧域があった。ペターセンにはイギリスで爆撃隊の予報を行っていた経験から、思い当たる節があった。

ペターセンは周囲に手伝ってもらって上層500hPaの天気図を描いた。この高度はほぼ爆撃隊の飛行高度と同じだった。大陸北側の大気と地中海沿岸の暖かく湿った空気の間には、明らかに大きな温度差が存在した。この気温分布では、この高度付近に強い偏西風が存在するはずだった。これは今でいう「温度風」の原理である。

ペターセンは、予報センターの人々に上空での強い西風が爆撃隊搭乗員に警告されていたのかどうかを尋ねた、しかし予報センターでは地上天気図だけ見て、上空の高気圧の立体構造を考慮していなかった。これからペターセンが得た結論は次のようなものだった。爆撃部隊は強い追い風を受けながらイタリアから東のソフィアに向かったため、目標をはるかに超えてしまった。乗組員はこれに気づいて積荷を下ろして機体を軽くして帰途についたが、向かい風での帰路のための十分な燃料が残っておらず、どこかに不時着した[1]というものだった。

ペターセンはバーリでは米国の気象センターでその時間の多くを過ごした。そして英国気象局の上層大気部門では既に標準的な手順となっている上層大気での技術をそこで教えた。

ナポリにて 

1944115日に、英国海軍地中海艦隊司令のジョン・カニンガム提督からナポリの司令部で会いたいというメッセージが届けられた。海軍から空軍の人間に会いたいという申し入れは珍しいものだったが、ペターセンはカニンガム提督とバーリに赴任する途中にアルジェで面会していた。その際に、1939年にオスロ大学で教えていた時に英国海軍から派遣されていたトレンデル中佐が参謀として気象関係の業務を統括していることがわかった。また、カニンガム提督は敬虔なカトリック信者だけでなく、科学にも興味を持ち、ペターセンが書いた著書の一つ「天気予報入門」を読んでいることを知った。 

ジョン・カニンガム提督の肖像画
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Admiral_Sir_John_Cunningham_(1885%E2%80%931962),_GCB.jpg

 カニンガム提督は当然経験したさまざまな気象を熟知していた。ナポリの司令部に行くと、カニンガム提督はペターセンに彼の気象学理論が地中海で通用するかどうか質問した。物理学理論は普遍的でどこでも通用するが、気象は地形の影響を受ける。ペターセンは地中海ではアルプス山脈によって気象が独特の影響を受け得ることを説明した。カニンガム提督はペターセンの説明によって彼に信を置いたようである。

カニンガム提督は1週間後に予定されているローマ南部のアンツィオ上陸作戦の話を切り出した。当時ローマの南で戦線が膠着していた。この事態を打開するために、ドイツ軍の背後に奇襲上陸しようというのがアンツィオ上陸作戦である。この作戦が成功するためには、海上からの部隊上陸と物資輸送、海岸での防衛線の確立のため、上陸時に4日間の凪が必要だった。さらにドイツ軍の増援を阻止するためにはアンツィオにつながる橋と鉄道を晴天時に爆撃する必要があった。これらの攻撃の要点は奇襲であり、それを可能にする天候が実現するかどうかが最大の懸案事項だった。そのためにわざわざイギリス空軍に属するペターセンをナポリに呼んだのだった。

当時のイタリア南部の連合国軍とドイツ軍の状況

 ペターセンが行った気象解析による見立ては次のようなものだった。地上天気図を見ると、大西洋からノルウェーに向かって移動してくる一連の低気圧により、大西洋の高気圧は傾むいていた。このような状況では、極域の大気が西ヨーロッパに流入し、西地中海で大きな嵐の発生を引き起こす可能性があった。しかし、上層の300hPaの天気図では強い高気圧が対流圏の循環を支配しており、この高気圧は経験上1週間程度は続くと見込まれた。つまり上陸作戦は可能ということだった。

