(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
5. 米国のMITへ
アメリカへの一時訪問
ペターセンはベルゲンへ戻った後、気象予報のために嵐の動きと発達の速度を計算する方法を開発することにした。しかしそれは物理学の式に基づいたものではなく、前線や等圧線の動きを微分して、気象システムの動きや強度の変化を決定するものだった。しかし彼は、数値予報の前に初めて気象予報を実用的な定量的計算へと発展させるための重要な一歩を押し進めた。ペターセンは、1931年にヤコブ・ビヤクネスの後を継いでベルゲン予報センターの所長になった。1933年2月1日にアイスランド付近に低気圧があった。ペターセンは、今後その低気圧の進路上で周囲の気圧勾配が狭まり、低気圧がハリケーン並に発達すると予測した。北海には多数の漁船が出漁していた。また停泊していた船も風向によっては被害を受ける恐れがあった。さらに強風による火災のまん延も心配された。
ペターセンは直ちに暴風警報を発表した。果たして2月3日にはハリケーン並の北西の強風が吹き荒れた。多少の被害は出たが、それは陸上施設のものだった。漁師、港湾局など海に関するすべての人は警報に従って可能な限りの予防措置をとっており、被害はなかった[1]。
この暴風雨の様子と警報の発令、被害の状況は、多くの新聞で報道された。北欧でこれほど強く発達する低気圧は珍しかったが、それによる被害が少なかったことはもっと珍しかった。この時の気象状況をペターセンは、1933年に論文にして発表した。この論文がペターセンの評価が世界的に広がるきっかけとなった。
1933年2月3日12:00GMTの天気図。強力に発達した低気圧がノルウェー北部に接近していることがわかる。天気図はNOAAの再解析による。https://www.wetterzentrale.de/en/#google_vignette
ベルゲン学派では極前線理論を提唱しており、この理解とベルゲン学派の気象予報を習得するために多くの外国人がベルゲンを訪れていた。ペターセンは、これらの多くの外国人気象学者たちと交流があった。1933年にベルゲン学派を訪ねてきた。一人は、カナダ気象局のアンドリュー・トムソンである。彼は後にカナダ気象局の長官となって、北米の気象学の近代化に貢献した。
もう一人は、アメリカ海軍のライケルデルファー中佐だった。彼はアメリカに留学したロスビーの友人である(このブログ「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)」を参照)。それには航空機の操縦経験があった当時の海軍航空局長アーネスト・キング少将の影響があった。キング提督は、アメリカ海軍で早くから気象学の普及に努めてきた一人だった。
キングは、ライケルデルファーやロスビーを通じて、航空機運用の際のベルゲン学派気象学の重要性に気づいていた。後に第二次世界大戦が始まると、キングは米国の統合参謀本部の海軍作戦部長として、ドイツ打倒ファーストという周囲の抵抗に屈せず日本軍への早期反攻を強硬に推進し、日本軍が油断していたガダルカナル島への上陸を指図することとなる。彼のようにかつてのパイロットとして気象を重視した航空戦に通暁した人物が、米国海軍のトップとして戦争を指導していたことは注目しておく必要がある。
また、米国海軍大学校大学院で気象学の教官となるピート・ヘイルは、ヨーロッパの気象学者を米国に招聘するという役目を担ってベルゲンに留学してきた。彼はペターセンに白羽の矢を立て、ノーフォーク海軍基地とサンディエゴで2か月間の気象学の講義を行うように要請した。
1935年にペターセンは講義を行うために米国へ一時的に渡った。ノーフォークで行った講義ノートは整理されて、キング提督の序文入りで本にまとめられて、非公式に広く配布された。これはさらに手を入れた形で1940年に「Weather Analysis and Forecasting: A textbook on synoptic meteorology」という予報の教科書としてまとめられて出版された。これは戦後に改訂されて多くの国々で出版された。
このブログ「キスカ島撤収-「ケ」号作戦(4)気象予測の作戦への利用」で私が述べた竹永少尉による前線解析は、ペターセンの1940年の教科書を読んで会得したものと考えられる。戦時中の日本では、ベルゲン学派気象学の使用は例外的だった。米海軍でのペターセンの講義は好評で、この講義が終わった後もペターセンは米国に引き続き滞在し、カリフォルニア工科大学と米国気象局などで数か月間講義した。ペターセンはもっと簡単な啓蒙書の必要を感じたのか、この頃「天気予報入門」という別な本も書いている。
