2024年12月4日水曜日

秋が短くなった?

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

このブログは気象学史に焦点を当てているので、今後評価が変わる可能性がある近年のことについては、あまり触れないようにしている。しかし、過去の気候は今後それほど変わらないだろう。それで近年の秋の傾向について述べる。

今年(2024年)の秋も異様に暑かった。ところが12月に入ると、関東周辺では一転して肌寒い日が多くなり、秋らしい日があまりなかった印象がある。報道各社からも秋の高温について、「11月半ばに20℃超「秋がない?」異例の暖かさ」とか、「11月最高気温 東京都心100年ぶり更新」とか、「11月中旬に…季節はずれの夏日!」など数多くの報道があった。

このブログの「近年の秋の気温上昇について」で、近年秋がこれまでより涼しくなくなってきていることを述べた。それで例として、もう少し詳しく1960年から2024年までの9月~12月の各月の8月との気温差の経年変化を簡単に調べてみた。それが下のグラフである。

          日本の秋における8月平均気温との差の経年変化図

地点は、気象庁が日本の平均気温を算出している網走,根室,寿都,山形,石巻,伏木(高岡市),飯田,銚子,境,浜田,彦根,宮崎,多度津,名瀬,石垣島の15か所の1960年から2024年までの各月の平均気温を用いた(2024年の12月のデータは入っていない)。これらの地点を平均した月平均気温を8月から12月まで算出し、各月の平均気温の8月との差を求めた。

データは気象庁がホームページで公表しているものを用いた。なお気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログ「情報のグローバル化 」で述べたように、気象データの公開性がこのような解析を誰でも行うことを可能にしている。

右端の数式はこの気温トレンドの回帰式である(100年間で、9月が0.79℃、10月が0.82℃、11月が0.24℃、12月が-0.65℃の変化を意味する)。この傾きが正だと夏との気温差が縮まり、負だと差が大きくなることを意味する。すると9月、10月、11月は傾きが正となっており、8月との気温差が年々縮まってきていることがわかる。ところが、12月は8月との気温差が逆に広がっている。

つまり、秋はこれまでより暑い日が多くなってきているが、12月になると一気に寒い日が多くなることを意味する。これは秋が短くなってきているという体感とも一致している。なお、これは8月のとの気温差を取っているので、地球温暖化などによる平均気温全体の上昇は入っていないことに注意していただきたい。8月の平均気温が大きく上昇していると、気温差が減っている以上に秋が暑くなっている可能性もある。

グラフは「おおっ」というような一目でわかる劇的な変化を示しているわけではないものの、数的な解析からは明確に傾向がわかる。これはあくまで暫定的で簡易的な解析であり、期間や地点を変えると結果が変わることがある。

自然科学者は、このような地道な作業を繰り返し行っている。モデルなどを使うこともある。そして、もっと詳しい解析から確度の高い情報を読み取れれば、その新しい情報が論文などを通して専門家による一定の評価を得てから、発表されている。

 (次は 気候データのデータ解析モデルとは

2024年11月15日金曜日

技術と気象(5)人工衛星

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

1957年にソビエト連邦が人工衛星の打ち上げに成功すると、米国がすぐにそれに追いついて、宇宙での軍事技術競争が始まった。ロケット開発はもともとは弾道ミサイルのためで、人工衛星の開発も、宇宙からの地上の軍事偵察が目的の一つだった。しかし、宇宙から地上を見ると雲も見える。軍事偵察からすると、雲はそれを邪魔するものだった。しかし、一方で雲の把握は気象観測にとって重要だった。

時は冷戦の真っ最中だった。偵察機やスパイを送り込んだ相手国の情報収集が重要な手段となっていた。しかし偵察機U-2が撃墜されたり、スパイは相次いで逮捕されたりして、どれも決め手に欠いていた。

高高度偵察機 U-2
https://ja.wikipedia.org/wiki/U-2_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:1st_Reconnaissance_Squadron_Lockheed_U-2R_80-1068.jpg

そこで出てきたのが、人工衛星による気象観測である。これと軍事偵察は、手段・手法はほぼ同じであり、目的が異なるだけだった。人工衛星の平和利用のシンボルとして、衛星による気象観測が挙げられた。ちょうどコンピュータモデルを用いた気象予測も始まっており、全世界の気象データが必要になっていた。

アメリカは、人工衛星を用いて宇宙から世界中の気象観測を行うとともに、全世界の地上気象観測データを衛星通信などで交換することを画策した。1961年9月25日に、アメリカのケネディ大統領は、国連総会において衛星とそれを用いた通信網を用いて、気象通信網と気象予報に関する各国による協力を提案した(気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログ「国際政治とグローバルな気象観測網 」も参照)。これは別な見方をすると、人工衛星を用いた軍事偵察の平和目的の気象観測による合法化という面もあった。

ケネディ大統領の提案は国連総会で公式に採択され、それを受けて世界気象機関(WMO)は世界気象監視(World Weather Watch)プログラムの設立に動いた。これは1960年代に徐々に機能し始めて、気象観測だけでなく、それを集めるデータ交換のための世界初の全球規模での通信網ともなった。このプログラムは現在も機能しており、ウクライナや北朝鮮を含む全世界の気象観測データが、各国の主義主張を超えてほぼリアルタイムで全球規模で交換されている。気象予報モデルは全世界の気象データを必要とする。そのため、気象予報はこれによって大きな恩恵を蒙っている。

2024年5月 地上気温 月統計値の例(気象庁の世界の天候データツールより)。北朝鮮やウクライナ(黒海付近)を含めて、多数の観測報告があることがわかる。これは気候値用のClimat報であるが、予報用のSynop報もほぼ同じである。

静止衛星や極軌道衛星による気象観測は、広域の雲の可視化に威力を発揮した。海上のはるか遠くにある台風とその構造なども一目瞭然にわかるようになった。また、宇宙から見た雲画像は、天気予報番組などで今でも盛んに使われて、欠かせないものとなっている。

ただ、衛星による観測結果を気象予報モデルの入力として実際に使うのは簡単ではなく、長い期間にわたって気象予報の精度向上にはあまり寄与しなかった。衛星は主に地球からの可視光を含む放射量を観測しており、それを気象予報モデルの初期値として使うために格子点での気象要素に変換すること、が困難だったためである。