 1944122日アンツィオ上陸作戦の日の500hPa天気図。地中海上空に安定した高気圧があることがわかる。ECMWFERA)による再解析。https://www.wetterzentrale.de/en/reanalysis.php?model=era

 カニンガム提督は満足そうだったが、唐突に悪天の前兆となる上空での巻雲の発生と上陸作戦を危険にさらす西風の可能性を尋ねてきた。ペターセンは、なぜカニンガム提督がこのような質問をするのか心当たりがないために当惑した。やがてペターセンは、作戦の気象予報に別な所から非公式な情報が入ってきていることを知った。それは米国陸軍航空隊気象局(JWC)が出している5日予報だった(これをペターセンは「ワシントン情報」と呼んでいる)。

この気象予報を監督しているのは、カルテックで一緒だったクリックだろうと推測した(クリックについてはこのブログの「実践の予報学者スベール・ペターセン (5) 米国のMITへ 」を参照)。クリックは米国陸軍航空隊気象局に属し、そこで米国陸軍航空隊アーノルド司令長官の庇護を受けていた。アーノルドがクリックのアナログ手法による延長予報(およそ36時間先以降の予報)を承認していることは十分に考えられた。

気象情報にまつわる組織体制の複雑さは、地中海に来る前にペターセンが予想したとおりだった。作戦に関する気象情報は一元化されておらず、米国陸軍航空隊の気象予報はなぜか米国海軍に伝わっていた。そして、それはイギリス軍海軍主導下の作戦であるアンツィオ上陸作戦にも影響を及ぼしていた。この情報がカニンガム提督が懸念していた原因だと推測された。

ペターセンが予想していた作戦に理想的な気象条件とは異なり、「ワシントン情報」は、グリーンランドから寒気が流入して、海岸で高波を引き起こす低気圧の発生を予測していた。しかもクリックらはワシントンにいて、ペターセンが彼らと状況を議論することは不可能だった。

しかし、ペターセンは地中海上層を覆っている大規模な高気圧の持続を疑うことはなかった。もし寒気が流入してもこの高気圧が跳ね返してくれるだろう。この自信は、地中海の特性を知らずにクリックがアナログ手法という一種の統計に近い手法に定型的に依っていたことを知っていたためでもあった。このクリックとはノルマンディー上陸作戦でも対峙することになる。

120日の作戦の責任者である多くの将軍たちが集まった席で、ペターセンは気象のブリーフィングを行うことになった。カニンガム提督はブリーフィングの席で、シチリア上陸作戦では受けた気象予報が芳しくなかったので、今回は専門家の意見を聞くことにした、とペターセンを紹介した。ペターセンは今後3日間の作戦に理想的な気象予報とその理由を簡潔に説明した。作戦に必要な4日目については、一般的な理論に従って、まだわからないとだけ説明した。

ところが、この作戦のイギリス軍の最高司令官ハロルド・アレキサンダー将軍が、4日目の気象状況について敢えて個人的にと前置きして尋ねてきた。ペターセンは観念して自分の信念に基づいて、「かなり良いと思います」と答えた。多くの将軍たちは作戦の成功に自信を深めて解散した[1] 

アンツィオ上陸作戦の様子。凪の中を舟艇から歩いて上陸している様子がわかる。
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/SC-185000/SC-185796.html

 1月22日に開始されたアンツィオ上陸作戦が成功したことは、歴史に記録されているとおりである。その一端はペターセンによるものかもしれない。イギリス空軍のペターセンは、海軍が主導するアンツィオ上陸作戦へ助言することを意図して派遣されたものではなかった(少なくとも事前に指示されてはいない)。しかし気象学への深い造詣と責任感の強さから、この複雑な状況の下でこの作戦に対して現地で重大な責任を負うことを自ら選択した。ここにもペターセンの誠実で実直な性格が表れているのではなかろうか。

 

参照資料  (このテーマ共通) 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

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