(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
8. 雪上車の開発
ペターセンは第二次世界大戦中に、世界初となる雪上車の開発に携わった。これはイギリス人のジェフリー・パイクが大きく関わっている。パイクは科学者、発明家、ジャーナリスト、スパイとも言われており、アメリカの偽造パスポートで記者としてベルリンで活動しながらドイツの状況をイギリスの新聞社へ送ったり、ドイツで逮捕されると統計学を駆使して看守の癖を見破って脱走したりするなど、一言では説明できない独創的なユニークな人間だった。
第二次世界大戦が始まると、パイクはイギリスが戦争に勝つための方策を考えた。その一つが雪を利用して、雪の中で物資や人員を輸送する手段(雪上車)の開発だった。このためには、敵よりも速い速度で雪上を移動し、敵の追跡できない場所に行くことができ、また急な勾配や森林の中も走破できる必要があった。これは当時としては奇跡に近い性能を持ったものだった。
この案にイギリスのコマンドー部隊(奇襲や後方撹乱、偵察などを目的とした比較的小規模な特殊部隊)を率いるマウントバッテン卿が目を付けた。ノルウェーやスイスの水力発電所を、コマンドー部隊で破壊できれば、ヒトラーに大打撃を与えられることができる。また、コマンドー部隊の活動は連合国軍の大陸侵攻「ボレロ作戦」の際の陽動作戦にもなると考えられた。「ボレロ作戦」とは当初1943年春にも計画されていた欧州大陸への上陸作戦である(最終的にはいくつかの経緯を経て「オーバーロード作戦」でのノルマンディー上陸へと変わった)。マウントバッテン卿は米国のマーシャル参謀長が1942年3月にイギリスに来た際にこれを伝え、米国での雪上車の共同開発に快諾を得た。これはプラウ・プロジェクトと呼ばれることとなった。
しかも、これを来春の作戦に間に合うように生産してコマンドー兵士たちを訓練するためには、車両が秋までには完成している必要があった。この開発を引き受けた米国政府の科学研究開発局(OSRD)は5つの条件を出した。その一つはペターセンを英国気象局から引き抜いてこのプロジェクトに参加させることだった。想定された作戦地域の一つにノルウェーが入っていたこともあっただろうが、彼の名声は既に米国では高かった。「5. 米国のMITへ」で述べたように、米国陸軍に対する情報提供により、米国での気象技術者の大量養成が始まったことなどが評価されたのかもしれない。プロジェクトにはもう一人ブルックリン工科大学のハーマン・マーク博士が協力者として入ることも条件になっていた。
ペターセンは、1942年6月3日にワシントンに到着した。その際に、このプロジェクトに円滑に関わることが出来るように軍服姿の写真が撮られた。これが「実践の予報学者スベール・ペターセン(1)」で示した写真である。彼はこの制服は旅行用としてだけしか使わなかったと述べている[1]。
雪は捉えどころのない物質である。ペターセンは、この開発のためにはまず雪の力学特性をよく知らなければならないと考えた。そしてそのためには、まず雪を分類し、タイプごとに物理特性を把握し、その気象条件による変化を明らかにしなければならなかった[1]。
ペターセンはその実験のためにアラスカを選び、シアトルからアラスカへ向かおうとした。空港にいたちょうどその時に日本軍がアラスカを攻撃し(日本軍によるアリューシャン作戦)、軍事的緊張が高まったアラスカでの実験は中止された。代わりにアンデス山脈で実験することにし、ペターセンはチリとアルゼンチンと向かった。両国でアンデス山脈の状況を聞くと、山脈の西側でも東側でも実験には不向きであることがわかった。
プロジェクトは極秘である。しかし国際的に複雑な貸借関係を持つペターセンは、米国以外での自分の行動をイギリスとノルウェーにも報告しなければならなかった。彼はイギリスとノルウェーにはスキー休暇で南米を訪れたことにした。また、中立国アルゼンチンではドイツから狙われた。米国以外では政府のプロジェクトに携わっているという特権は通用しない。彼はなんとかアメリカ大使館を通じて米国参謀本部に連絡し、マイアミへ脱出して戻ることができた。
結局実験は、カナダのブリティッシュコロンビアの氷河で行うことになった。その際にはかつてベルゲンに留学していたトムソン博士(「5. 米国のMITへ」参照)がカナダ気象局長なっており、スキー場の調査を行ってくれた。アメリカ軍と雪上車の開発企業であるスダッドベーカー社などが、実験のための立派な施設をたちまち氷河の上に建設した。相棒のマーク博士は雪の性質を測定し、それをもとに空中投下可能な小型の雪上車の設計図を作成した。これに基づいて製作された雪上車は「ウィーゼル」と名付けられ、26度までの斜面を登ることに成功した[1]。
雪上車の開発には成功したが、その後のプラウ・プロジェクトに触れておく。中立国や敵占領国でのコマンドー部隊を用いた破壊活動には、戦後のことを含めた当該国政府の理解が必要となる。これは軍事だけでなく、国際政治でもある。また、実際に作戦を実施しようとすると、空中投下や物資補給のための空軍の協力、実際のコマンドー部隊を作戦が失敗した際を含めてどう扱うか、などの組織間の複雑な要素が絡むこととなる。結局プラウ・プロジェクトは、現地レジスタンスによる小さな破壊工作にとって代わられることとなった。開発した雪上車がコマンドー活動に使われることはなかった。
しかし開発された「ウィーゼル」は水陸両用だった。そのため、一部の改良型は武器や人員を、輸送船から陸上まで途中の積み替えなしに一気に運搬する水陸両用車として大量に製造され、太平洋を含めて上陸作戦で使われた。またこれは戦後に大型の雪上車に発展した。この発展型は泥や砂、硬い道も走破することができ、北極や南極だけでなくスキー場などでも活躍している。
プラウ・プロジェクトによって開発されたM29 ウィーゼル
https://en.wikipedia.org/wiki/M29_Weasel#/media/File:M29_Weasel_3.jpg
参照資料 (このテーマ共通)
[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

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