それを解決したのはデータ同化という計算機技術だった(このブログの「データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和 」を参照)。衛星で観測した放射量を、同化モデルを用いて気象予報モデルのための初期値を作成することが可能になった。現在では、気象衛星による観測結果は、気象予報に極めて重要な役割を果たしている。

(次は「秋が短くなった?」)

2024年11月11日月曜日

技術と気象(4) レーダー

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

レーダーは、第二次世界大戦直前に発明されて、大戦中に発達した。当初の目的は空中にある航空機の検知であり、高速で移動する航空機の事前の把握・監視に大きな役割を果たした。ところが、レーダーは大気中にある水蒸気によるノイズに悩まされていた。しかし発想を変えると、これは逆にはるか先の雲などの把握に使えることがわかった。

大規模な雲などの気象擾乱は、航空機の飛行の安全に重大な影響を及ぼす。戦時中から航空機にレーダーが搭載されるようになり、悪天候域の回避にも使われるようになった。また、戦後に気象の把握に特化した気象レーダーが開発されて、地上や高所にも設置されるようになった。

 気象レーダーによる観測の概要(写真は東京レーダー(千葉県柏市))
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/radar/kaisetsu.html

レーダーや人工衛星がない時代、海上の台風の発見がどれほど困難だったか考えてみてほしい。海上には観測地点はない。台風の移動速度が速いと、数時間の内に天候が急変したかと思うと台風が海上から上陸し、大きな被害を蒙ることがあった。そのため、気象庁では南方定点に、台風監視用の船を一時期配置していた。船の乗組員は下手をすると台風に巻き込まれることも覚悟の上だった。それは台風から国民を守るという使命感によるものだった。

レーダを用いると、陸上からでも遠くの台風を検知できるだけでなく、その全容もわかる。「米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(2)」では、艦船上の初期のレーダーが捉えた台風画像を掲示している。

高い山頂のレーダーから遠くの台風を捉えることができれば、早くからその対策を取ることが出来る。伊勢湾台風の被害を契機に富士山にレーダーを設置する計画が持ち上がった。その経緯は、このブログの「富士山における気象観測(5)山頂へのレーダー設置計画 」に詳しく解説している。このプロジェクトは、国の威信をかけたものとなり、完成時には多数の報道とともに記念切手も発売された。また、後年NHKのプロジェクトXでも「「巨大台風から日本を守れ」 - 富士山頂・男たちは命をかけた」というタイトルで放映された。ただし、今では台風の監視は人工衛星に取って代わられている。

レーダーの気象に対する別の効果は、竜巻やダウンバーストなどの局地現象の把握である。これは極めて狭い範囲で起こり、発生してから短時間で消滅するため、この現象の把握は極めて困難だった。しかも、航空機の離着陸時には、ダウンバーストは安全に対する重大な脅威であり、事故も多発した。レーダーから発展したドップラーレーダーは、雲粒の移動速度や向きがわかる。それを用いることで、藤田哲也らはダウンバーストという現象を発見した。そして、それを用いることで、ダウンバーストによる事故を回避できるようになり、大勢の命を救うことを可能にした。このことは、このブログの「ミスター・トルネード 藤田哲也」で、詳しく解説している。

気象レーダーは、今では雨量観測と組み合わせて、ナウキャスト(レーダーアメダス)として集中豪雨の監視などに威力を発揮し、警報や大雨情報の発表の根拠の一つとなっている。雨雲の動きや強さは気象庁ホームページなどでリアルタイムで公開されており、豪雨災害の監視に大きな役割を果たしている。

 

ナウキャストで捉えた豪雨の例(平成26年6月29日16時)
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kurashi/highres_nowcast.html

 (次は技術と気象(5)人工衛星

2024年11月6日水曜日

技術と気象(3) 無線と気球

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

19世紀末に、マルコーニらによって無線が発明されると、有線電信より情報の収集範囲が広がった。「世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治」のところで述べたように、電線のない僻地からの気象データの無線を用いた収集も計画された。しかし、無線の発明で本質的に重要なのは、ラジオゾンデの発明である。空中にあるものを研究するのは地上にあるものよりはるかに難しい。「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」のところで述べたように、19世紀の有人気球による上空の気象調査は、観測というよりむしろ冒険の世界だった。

20世紀初頭のゴム気球の発明(「リヒャルト・アスマン(その2)」参照 )は、気球自体が安価になって使い捨てが出来るようになっただけでなかった。気球には気象観測装置の観測結果を記録する自記記録装置が搭載されており、観測結果を知るには、落下場所を見つけてそれを回収する必要があった。それまでの気球の自記記録器は、放球地点より数百km先に落下するのが普通だったが、ゴム気球になって上昇速度が速まったため、破裂して比較的近くに落下するようになった。これは成層圏の発見に貢献したが、それでも自記記録器は回収する必要があった。その手間はばかにならず、しかもしばしば行方不明となった。1920年頃から航空機を用いた上層の気象観測も行われるようになったが、観測にかかる費用が高額だったため観測頻度は極めて限られていた。

それを変えたのが1930年頃に発明されたラジオゾンデである。この経緯は本書「9-4-3世界でのラジオゾンデ観測の発達」で述べたとおりである。これによって自記記録器を回収する必要がなくなり、またリアルタイムでの上空の気象観測が可能になった。これは技術的に見ると、リモートセンシングの始まりでもある。世界各地でラジオゾンデを用いた高層大気の観測網が構築されるようになった。この高層気象観測網による定期的な観測により、高層大気の規則的な振る舞いがわかるようになった。

 ラジオゾンデ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%87#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Radiosonde-wx-balloon.jpg

18世紀頃から20世紀はじめまでの地上気象観測網による気象学の成果を見てほしい。16世紀の哲学者フランシス・ベーコンは、観測による「自然誌」や「実験誌」の蓄積(つまりデータの蓄積)による帰納法を用いた法則の発見を唱えた。これによってベーコン主義者たちは、いろいろな科学分野でさまざまな法則を発見した。気象学も同様に各地に地上気象観測網が作られ、法則性を見つけるために、20世紀初めまで膨大な気象データが蓄積された。しかし、いくつかの気候学的、あるいは総観気象的な法則 ―例えば低気圧の風の回転やボイスバロットの法則― のようなものは見つかったものの、地上でははっきりとした法則性を持った現象はほとんど見つからなかった。

