(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
12. 最後にいくつか補足
ペターセンについて言えることは、信念を持っているが、態度は常に謙虚でつましいということである。これは幼い頃にノルドランドという自然が厳しい環境で育ったためだろうか?彼は母方の祖父の影響なのか自然の厳しさや人知を越えた何かを熟知していた。
彼はなんども周囲から「あなたの影響力はあなたが思っているより大きいのです」と説得されている。しかしその大きな影響力をむやみに振り回すことなく、周囲から説得されてやむを得ずか、自分の強い信念に基づいてのみ行動を起こした。そして、その結果については「あなたの功績はあなたが思っているより大きいのです」と言えるのかもしれない。しかし、後述するように人命を救えなかったことなどがあったことからなのか、自身のつましさを後悔することもあったのだろう。最後はニクソン大統領へ手紙で直接抗議して米国籍を返上した。
気象学ではしばしばプログノ(予後)などの医学用語が使われることがある。彼は自分が行っていることを「臨床研究」と呼んでいる。彼は気象の臨床研究に興味があり、基礎研究と応用の間にある境界のはっきりしない影の領域での仕事を望んでいた。彼が日々自分が行っている予報の実践から研究の種を見つけて研究することを、臨床研究と呼んでいることは、確かに言い得て妙である。
気象の臨床研究に興味があった彼は、「物事をありのままに見るためには、大量の残滓から数粒の金を分離することを学ばなければならない」と述べている[1]。彼はまさに日々の膨大な気象の臨床研究から数粒の金を分離し、それを気象学の進歩につなげてきた。純粋な理論研究を目指さなかった彼には、確かに「ペターセンの法則」のようなものはない。しかしこのブログで述べてきたように、彼が集めて蒔いた金の粒は、現代の気象学において確実に花開き、欠くことのできないものになっている。
最後に彼に関するこれまでのブログでは書き漏らした彼に関するいくつかのイベントについて補足しておきたい。
ソ連によるラップランド占領の抑止
戦争末期、ドイツ軍がノルウェーのラップランドから撤退し始めた。それに呼応してソ連がそこに進出する気配を示した。これをイギリスに亡命していたノルウェー代表団が懸念した。この件に関してはノルウェーの外交官は無力のようだった。ノルウェー代表団はペターセンと彼が持つ人脈を頼った。ペターセンは友人の科学産業研究省のエドワード・アップルトン卿と接触し、ペターセンとアップルトンはチャーチルの友人で科学顧問を務めるフレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)とお茶をする約束をとりつけた。しかし政治絡みの話は微妙であり、そこではチャーウェル卿がラップランドの問題に興味を持っていたとしか記されていない[1]。結果として、ラップランドはドイツ軍の撤退だけで済んだ。
チャーウェル卿の写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Lindemann,_1st_Viscount_Cherwell
空電観測への貢献
ダンスタブルの上層大気部門にいた際に、ペターセンは空電(スフェリックス)に興味を持ち、オクスフォード大学のエドワード・アップルトン教授の門下生たちと協力して、北大西洋全域、ほぼ北米に至るまでの観測データを収集するための空電の観測網を構築に協力した。これは、戦時下で船舶からの気象通報が制限されている中で、大規模な総観気象の解析のための不可欠な観測データとなった。現在日本の気象庁ではライデン(LIDEN)と呼ばれる同じような雷観測網を運用している。
電子航法装置の実用化への貢献
ペターセンはイギリス空軍の夜間爆撃の予報を担当した。航空機の発達と戦争によって大型爆撃機が高空(高度3000m以上)を常時飛ぶようになったのは、開戦のほんの数年前からである。そのため、この高度の気象解析と予報というのは全く新しい分野だった。そして、この予報と電子航法装置によって夜間に爆撃機が精度良く飛行できるようになった。これらによって単一目標への夜間の大規模爆撃が初めて可能となった。電子航法装置については、「(6) ドイツ爆撃のための予報」で解説したとおりである。
彼が電子航法装置を開発したわけではないが、上層大気の予報と電子航法装置は車の両輪のようなもので、その利用には綿密な検証や組み合わせが必要である。そう考えると、第二次世界大戦でのペターセンのこの分野での功績は大きいと言えるだろう。
電子航法とは関係ないが、彼は1944年夏にハワイで講演した際に、ドイツ爆撃の際の教訓から将来の日本への爆撃における上層のジェット気流が及ぼす影響についても注意を喚起していた。しかしそれは当時ほとんど顧みられなかった。米軍が1944年末にB-29による日本爆撃を開始した際には上層での強い西風に驚かされ、この風により高空からの爆撃精度が落ちたとされている。
フレッシュマン作戦への関わり
ペターセンは、フレッシュマン作戦にも参加している。これは1942年11月に行われたグライダーを用いて工作員を送り込んでのノルウェーの重水工場破壊工作である。しかし破壊工作員34名が乗ったグライダーは、雲に突っ込んで行方不明となり、作戦は失敗した。グライダーは海上に墜落したとも、搭乗員はゲシュタポに捕らえられて処刑されたとも言われている。
「フレッシュマン作戦」のターゲットなったノルウェーのリューカンにあった重水工場
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vemork_Hydroelectric_Plant_1935.jpg
ペターセンはこの作戦の予報にも関与していた。しかし彼この作戦で使用するグライダーの特性を知ったのは決行の直前だった。しかも気流から判断して天候が悪いことはわかっていた。ペターセンは気象状況が不適であることを提言したが、隊長は現地から来た「晴れている」という情報をもとに作戦を決行した。