一つ面白いエピソードを記しておく。カリフォルニア工科大学(カルテック)滞在中にペターセンは、学長でノーベル賞受賞者のロバート・ミリカンに会った。宇宙線の研究のために長く高層気象観測を行っていたミリカンは、とある軍曹と賭けをした。ミリカンは高層では地球自転の影響で常に西風が吹くとしたのだが、その軍曹は東風になることがあると述べたのが賭けの内容だった。ところが実際に東風が吹いてその軍曹が賭けに勝ったのだった。ミリカンはその理由をペターセンに問うた。ペターセンもその理由はわからず、亜熱帯高気圧が北上したためではないかと答えるのが精一杯だった。現在ではこの現象は成層圏風の準二年振動としてよく知られている(このブログ「成層圏準二年振動の発見(1)~(4)」を参照)。
ペターセンは、カルテック滞在中に同校教授のフォン・カルマンと知り合いになった。カルマンは流体力学や航空工学の権威である。1933年に米海軍飛行船「アクロン」の墜落によって73名の飛行士が死亡するという大事故が起こった。カルテック学長のミリカンとカルマンは航空機の安全性に対する実用的な意義からカルテックに気象学科を設立した。
カルテック滞在中にペターセンは、カルテック気象学科の教授であるアーヴィン・クリック博士と会った。ペターセンは1934年にベルゲンを訪ねてきたクリックに会ったことがあった。ペターセンはクリックのことを愉快な人物であり、非常に有能で直感的な予報官と評している。またクリックは映画産業に顔が利いたため、ペターセンは彼を通して映画産業にも多くの知己を得たと述べている[1]。
アーヴィング・クリックのこと
後にイギリス空軍にいたペターセンと米国陸軍航空隊のアーヴィン・クリックとは、ノルマンディー上陸作戦時の予報で議論を戦わせることになるので、ここで彼の紹介を行っておく。
クリックはカルフォルニア大学物理学科出身だったが、彼はまずピアニストとしてデビューした。しかし思ったほど売れなかったらしい。彼は1929年の大恐慌までは、ラジオ局と証券会社で仕事をしていた。その後義兄の気象学者ホレス・バイヤースの影響で気象学に関心を向けた[2]。
彼はカルテックで大気の構造を教えていた地震学者ベノ・グーテンベルクと航空工学者であったフォン・カルマンの下で勉強した。彼は1934年に学位を受けた。クリックは利口で、説得上手で、楽観的で、自信家で、人を虜にすることが得意な性格だったようである[2]。学長のミリカン、グーテンベルク、カルマンはクリックを気に入り、カルテックに設立した気象学部の教授にクリックを据えた。それまで米国ではMITにロスビーが開設した気象学科があったが、これによって米国で2つ目の気象学科が誕生した。
クリックは地上天気図から新しいアナログ手法による予報手法を開発していた。アナログ手法とは、現在の天気図に似た過去の天気図を探し出して、それを参考に予報するやり方である(本来アナログとは類似物という意味である)。クリックはカルテックではカリフォルニアの映画産業に撮影用の天気予報を売り込んでいため、映画界にも広く顔が利いた[2]。
また、気象に造詣の深いミリカンを介してか、クリックは近くの基地に勤務していた陸軍航空隊のヘンリー・アーノルド大佐にも自分の予報技術を売り込んだようである。アーノルドは彼を気に入り、自分が陸軍航空隊司令長官に就任した後も彼を重用した。アーノルドは米国陸軍の航空界に絶大な権力を有していたため、ワシントンの陸軍航空隊気象局ではアナログ手法による予報が主流となった。
マサチューセッツ工科大学(MIT)のロスビーは力学を用いた正攻法で気象学に挑もうとしていた。しかし、カルテックのクリックが開発したアナログ手法は、力学とはかけ離れた統計的な概念をも用いたものであり、ロスビーはこれを嫌悪していた。ペターセンは当然力学を用いたロスビーに近い立場だった。ペターセンはビジネス関係者からクリックがアナログ手法としてペターセンの手法を用いているという噂を聞いた際は、それに嫌悪感を抱いている[1]。動きがゆっくりしている上層大気を用いた解析は、専門家外から見るとアナログ手法と区別がつかなかったのかもしれない。
第二次世界大戦後のノルマンディー上陸作戦での気象予報について、理論派のペターセンとアナログ手法のクリックとの対立として語られることがある。その方が物語としてはおもしろいのかもしれないが、クリック個人に対してペターセンは、それほど悪い感情を持っていなかったようである。ノルマンディー上陸については、別のところで解説する。
1936年にペターセンはようやくノルウェーへ戻った。1933年の論文が評価されて彼は国際気象機関(IMO)の予報、海上気象、高層気象の委員会に順次携わるようになった。戦争の足音が近づいてきていた。彼はIMOの委員として数多くの気象関係の会議に出席した。1939年夏には戦争直前のベルリンでのIMOの海上気象委員会の会議に出席した。