ところが、高層気象観測によって成層圏が発見され、さらに1930年頃から整備されたその観測網によって、上層大気中で地球規模で規則的に運動する超長波(ロスビー波)などが発見された(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績」参照)。そして、その運動を力学的に定式化することによって大気運動の解明が可能になった。また、大気の鉛直構造の定量的な把握によって傾圧構造などの低気圧の鉛直構造がわかり、低気圧の発達のメカニズムなども解明されるようになった。気象学は、気球と無線を用いて、それまで手が届かなかった高層大気を解明することによって、一気に発展することとなった。

 (次は技術と気象(4)レーダー

2024年11月5日火曜日

技術と気象(2) 電信

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

19世紀半ばにアンペール、ヘンリー、モールスらによって電信機が発明された。これによって人の移動を伴わずに情報を瞬時に伝達できるようになった。つまり、情報の伝達速度が気象の移動速度を超えることが出来るようになった。これに気づいた気象学者たち、フランスのパリ天文台長のルベリエ、イギリス気象局のフィッツロイ、オランダの王立気象台長ボイス・バロット、アメリカのスミソニアン協会理事長のヨゼフ・ヘンリー(「電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学」参照)らは、国内各地の気象を暴風警報のために電信で一か所に集めることを開始した。そのためには、観測方法や報告様式の決定、当時高額だった電報代の調整が必要だったが、それによって観測地点の気象が瞬時にわかるようになった。

イギリス気象局のフィッツロイ。彼はダーウィンを乗せたビーグル号の船長だったことでも有名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AD%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Robert_Fitzroy.jpg

しかし、気象学にとって電信にはもう一つ大きな役割がある。それは情報の共有・配布である。電信で各地の気象状況を集めて嵐の襲来を予測できても、それが多くの住民や関係者に伝わらなければ意味がない。集められた情報から決定された警報は、該当地域に電信で送られた。当時最も実用性が高かったのは港の船舶に対する暴風警報だった。当時は港湾での警報標識の掲揚、新聞への掲載、役所、警察署などでの掲示が行われた。これは現代で言う一種のナウキャストである。

気象の情報はそれが現地に到達する前に発表されないと意味がない。この電信による情報の伝達と共有という近代技術によって気象予報は発達した。数千kmという総観規模(天気予報で用いられる天気図程度の範囲)の気象という一人の人間の目が届かない広域の現象を捉えて警報を出すには、気象学にとって電信という近代技術が不可欠だった。逆に言うと、その地での気圧計の変動などを用いたそれまでの気象予報の発達が遅々とした理由には、広域の状況を気象の移動を追い越して知るための情報伝達の技術がなかったことも一因だった。

そして、それは国内だけでなく、近隣の国々との気象情報の交換の必要性も生み出し、そのための国際組織である国際気象機関(IMO)の設立を促進した。IMOは1879年に設立されたが、政府間組織ではなかったために決議に拘束力がなく、気象情報の交換はなかなか進まなかった。しかし、第二次世界大戦後に、国連の専門機関である世界気象機関(WMO)が設立されると、無線や人工衛星の利用を含めた気象情報の世界規模での共有が一気に進んだ。それは気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログ「国際政治とグローバルな気象観測網」で述べたとおりである。

現代の予報では、この電信から始まった気象観測網の発展・拡大によって、大きな恩恵を蒙っている。 

(次は技術と気象(3)無線と気球


2024年11月2日土曜日

技術と気象(1)時計

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

17世紀後半に、ホイヘンスらによって機械式時計が発明された。これはひげぜんまいや金属歯車などを用いて、自動で時を刻むものだった。これはヨーロッパで精密機械が発達するきっかけの一つになったのではないかと思う。

ところで、当時気象測器も発展の途上だった。当時の気象測器は、温度や気圧、風速(風力)などのセンサーの指示を目で読み取る必要があった。気象観測は夜間を含めて定期的に長期間継続する必要がある。人が毎日一定時刻に測定器の前に行って、指示を記録することは大変な負担だった。記録をなんとか自動化したいと思うのは自然だった。

その自動化の試みに使われたのが機械式時計の仕組みの利用である。本書の「4-7 メテオログラフ」で書いているように、それを利用した自記気象観測装置を最初に考案したのは、クリストファー・レンである。彼はロンドンのセントポール大聖堂をはじめとして数多くの有名な建物の建築を手掛けた建築家だったが、幼い頃から機械式時計に興味を持っていた。彼は15歳の頃、父親宛に「回転シリンダー付きの気象時計(ウェザークロック)を作った」と手紙に書いている。しかし、どういう物であったのかという具体的な資料は残っていない。

 

クリストファー・レンの肖像画
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Christopher_Wren_by_Godfrey_Kneller_1711.jpg

これを引き継いだのが、レンの友人で王立協会のメンバーだったロバート・フックだった(ロバート・フックと気象観測を参照)。彼はフックの法則や顕微鏡を使ったスケッチであるミクログラフィアなどで有名である。フックは王立協会でさまざまな気象測器も考案していた。気象測器の発達の立役者の一人である。

彼はレンのウェザークロックを改良した。そして、振り子時計を利用したメテオログラフと呼ぶ気温、風向、雨量の自記気象観測装置を作った。ただ、屋外では使えなかったり、高額な上に記録結果を読み取るのに手間がかかったりしたため、この装置は広まらなかった。

フックが作ったウェザークロック

気象測器に限らないが、当時のヨーロッパにおいては、なんとか装置を機械化して自動化したいという強い熱意を感じる。このような熱意は、後の紡績機や蒸気機関の発明にもつながったのではないだろうか。ヨーロッパでは、細々とではあるが自記気象観測装置の開発は続き、さらに精巧かつ巨大化していった。1851年のロンドン万国博覧会には光学機械メーカーが作成した巨大な大気記録装置が出品され、1867年のパリ万国博覧会では、電気を動力としたものも出品された。それらには記録頻度を高めることによって、謎の多い気象を解明しようという思いも含まれていた。

しかし、時代は小型化の方へ進んでいた。1880年代に持ち運びできる簡単な構造で安価な自記温度計や自記湿度計、自記気圧計などが開発されると、それまでの精巧だが巨大で重いメテオログラフは廃れていった。