ペターセンに技術的な落ち度はなかったが、これによって多くの人名が失われたことは、ペターセンに助言のあり方についての大きな影響を与えた。これがノルマンディー上陸作戦の予報の議論の際に教訓となっていたようである。
ノルマンディー上陸作戦時の気象予測に関する電話会議の補足
電話会議での流れは、基本的は「(10)ノルマンディー上陸作戦」で述べた通りなのだが、電話会議での白熱したやりとりになったと思われる下地を補足しておきたい。
まず最高司令部のチーフ気象士官はイギリスから出すことになっていた。ネルソン卿はスタッグは予報官ではなかったが、当時の英国気象局の幹部の一人であり、上陸作戦の責任と重圧に耐えられると判断してチーフ気象士官に任命した。スタッグは海軍本部の予報に満足していなかったが、自分用の気象解析チームを与えられなかったので、天気図を見る際にはポーツマスの最高司令部の近くにあった海軍本部を頼った。彼はチームのいずれか、あるいは合意された予報に基づいて、アイゼンハワーに提言するしかなかった。副気象士官のイェーツ大佐は気象の専門知識を持ち、外向的で冷静かつ強靱な精神を持った米国陸軍航空隊の軍人だった。
ペターセンは論理的で冷静沈着だったが信念を持っており、それを曲げる気はなかった。同僚のダグラスは優秀だったが、精神的にやや脆いところがあって興奮しやすかった。ワイドウィングのホルツマンは、クリックと同じカリフォルニア工科大学出身でわりと柔軟な態度であった[6]。しかしクリックは、アーノルド司令長官やカルテックのフォン・カルマンらのバックアップを受けて、自分のアナログ手法にかなりの自信を持っていた。
ペターセンはアナログ手法を否定しているわけではなかった。ただ使えるかどうかは状況次第なので、その時々でその手法がどこまで使えそうかをクリックらと顔を合わせて、詳細に協議したかったと思われる。そのためネルソン卿から予報の議論を電話会議で行うと聞いて、合意にはかなり困難を伴うという考えを持っていた。それは当然の考えだと思われる。
こういったバックグランドと性格を持った予報の専門家が電話会議で意見を一致させるのは、一般的にはたしかにかなり困難だっただろう。かなり白熱したやりとりもあったようである。チーフ気象士官スタッグはかなり苦しい立場に立たされた。しかし、強靱な精神を持ち冷静だった副官の軍人イェーツがそれをうまくカバーしたという意見もある。
なお、上陸作戦の諸々や電話会議でのやりとりは戦後かなり経ってから機密解除された。そのため、関係者が作戦の全体像や経緯を知ったのは、戦後かなり経ってからだった。関係者の回顧録の多くはその前に出版されている。なお、戦後この電話会議の一部がドイツのテレフンケン社の電話記録機に保管されていたことがわかっている[3]。暗号戦の深遠さを垣間見ることが出来る。
最後に、ペターセンがノルマンディー上陸作戦を救ったというつもりはないが、もし彼らがワイドウィングの予報に安易に妥協して、6月5日に作戦が決行されていれば、大惨事になっていただろう。5日は風力5~6(風速10m/s以上)の風が吹き、低い雲がノルマンディー地方を覆っていた。そうなれば、上陸前の重要な爆撃も、パラシュートやグライダーによる降下も不可能であり、上陸を強行すれば途中で上陸用舟艇が多数転覆し、海岸にたどり着いたとしても部隊や装備がバラバラで作戦の体をなさなかったかもしれない。
6月5日の当初の作戦予定日は強風による高波と低雲で、作戦の実施は実質的に不可能だった。月齢上適した2週間後の6月19~22日は嵐だった。しかもその予報に失敗した上に、揚陸作業中の多くの船・桟橋などが転覆・破壊された。そう考えると、6月6日の決行がいかに奇跡的な判断だったかがわかるだろう。
6月19-22日の嵐で破壊されたノルマンディー海岸の人工埠頭
https://ww2db.com/image.php?image_id=5267
参照文献
[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the
D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger
Fleming), American Meteorological Society.
[2] J. Cox
, (訳)堤 之智,
2013, 嵐の正体にせまった科学者たち, 丸善出版
[3]
Anders Persson, 2020, Right for the Wrong Reason?:A
New Look at the 6 June 1944 D-Day Forecast by a Neutral Swede, AMERICAN
METEOROLOGICAL SOCIETY, Bulletin of the American Meteorological Society, July
2020, 993-1006.
[4]
John Ross, 2014, THE FORECAST FORD-DAY, And the Weatherman behind Ike's
Greatest Gamble, LYONS PRESS.
[5] Robert
C. Bundgaard, 1979, Sverre Petterssen, weather Forecaster, Bulletin American
Meteorological Society, Vol. 60, No. 3, March 1979.
[6] Orden,
R.J., 2001, METEOROLOGICAL SERVICES LEADING TO D-DAY, Occasional Papers On
Meteorological History No.3, The Royal Meteorological Society



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