ここでペターセンは、ドイツの気象学者リヒャルト・ハーバーメールから、ドイツには2700人の気象学者がいて、そのほとんどが博士号を持っていることをこっそりと聞いた[1]。また散歩のついで、ヒトラーがいる首相官邸の見学にも成功し近くまで行ったようだが、ヒトラーには会っていない。この時参加した会議で、ペターセンはIMO海上気象委員会の委員長に選出された。
MITへの赴任
ペターセンは1935年に米国に渡った際に、米国気象局長官であるウィリス・グレッグから、米国気象局で副長官として働いてみないかと声をかけられた。ペターセンはこの話に興味を持ったようである。しかし、当時はさまざまな理由により、この話を断らざるを得なかった。
1938年にグレッグは亡くなり、後任の気象局長官に1933年にベルゲンを訪問したライケルデルファーが就任した。ライケルデルファーはマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授だったロスビーを局内改革の副長官として招聘した。ロスビーは後任の教授にペターセンを推薦した。ペターセンは迷うことなくこれを引き受けた。もしペターセンが米国気象局の副長官を引き受けていたら、立場がロスビーとは逆になっていたかもしれない。しかし、両者は仲が良く、立場や地位に拘るような性格ではなかった。
1939年、ペターセンはマサチューセッツ工科大学(MIT)へ赴任し、そこの気象学の教授となった。ノルウェー気象局のベルゲン予報センター長は休職の扱いとなった。ペターセンにとって、MITの雰囲気やスタイルはアカデミックなヨーロッパの大学とはかなり違っていたようである。MITはその名の通り技術系の大学である。しかし、基礎学問やアカデミックな教育の最前線でもあった。研究室に籠もった教授はおらず、民間企業のコンサルタントなども自由に務めていた。ペターセンも風力発電の企業に助言を行っている。
一方で学生もヨーロッパのように学究的な知識を求めているとは限らなかった。学生の大学でのコース選択は、多くは就職の際の条件に関心があった。しかし、ペターセンは学生たちをいつも素直で気負いがなく、自分が何を求めているかを理解し、それを達成するために努力していると見ていた[1]。これはアメリカ人の多くが持っている典型的なプラグマティズム的な発想を示しているのかもしれない。
1939年に戦争が始まると、ペターセンは陸軍省からドイツ軍の気象学に関する情報提供を求められた。彼は戦前にドイツの気象学者ハーバーメールから聞いた「ドイツには2700人の気象学者がいて、そのほとんどが博士号を持っている」という話をした。陸軍ではこの話を深刻に受け止めたようである。間もなく陸軍航空隊から気象士官養成のための特別コース設置の打診が来て、MITにそのコースが設置されることになった。
米国気象局にいたロスビーもこの話に興味を持ち、陸軍や海軍と協力して他にもシカゴ大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にも同じようなコースが設置されることになった。これによって大戦中に陸海軍合わせて数千名の気象士官が急速養成されることになった。
ノルダール・グリーグの訪問
1941年には親友であるノルダール・グリーグの訪問を米国で受けている。ノルダール・グリーグは作家で詩人であり、作曲家エドヴァルド・グリーグの遠い親戚でもある。ノルダールの妻ゲルトは、女優でありノルウェーのハーコン国王とも親交があった。ドイツに占領されたノルウェーの外交戦略の一環として二人は米国を訪問していた。
ノルダールは自然科学に興味があり、かつてベルゲン学派を訪れた際に、ペターセンと知り合いになっていた。ノルダールはノルウェーの戦意高揚として映画製作を考えており、その主人公は嵐の解明に立ち向かうノルウェーの気象学者だった[1]。ひょっとしたらペターセンがモデルだったのかもしれない。しかし、ノルウェー的な純粋芸術に近いストーリーは商用主義のアメリカでは直ちに映画として実現するのは難しかった。
彼は1943年に戦争を取材する特派員としてベルリン爆撃に参加し、その際に搭乗機が撃墜されて亡くなった。その爆撃の気象予報を担当していたのはペターセンだったが、撃墜された爆撃機にノルダールが乗っていたことは後で知ったようである。
ノルダール・グリーグと妻のゲルト・グリーグの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Nordahl_Grieg#/media/File:Portrett_av_Gerd_(1895-1988)og_Nordahl_Grieg_(1902-1943).jpg
参照資料 (このテーマ共通)
[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.
[2]J. Cox , (訳)堤 之智, 2013, 嵐の正体にせまった科学者たち, 丸善出版

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