(次は、技術と気象 (2)電信


2024年9月18日水曜日

ベンジャミン・フランクリンと気象学

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

フランクリンの気象学における業績は、本の3-6-2節で紹介しているが、ここで改めて彼の業績の概要を紹介する。

ベンジャミン・フランクリンは政治家でり、アメリカ独立宣言の起草者の一人で有名である。そのため、アメリカの100ドル札に彼の肖像画が描かれている。しかしながら、彼は自然科学の深い探求者であり、雷の研究でも知られている。彼は気象学全体にも深い興味を抱いており、その解明にも取り組んでいるが、ここでは彼の雷の研究を解説する。

なお彼の活動の大半はアメリカで行ったが、アメリカが独立したのは1776年であり、フランクリンが自然科学者として活動した時期の大半はアメリカがまだイギリスの植民地だった頃のことである。


フランクリンの肖像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:BenFranklinDuplessis.jpg

フランクリンの実験の前までは、雷は人々にとって驚異であり畏怖の対象だった。古代ギリシャでは、稲妻は神ゼウスが投げる槍であり、キリスト教では、雷は神による罰とも受け取られていた。

1746年から、フランクリンは電気を使った火花の一連の室内実験を行った。フランクリンは、それらの実験から尖った先端を持つ物質が電気火花の放出と誘引に効果的であることを発見した。そして、その電気状態を説明するのに「プラス」と「マイナス」という言葉を用いた。その放電の観察から、ライデン瓶に電気を充電して放電させる際に、接地していることの重要性を発見した。

彼は、先端が尖っている方が電気火花を誘引しやすいという室内実験での経験から、稲妻が電気と類似していると推測した。それに基づいて、雷雲がその地域を通過しているとき、高い丘や木々、尖塔、船のマスト、煙突などに落雷しやすいことに気づいた。それだけでなく、尖った金属の先端からの放電が、上空の雲からの電気の影響を減らして稲妻に打たれる可能性を減らすことと、その放電効果はその先端が接地されているときに最も高いことに気がついた。

              雷の稲妻放電(Photo by ARAさん)

 フランクリンは、イギリスの王立協会のメンバーで植物学者だったコリンソンに、その内容を手紙で送った。コリンソンは1751年にその内容を本として出版したため、フランクリンの実験は直ちにフランス語やドイツ語に翻訳されて、ヨーロッパ中に知られることとなった。1752年5月10日にあるフランス騎兵がフランクリンの本に従って、パリの近くのマルリー=ラ=ヴィルで地面から注意深く絶縁された高い鉄塔から火花を引き出すことに成功した。この実験から雷雲は帯電しており、稲妻は電気的な放電であることが証明された。

この実験は直ちに評判になり、直ちにヨーロッパ中の多くの人々によって確かめられた。当時は科学ブームの時代で、こういったさまざまな「科学の驚異」のデモンストレーションに人々は夢中になった。

フランクリンによる有名な凧を使った雷誘導の実験は、1752年6月か7月に行われた。その時、彼はマルリー=ラ=ヴィルでの実験を知らなかったが、彼がこの実験から指摘したことは次の点で画期的だった。

(a)雷雲が帯電しているかどうかを絶縁した高い棒で確かめることができ得る。
(b)接地した高い棒を使えば稲妻の衝撃から免れ得る。

またフランクリンは、雷雲の極性を測るのに大気中の電気の特性を摩擦で発生させた電気と比較した。その結果、彼は摩擦の電気と雷の電気は同じもので「落雷を起こす雲の電気は、負の状態が一般的だが、正の状態になることもある」ことを発見した。

以上の観察結果から、1762年にフランクリンは雷の被害を防ぐために避雷針を考案した。驚くべき事は、今でも避雷針の原理は、フランクリンが考案した仕様と本質的には同じままであることである。現在では建造物を雷から保護するのに世界中で避雷針が利用されている。

雷に関すること以外にも、フランクリンは嵐(低気圧)の進行スピードを、各地で同時の起こる月食を利用して初めて合理的に推測した。また、彼は竜巻を観察し、それが凪と酷暑の後に出現する点に注目した。そして熱によって希薄化された大気が上昇することによって地表気圧の低下を生み出し、大気が四方八方から内部へ流れ込んで回転しながら上昇して竜巻になることを指摘した。

1783年には、アイスランドのラキ火山などの噴火(「1783年のラキ火山噴火の大気への影響」参照)により、ヨーロッパの状況はグレート・ドライ・フォッグとも呼ばれた。フランクリンはこの年の夏の日射が異常に弱く、そして翌年の冬は厳冬となったことに気づいた。彼は大気中の塵による煙霧が日射を散乱して地上に届く熱が減ったために、翌年厳冬になったと推測した。そして、そういう煙霧が起こった際には、引き続いて起こる厳冬への対策を事前に講じることができる可能性があることを指摘した。

これらは、当時の気象学の水準からすると画期的な発見であり、彼が優れた非凡な観察眼と考察力を持っていたことがわかる。

(次は、技術と気象 (1)時計)

2024年7月25日木曜日

電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

ヨゼフ・ヘンリー(1797~1878)は有名な電磁気学の大家である。ニューヨーク州立大学の教授であり、1820年頃から電磁石の原型をつくって実験を繰り返していた。1830年にファラデ-より先に電磁誘導現象を発見していたが、その発見の栄誉は1831年のファラデ-の発表に譲っている。しかし、1832年に彼は電磁石の自己誘導現象を発見し、彼の功績を称えて、電磁誘導係数(インダクタンス)の単位はH(ヘンリー)になっている。

              ヨゼフ・ヘンリーの肖像

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Joseph_Henry_(1879).jpg

彼は、1835年には電信機の発達に不可欠な電気信号の増幅器(リレー)を発明した。その後、画家モールスによる電信機の研究を技術的に支援した。ヘンリーによる支援がなければ、モールスによる電信機の実用化は不可能だったかもしれない。ヘンリーは、電磁気に関する多くの発明を行ったが、それらを一切特許化せず、他の人間がこれらを使って製品化することを大いに援助した。彼の電磁気学における功績を記した本は多い。

