2026年6月12日金曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(11) 戦後の気象学の再構築

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

戦後の気象学の再構築

ドイツとの戦争が終わった19455月に、ペターセンはノルウェーへと戻った。ノルウェーでは占領下でドイツ軍が、高層気象観測や空港予報官などに独自に優れた観測網を構築していた。戦争が終わった今、それらをノルウェー人によるシステムに新たに置き換えなければならなかった。それはペターセンらの指導により順調に達成された。

気象学は国際的なものである。戦後はノルウェーだけでなくヨーロッパ各国を含めた気象観測の国際秩序を再建しなければならなかった。戦前に気象学を国際的に束ねていた国際気象機関(IMO)は国際的なさまざまな課題を円滑に解決できる体制を持っていなかった上に、戦争中は機能を停止していた。その再開だけでも容易ではなかった。

しかし、戦中からこの状況を見据えて気象学の国際活動を活発に行っていた組織があった。それが暫定国際民間航空機関(PICAO)である。これは現在の国際民間航空機関(ICAO)で、Pは暫定の意味で平和時に条約が整備されればPは取れることになっていた。気象情報の整備は航空機の運用にとって極めて重要であり、戦後の気象学の国際的な活動に、まず航空界が乗り出したのは当然だった。

PICAOはモントリオールで会議を開催し、民間航空の取り決めを開始した。ところが、このPICAOの文書にIMOの活動が不活発であることが記載されていた。ある国際機関が姉妹機関の活動に否定的な言及をするのは異例のことである。この文言に英国気象局のネルソン卿が反応した。ペターセンは多忙で気乗りはしなかったが、ネルソン卿の依頼を受けてモントリオールでの会議に出席し、文言の撤回に成功した[1]

この会議では今後の航空法の問題についてさまざまな討論が行われることになっており、ペターセンはあまりこういう問題に関わりたくないため消極的な対応を行っていた。しかし、ペターセンの名声は自分が思っているよりもはるかに高かった。彼はPICAOでの選挙で気象学部門の委員長に選ばれてしまった。結局、彼は気象学に関する航空行政にも関わることとなった。彼はネルソン卿を通してPICAOIMOをつなぐ役割も担うことになり、これはIMOにとっても大きなメリットとなった。

ペターセンがPICAOでまず行ったのは、空路の安全を確保するための大西洋上の気象観測体制の整備である。ペターセンは他の委員と共同でこのためにラジオゾンデを用いた上層大気の観測船13隻を大西洋に配置する案を作成した。これは高額の資金と各国の支援を必要とする極めて野心的なものだった。これは母国ノルウェーを含む多くの関係国が、主に観測船の提供という形で支援した。また、他にも気象学、航法、捜索救助など、さまざまな手順について合意が必要だったが、ペターセンはこれらの合意を得ることにも成功した。

その後、この気象観測船を用いた観測網は、北大西洋での改善と北太平洋への拡張が行われた。これらによる観測は単に航空路上の気象の把握だけに留まらなかった。電子計算機を利用した数値予報にはさまざまな場所での観測による初期値が必要となる。特にこれらの洋上の観測がなければ、その後の電子計算機を利用した数値予報の発展は、大きな障害に直面していただろう。

この後、ペターセンはIMOでも名誉ある上層気象調査委員会の後継である高層大気委員会の委員長に就任した。彼はそこでイギリスで開発した上層大気解析手法の普及に努めた。 

ノルマンディー上陸作戦で最高司令部の副官を務めていたイェーツ大佐とペターセンは戦後に親交を深めていた。イェーツは1948年には陸軍航空隊気象局から発展した空軍航空気象局の局長となっていた。彼はペターセンに航空気象局の科学部門の部長になるように依頼した。ペターセンは中で小さな一つの研究グループを率いることでその役を引き受けた。しかし航空気象局に「研究」という言葉はなく、お役所らしく「評価」という言葉に変えられた。しかし、彼は大気循環に関する重要な論文や、ジェット気流波の伝播と成長に関する論文を執筆し、米国陸軍航空隊殊勲賞を受賞した。

しかし、1950年には空軍に新たに研究開発司令部が置かれることになり、その補佐として4名の科学者が各プログラム分野を管理することになった。イェーツの後任の局長はペターセンにその役目の一つを要請した。ペターセンは管理職になる意思はなく、またシカゴ大学から教授の誘いを受けていた。ペターセンは丁寧に話をしてこの役目を断るとともに、シカゴ大学へ移った後の空軍の支援を仰いだ。ペターセンと空軍とは友好的な関係が続き、空軍はペターセンに資金援助をする代わりに、ペターセンは空軍のコンサルタントを務めた。

世界気象監視計画(World Weather Watch)などへの貢献

第二次世界大戦後、米国の科学界の再編に関してペターセンは、ロシア出身でハーバード大学の化学者として世界的に有名なジョージ・キスティアコフスキーの貢献を挙げている。彼は科学技術担当大統領特別補佐官となり、彼の努力と手法が米国の科学研究における長期的計画と国家目標の概要につながった。大統領がケネディになるとジェローム・ウィズナーが彼の後任となり、さらにこの活動は活発化した。

その一つが気象学の国際性のアピールだった。これは冷戦下の国際政治手法となった(詳しくは気候変動社会の技術史の公式解説ブログインフラとしての気候知識(2)インフラストラクチャのグローバル化」の「インフラストラクチャのグローバル化と東西冷戦」を参照)。ペターセンはウィズナーの指示で大気科学に関する10年計画(1961-1971年)を作成した[1]

この報告書の中には世界気象監視計画(World Weather Watch: WWW)設立の案が含まれていた。これは世界の国々が協力する気象予測と気象制御のための世界規模の通信衛星システムの構築だった。この計画は米国政府の国際政治方針とも合致していたのだろう。1961925日、ケネディ大統領は国連総会でこの計画について演説した。これは同年12月に国連総会で決議1721XVI)として可決された。ペターセンは1962年に大統領の大気科学諮問委員会の委員となった。

この決議をもとに、世界気象機関(WMO)主導の下で世界気象監視(WWW)プログラムの構築が開始された(WWWについては同じく「WMOによる世界気象監視(WWW)プログラムの構築」を参照)。このWWWが現在の天気予報、すなわち数値予報の基盤の一つとなっている。また彼の10年計画に含まれていた国際大気科学プログラム(International Atmospheric Science Program: IASP)は、その後地球大気研究計画(GARP)が始まる流れを作ったと考えられている(GARPについては同じく再解析データを参照)。

WWWGARPは対となっており、多くの国々が参加したWWWでの現業観測とGARPによる調査・研究は相互に利用されることで、気象学の発展は加速した。現在では、WWWによって世界中から集められた気象観測値は、GARPが開発した再解析に用いられて、数値予報の際の初期値として用いられている(再解析についてはデータのグローバル化」と再解析データを参照)。それだけでなく、WWWの観測値は気候再解析として処理され、その全球3次元格子点値はIPCCなどでの気候問題を議論する上での欠くことの出来ない情報となっている(気候再解析については同じく「インフラとしての気候知識(3)気候知識を生み出すインフラストラクチャ」を参照)。

このように気象の世界が大きく変わるきっかけに、ペターセンは大きな貢献をした。だだ彼は1963年に引退したので、WWWの実際の構築にはあまり関わっていない。しかし、彼の功績に対してWMOは金メダルを授与した。

ペターセンは1973年にニクソン大統領に抗議して米国国籍を返上した。その後、1974年にニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任したことは多くの人がご存じの通りである。そしてペターセンは、19741231日に1965年から移り住んだロンドンで亡くなった。

 

参照文献

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

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