ところが、彼は気象学においても忘れることが出来ない大きな功績を残している。ワシントンにスミソニアン協会が設立されることになったとき、その理事長に、世界の著名な科学者であるフランスのアラゴ、イギリスのファラデー、デイビッド・ブルースターなどがヘンリーを推した。1846年にヘンリーは、米国スミソニアン協会の理事長となった。

実は、彼は稲妻を含む電気の性質と大気の謎にも大なる興味を持っていた。彼は、若い頃にニューヨーク州立大学で気象データのとりまとめに携わった経験があり、気象について優れた理解力も持っていた。そして当時の米国での気象学における暴風雨論争にも関心を抱いていた。

彼はスミソニアン協会の理事長になった際に次のように述べている[1]。

我々は新しく興味深い結果が必ず期待できる観測に、十分な科学的精度で我々の注意を向けることができる。北アメリカ大陸を覆う可能な限り広い観測システムを設立することを提案する。

スミソニアン協会は、気象学に関する二つのプログラムを立ち上げた。一つ目のプログラムは、観測者たちによる大陸規模の気象観測ネットワークの設立だった。この観測者たち(スミソニアン オブザーバーと呼ばれた)は、毎日気象観測を記録して毎月ワシントンのスミソニアン協会宛てに郵送した。

これには生物季節情報も含まれており、当時西へ西への拡大しつつあったアメリカ合衆国領土の地誌解明にも貢献した。

二つ目のプログラムとして、彼は1849年に米国国内の電報交換手たちからなる気象情報ネットワークを立ち上げた。彼は、電信による即時的な情報伝達における、気象学への意義を正確に理解していた。

電報交換手たちは現地の気象を電信を使って報告し、それはスミソニアン協会本部にリアルタイムで集められた。スミソニアン協会のロビーには、国内各地の現在の気象状況を表している大きな地図が展示された。これは、現在のナウキャストの原型ともいえる。

この展示物はスミソニアン協会来訪者たちの評判となった。ヘンリーはこの気象状況を見て、嵐になりそうな場合は自身の講演を中止したりしている。後にこの天気概況図はワシントンの新聞に掲載された。

ヨーロッパでは、パリ天文台のルヴェリエが、初めて電信を用いて各地の気象報告の発行を開始したのが1856年だった。それと比べると米国でのヘンリーの先進性がよくわかる。

しかし1861年から始まった南北戦争によって、電報交換手たちが出征したり、南北間の電線が切断されたりしたため、スミソニアン協会による気象ネットワークは、中断した。さらに1865年には、スミソニアン協会本部で壊滅的な火災が発生し、貴重な較正機材や記録が消失した。また、その凝った装飾の建物を修復するための費用によって、この気象プログラムの再建は困難になった。

スミソニアン協会本部の建物 

https://commons.wikimedia.org/wiki/Smithsonian_Institution_Building?uselang=ja#/media/File:Smithsonian_Institute,_New_York,_America._Coloured_steel_eng_Wellcome_V0014025.jpg

スミソニアン協会による気象ネットワークが再開されることはなかった。しばらくの中断の後、アメリカの気象ネットワークは、1871年に米国陸軍の通信部内で国営事業として新たに設立された。その事業を軌道に乗せたのは元シンシナティ天文台長だったクリーブランド・アッベだった。

このアッベの優れた指導の元で、米国の気象事業は大いに発展していく。しかし、その基礎を築いたのは、ヨゼフ・ヘンリーといえるかもしれない。

(次はベンジャミン・フランクリンと気象学

 参照文献

[1]Cox, J. D. (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.

 

2024年7月6日土曜日

フェーン現象の解明

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

最近、異常高温になると、「フェーン現象により」などの解説がなされることがある。昔からフェーン現象という言葉は使われてきたが、最近は昔より聞く機会が多くなったようである。

フェーンの語源は、ギリシャ語のファヴォニウスとも言われており、意味は暖かい西風だった[1]。このように、フェーンはある種の風を指す言葉である。ドイツ南部などでは、ときおりアルプスから高温の乾燥した南風が吹き下ろすことがあり、この風は昔からフェーンと呼ばれていた。

本書の「8-1-3 フェーンの解明」で解説しているように、フェーンを有名にした事件は、1704年に起こった。1月28日にスイス軍が、ミュンヘンの約60 km南にあるベネディクトボイアーン修道院を攻撃しようとした。冬季であり修道院へ続く沼地は凍っており、進軍を容易にしていた。

ところが、スイス軍が進軍を開始した正午頃から、フェーンによる高温の南風が吹き始めた。沼の氷が急速に溶けてぬかるんで、兵士たちが足をとられるようになったため、スイス軍は修道院の攻撃を断念した。この修道院を守った高温のフェーンは、聖アナスタシアの祝祭日の前日に起こったため、「アナスタシアの奇跡」と呼ばれて知られることとなった。

19世紀後半まで、どうして高温で乾燥したフェーンが吹くのかは謎だった。フェーン現象の仕組みを解明したのは、オーストリアの有名な気象学者ユリウス・ハンである。彼は幼い頃から身近にフェーン現象を経験してよく知っていた。彼はグリーンランドで起こる似たような高温の風について、その付近に熱源がないことに注目した。このこととヨーロッパでのフェーン現象を熱力的に吟味して、彼は1866年に、フェーン現象は風がアルプスを吹き下ろす際に断熱圧縮されて高温になって乾燥したもの、と結論した。

また総観気象の調査から、アルプス南方に高気圧、ヨーロッパ北部に低気圧があってアルプス南斜面で雨が降っているような時にフェーンが起こることもわかった。これらの一貫した説明から、フェーンの原因は、アルプス南斜面で上昇した空気が降雨によって潜熱を放出して乾燥して暖められ、北斜面に到達して下降する際に断熱圧縮によりさらに気温が上昇するため、であることがわかった。この考え方は、当時確立され始めた熱力学の、気象学における有用性を示すものだった。

風によって山に沿って空気が上昇すると、断熱膨張によって冷却され、尾根を越えると下降して断熱圧縮によって加熱される。しかしこれでは、原理的には風下の気温は風上の気温と同じである。しかしながら、フェーン現象では、上昇時の断熱膨張によって水蒸気が凝結して雲や雨となって潜熱を放出するため、下降すると風下では風上より気温が上昇する。

雲を伴いながら山頂を越えてフェーンが吹き下ろすと、山の風下側では上空の雲が切れて青空になることがある。ヨーロッパでは、これを「フェーンの穴」と呼ぶことがある。また下降流となって雲が切れる山脈の尾根の上には、雲が断崖のように連なることがある。これを「フェーンの壁」と呼ぶことがある。地上に降りてきた風は反動で上空へ跳ね返ることがあり、そうすると上空で上下する波となって、高積雲と青空が交互に線状に現れることもある[1]。

フェーンの壁(スペイン、カナリア諸島のラ・パルマ島)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:La_Palma_-_El_Paso_-_Cumbre_Nueva%2BFoehn_(Mirador_Llano_del_Jable)_01_ies.jpg

冬季の暖かいフェーンは、雪解けを早めたりして農業に有用なこともあるが、乾燥しているので、大火をもたらすこともある。もちろん、夏季のフェーンによる異常高温は、熱中症などの多発をもたらす。

上述したように、フェーン現象による高温は、風上での潜熱放出が原因と考えられていたが、近年は変わってきている。低層の空気が山を越えるより、むしろ上層の空気が山に沿ってそのまま風下に吹き下ろす場合がある。上空の大気は、一般に温位が高いので、地上に降りてくると高温になる。これは風上での降水を伴わない。このタイプのフェーン現象が日本では8割を占めるという研究もある[2]。

(次は電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

参照文献

[1] 吉野正敏、風と人びと、東京大学出版会、1999.
[2] Kusaka et al., Japan's south foehn on the Toyama Plain: Dynamical or thermodynamical mechanisms?, International Journal of Climatology, 2021, https://doi.org/10.1002/joc.7133

2024年7月2日火曜日

雨が降るメカニズム

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

雨が降るためには水蒸気が必要になる。そのため、最近は豪雨になると気象学の歴史から見た大気の川」で解説したような、水蒸気がどこそこから流れ込んでという解説がよくなされる。では、水蒸気の多さが豪雨の原因の全てかというと、事はそう簡単ではない。

歴史的に見ると、19世紀頃から雲粒の生成については凝結によることがわかっていた。しかし、雲粒同士の衝突だけでは、落下するほど大きな雨滴になるには相当な時間が必要となり、簡単には雨滴にならない。落下するほど大きな雨滴が、雲の中でどうやってできるのかは、1930年頃まで謎だった。

この謎を最初に解いた一人は、ノルウェーのベルゲン学派の気象学者、トル・ベルシェロンだった。彼は、幼い頃から雲のような気象要素の綿密で巧みな観察が得意だった。

ベルシェロンは保養のためによく訪れたオスロ近くの山腹で、1922 年にモミの森の散歩道を何度か歩いている間に、気温によって霧のパターンが異なることに気がついた。暖かかった時は、霧は散歩道の路面一帯に立ち込めていたのに、気温が氷点より十分に下がると、霧が晴れて路面がはっきり見えた。

彼はすぐにこの理由に対する仮説を思いついた。それは風上にあったモミの木の枝に付いていた霧氷が、-10℃程度の十分に低い気温下で水蒸気を吸収してしまったのではないかということだった。その結果、風下の散歩道では湿度が下がり、霧の液滴が蒸発して霧が晴れたのではないかというものだった。

ベルシェロンが考えた低温下で霧が晴れるメカニズムの模式図。
上が温かい場合、下が寒い場合

彼は、この考えを発展させて、雲の中で雨滴ができるメカニズムを考察した。それは水と氷の飽和蒸気圧の違いによって、十分に寒い高度にある雲では、雲粒から水蒸気が蒸発して氷晶核の方に付着する。こうやって氷晶核が十分に大きくなると落下し始める。これが暖かい大気層まで落下すると、溶けて雨滴となる、というものだった。

彼は、1933年のリスボンの国際測地学・地球物理学連合の会合でこの説を発表した。この氷晶核による雨滴の生成理論は、ベルシェロン過程(またはベルシェロン・フィンダイセンの説)とも呼ばれている[1]。この説はその後の飛行機による観測などによって確かめられ、中・高緯度の並雨以上の強さの雨の機構を説明するものとして広く受け入れられた。また人工降雨実験のための科学的な根拠となっている。

つまり、この説によると、雨が降るためには水蒸気だけではなく、雨滴の核となる氷晶核を作る固体の微粒子も必要となる。この微粒子には地表からのダスト、海からの海塩粒子、大気汚染(二酸化硫黄)からの硫酸粒子などがある。最近はこれらに加えて、微生物が生成する微粒子も関係しているのではないかとも言われている。

降雨のメカニズム(気象庁、数値予報解説資料、第4章、2012)
ベルシェロン過程は、主に中高緯度での右側の流れを解説している。雲氷は融解して左側に移って雨となる。下層が冷たければ、そのまま雪や霰として落下する。

(次は「フェーン現象の解明」)

参考文献

[1] J. D. Cox, (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.

2024年5月9日木曜日

国際政治における気象観測網

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

インフラストラクチャとしての気象観測網

現在、気象観測は世界中で行われ、その結果はほぼ即時的に見ることが出来る。正午のニュースで午前中の最高気温や最低気温が報じられることもある。また大雨が降るとどこでどの程度の雨量があったかがすぐにわかる。世界で起こった異常気象も報じられることがある。もちろん、観測結果は天気予報(数値予報)にも用いられており、我々の生活基盤としてのインフラストラクチャの一部となっている。

これは当たり前のように見えるかもしれないが、実は画期的なことである。各地に気象測定器を置いただけでは、観測網にならない。それらは統一的な測定基準で運用され、同時に観測され、何らかの即時的な通信手段で結ばれなければならない。また測定器の故障の際の修理や維持管理のための定期的な保守も必要となる。気象観測は今では防災のための重要な情報となっており、気象台の職員は、気象台内で予報や観測を行っているだけでなく、アメダスなどの観測所を定期的に巡回して、測定器だけでなくその観測環境も含めて点検している(地震計の維持管理も行っている)。

しかし、本当にすごいのは、ここから先である。気象観測地点は世界各地に展開され、観測網を構築している。この世界中を結んだ気象観測網は、歴史的に見てグローバルなインフラストラクチャの最初の一つとなった。そのため、当初は種々の問題にぶつかり、それを一つ一つ解決して行った。そして、それはインターネットを初めとする現代の様々なグローバルなインフラストラクチャの構築にも貢献した[1]。加えて気象独自の問題として、統一されたグローバルな観測が必要という問題があった。

この共通の統一的な測定基準による同時(同期)観測は、今では世界中のほとんどの国々で行われている。世界中が統一された規範に基づいた同一の作業を一斉に(つまり決められた世界標準時に)行っている。世界中の観測結果は各国の気象機関で瞬時に共有されている。それは、アメリカやヨーロッパだけでなく、ロシアでも、ウクライナでも、北朝鮮でも、中国でも、アジアやアフリカの諸国でも同じである。

現代社会における国家間のさまざまな軋轢やいざこざを見れば、これは驚くべき事である。別な見方をすれば、17世紀のウェストファーリヤ条約以来、最高主権をもっているとされている国家をも、その規範に従えていることになる。 こんなことが出来ている分野は他にないだろう。

これは一夜にして出来上がった仕組みではない。100年以上かけて少しずつ関係者が努力を積み重ねていった結果である。なぜこうことが可能になっているのか、簡単に経緯を述べておきたい。

 気象観測網の発展

気象はただ1か所で観測しても、その意義は薄い。他の地点の観測値と比較することで、他の観測地点との違いやこの観測地点の特徴がわかる。いくつかの測定器の開発や実験的なものを除いて、組織的な気象観測網の構築は、17世紀から始まった。それはそのための測定器の開発も並行して行ったものだった。それには、イタリアの実験アカデミー、イギリスの王立協会が気象観測を行った、そして、パリだけではあったがフランスの王立科学アカデミーなども気象観測を行った。

しかし、当時は観測手法や結果の比較に関する科学的な概念は確立されておらず、測器較正や観測環境を含む観測手法が異なる、あるいはわからないため、現在データは残っていても、その結果を同一の観測網の中といえども正確に比較することは出来ない。また、気象観測は長期間の継続が重要であるが、1日に何度も観測することを毎日継続するための労力は大変なものだった。そのため、王立協会を除いて観測は長くは続かなかった。

観測手法の統一をおそらく初めて唱えたのは、王立協会のロバート・フックだった。彼は1663年に王立協会で行っていた気象観測に「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」を提案した。これは観測手法の統一のために画期的なものだったが、いくつかの要因により王立協会内でも徹底しなかったようである。

各国では、やがて自国の農業、経済、健康などに気象(気候)データが重要であることに気づいて、18世紀頃から、いくつかの地域で気象観測を行うようになった。その中で、測定器や観測手法を統一した本格的なものは、ドイツのマンハイムにあったパラティナ気象学会によるのものだった。この気象観測網では測定器やその較正方法、観測方法を統一した。それにヨーロッパ、地中海、アメリカ、ロシアなど37か所の観測所が参加し、気圧、気温、湿度、風向、雨量などを測定した。この測定結果は、後にフンボルトの気候図や、ブランデスによる初めての天気図の作成に用いられた。

当時、気象の観測結果は製本されて出版された。気候値として使うためには当然だったのだが、この結果を公開する伝統は今でも続いており、気象の観測結果は、世界中でほとんどがインターネットを通じて無料で公開されている。そしてそれには、衛星による観測や温室効果ガスやエアロゾルなどの環境関連物質の観測結果も同様に扱われることが多い。これもこの分野の特筆すべきことである。

気象観測の目的に大きな革新が起こったのは、電信の発明によってである。 それまで月単位で集計して郵便で運ばれていた各地の観測結果は、電信によって中央でリアルタイムに把握できるようになった。これによって嵐の来襲に対して港湾のなどの船に事前に警報が出せる可能性が出てきた。フランス、イギリス、オランダなどでは観測所を電信で結んで、警報体制を構築した。これが近代的な気象観測網の原型となった。警報と行っても予測理論があるわけではなく、天候や気圧、雨・風、気温変化などの経験則に基づいた、発想からすると現在のナウキャストに近いものだった。

ところが、各国が自国内で整備した気象観測結果だけでは警報を出すのに十分でないことがわかってきた。そのため、1873年に世界気象会議が開催され、その議題の一つが観測網の標準化だった。気象観測の調整のための国際気象機関(IMO)が設立されたが、データの共有は進んでも標準化はなかなか進まなかった。IMOを政府間機関とせず、各国が自国の観測手法を優先したためである。 他国のデータを用いようとすると、観測手法の調査やデータの変換に多大な手間がかかった。また各国の気象関係者も、国の政策的な制約を受けることを避け、科学的に独立した立場を優先した。第二次世界大戦まで、一部の関係者は標準化のための努力を行ったが、その進展はわずかずつだった。

国際政治と気象観測網

それが、進展し始めたのは、第二次世界大戦後に世界気象機関(WMO)が設立されたためである。 WMOは、国連の専門機関として政府間組織となった。つまり、決定事項は政府代表が集まって討議し、その結果には拘束力が付与された。

そして、コンピュータの発明と人工衛星の打ち上げによる数値予報と気象改変の可能性が、1961年のケネディ大統領による国連総会での各国の気象観測網をつなげた構想の演説を後押しした。これは各国から歓迎され、それを受けてWMOは「世界気象監視(World Weather Watch:WWW)」プログラムを設立した。この実施によって各国の気象観測網は一つにつながり、調整された規範に基づいた同一の作業による気象観測が実現された。

これには技術や社会制度の調整だけでなく、東西冷戦(衛星を利用した気象観測は宇宙からの軍事偵察を気象という平和利用で包んだ面があった)、長年の気象学の伝統と関係者の工夫・熱意が関係している。それが上記の世界中で統一された気象観測をもたらしている。

スタンフォード大学教授のエドワーズは、「気候変動社会の技術史」の本の中で、WMOなどの国連の組織自体が、各国政府の正統性に挑む権限を持っていたためにその主権を制限した、と述べている[1]。「世界気象監視」プログラムはまさに国家主権を超えたグローバルな通信インフラストラクチャという面を持っていた。さらに技術的にも後年のインターネットなどの先導役を務めた面があった。エドワーズは世界気象監視プログラムを現在のWorld Wide Webと対比させて、「最初のWWW」と呼んでいる。

(次は「雨が降るメカニズム」)

参照文献

[1]エドワーズ、(訳)堤 之智、2023:気候変動社会の技術史(日本評論社)

2024年3月31日日曜日

グローバルとは?

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

グローバルという言葉

グローバル経済やグローバル社会など、現代ではグローバルという言葉が使われることが多い。意味は概ね世界規模ということになる。しかし、我々がグローバルという言葉の真の意味を、突き詰めて考えているだろうか?

我々の日常生活で、グローバルであることを直接実感することは、あまりないと思う。もちろん、ニュースやインターネットはグローバルな情報を提供しているが、それは世界各地の点や一部の情報がほとんどで、グローバルとしてきちんと一つにまとめたものは少ない。ましてや身の回りのものでグローバルであることを感じることができるものは多くない。

われわれの帰属意識は、通常は身近なものから構築されていく。それは家族だったり、友人だったり、職場や団体だったり、ご近所だったりする。それが拡大していくと、住んでいる市町村や県、あるいは国となる。江戸時代までは出身の国を問うことは、ほぼ藩を指していた。それは、その後国家という概念に置き換わっていった。

それでも、現在一人一人が地球人というグローバルな帰属意識を持っているとは言いがたいと思っている。しかし、概念としてはグローバルという考えは広く共有されて使われているようである。特に地球温暖化のような気候変動問題では、この考えや意識が重要になる。ここでいうグローバルとは、何をあるいはどういう状態を指しているのだろうか?

       我々はグローバルというまとまった意識を持っているだろうか?

 気候の場合

例えば、地球温暖化で問題になっているグローバルな気候を考える。しかし、我々が住んでいるのはその地の気象なり気候であり、「グローバルな気候」に住んでいる人は一人もいない。つまり個人が実感や経験で「グローバルな気候」を理解することは出来ない。科学的に処理した情報を使って、グローバルな気候の議論が行われているのである。

しかも、現在地球温暖化で問題となっているのは、例えば気象庁ホームページによると、この30年間の世界平均気温で0.54℃の上昇である。ところが、我々は毎年季節によって30~40℃という気温の年較差(冬の最低気温と夏の最高気温の差)にさらされている。それにもかかわらず、我々は30年間で0.54℃という平均気温の上昇を議論し、それを懸念している。

では、我々はどうやってこの過去のグローバルな気温の上昇に関する情報を得ているのだろうか?これは、実はなかなか深い問題である。スタンフォード大学教授のエドワーズは、[1]において我々がグローバルな気候情報をどうやって知っているのかについて、根源的かつ詳しい説明を提供している。

グローバルな気象観測網

近代なって気象観測網が世界各地に張り巡らされて、それによって気象が観測されている。では、その過去の気温などの気象データを集めて合計して、地点数で割れば、過去を含めて平均気温が出るだろうか?残念ながらそれは正確なやり方ではない。

最初の問題として、気象観測網の観測所は世界各地に等間隔で設置されているわけではない上に、海上など観測の広い空白域もある。つまり、観測値の地域代表性が問題となる。これは気象予報にも影響するため、気象予報者は、長い年月をかけて客観解析、あるいは再解析という手法で、この問題を克服してきた(これについては、本書の10-5「数値予報の現業運用化」で解説している)。

しかも第2の問題として、長期間の観測の間に、厄介なことに観測環境の変化や観測所の改廃や移転、観測機器や観測基準の変更などが起こっていて、これらは気象観測結果を通して気候値に影響を与える(固有の偏差を含めて、実際の気候の変化ではないものを示すことがある)。また観測は正しくても、初期のうちはそれを伝える通信・通報の際にエラーや間違いが起こり、それをそのまま記録として残したこともあった。

気象観測は、長い間気象予報を目的とした観測所が多かった。第2の問題については、気象予報の場合は影響が小さいか、人間が見てデータを取捨することで解決できた。しかし、長期的な気候目的で観測結果を使おうとすると、第2の問題は大きな障害となる。

そのため、メタデータと呼ばれる観測環境や手法に関する過去のデータを掘り起こして、観測データの信頼性を確認して、場合によっては補正することが行われている。これをインフラストラクチャの遡及と呼んでいる[1](これは現在でも過去データについて行われている)。

世界平均気温については、この値を用いて、地域代表性を加味した加重平均を行って平均気温の算出が行われている。具体的な手法については、気象庁ホームページの世界の平均気温偏差の算出方法を見ていただきたい。

なお現在、多くのグローバルなインフラストラクチャが社会を支えているが、[1]は気象観測網が100年以上かけて、悪戦苦闘しながら世界的な規模で発展をしてきた結果、社会制度を含む技術史的な観点で、気象観測網がグローバルなインフラストラクチャの先駆けの一つとなったと述べている。

また、気温の長期トレンドにはまだ用いられていないが、近年ではもっと数理学的なコンピューターモデルを用いて、物理学的に一貫した手法(再解析)で過去を含めた全世界の気象の計算が行われている。

グローバルな統計とは

世界平均気温を例にとって話をしたが、例えばグローバルである世界平均気温は、過去100年以上にわたって、系統的なデータを用いて一貫した手法で算出されている(インフラストラクチャの遡及の余地はまだあるかもしれないが)。

現在「グローバル経済」などの言葉は普通に使われているが、それらが本当にグローバルになったのは、東西冷戦の終結以降である。それ以前にも、経済統計などはあったが、国が限られていたり、国ごとに算出方法が異なっていたり、包含分野が限られていたりしていた。

例えば過去の長期的なグローバル経済統計については、空白域がなく、メタデータを遡ることが出来て、長期にわたって真の意味で一貫したグローバルなものになっているのだろうか?かつて「100年に一度」と言われた経済危機は、本当にグローバルな統計上で100年に一度だったのだろうか?

比較的しっかりしたインフラストラクチャの上で観測された気象と気候のデータは、おそらくあらゆる物の中で、信頼できるグローバルな統計を長期にわたって行えるものの一つであるということが出来る。そして、それが地球温暖化などのグローバルな気候変動問題の基礎となっている。グローバルな気象観測網というインフラストラクチャは、現代では人類の存続のための重要な基盤になっているといえるかもしれない。

(次は「国際政治における気象観測網」)

参照文献

[1]エドワーズ、気候変動社会の技術史(原題:A Vast Machine、訳:堤 之智)、日本評論社、2024.