2021年11月29日月曜日

天人相関説と気象学(1)中国での 天人相関説

中国で始まった天人相関説は、政治を含めて当時の人々に大きな影響を与えた。そのことは「古代中国での気象学(1)初期の考え方」や「古代中国での気象学(2)天人相関思想」で簡単に説明した。しかしそれだけではなく、天人相関説は日本にも伝わって今でも日本人の生活に影響を及ぼしている。

古代から中世にかけての中国や日本の思想史に関する書物は数多くあり、ここで改めてそれらの思想を網羅するつもりはない。しかし、当時の気象災害などに対する考え方は当時の思想とも強く結びついており、上記の「古代中国での気象学(1)・(2)」と一部重複するかもしれないが、気象災害や天文現象が天人相関説などと結びつけられてどう捉えられていたのかを見てみたい。

なお、天人相関説では上記ブログで説明したように、天と地上(人間界)が双方向で影響し合う。しかし「アリストテレスの二元的宇宙像」でも述べたように、西洋の古代ギリシャ自然哲学では、人間を含む地上界は天上界に影響を及ぼすことはない。その後のキリスト教では、自然災害は人間の行為に対する神による罰や試練と捉えられることがあった。その場合は神が自然をそのように操作しているのであって、神と自然は別物であった。東洋では自然神という言葉があるように、影響を及ぼす主体である天は自然は明確には分けられず、渾然としているようである。

1 漢時代より前の災害に対する考え方

1.1 古代

人類が農耕生活を始めるようになって以来、農業生産をはじめとして人間の生活は天候状態に左右されることが極めて大きくなった。古代中国では天文の動きから天候の推移を予測しようとした。そしてそれは天文を利用した占いへと発展した。経書の一つ「周易」は、天文観測の結果にもとづいて今後の吉凶を説いた占いの書である [1]。当時の異常気象による不作は即飢饉へとつながったので、これから雨が降るかどうかというようなことは、当時の人々にとって極めて重要な問題だった。そのため、洪水や干ばつの予測のためにさまざまな自然現象に基づいた占いによる天候予測が試みられた。天候予測は収穫の豊凶占いでもあった [2]。

また、古代中国の音楽は12の音階で出来ていた。この音階は律管という竹でできた楽器が出す音律(音色)に基づいており、この12律が定まるのは天地の風気が正しい時のことと考えられていた。そのため、この音色で天気や気候を占ったり確かめたりすることも行われた(律管候気) [2]。また、この音律の数と暦が融合して24節ができたという説もある。

古代の気象占いは動物の骨や亀の甲羅に碑文の形で残っている。 多くの場合、これらの碑文は雨がたくさん降るかどうかなどが神への質問の形になっている [3]。日本でも古くから太占(ふとまた)と呼ばれた鹿の骨を使った占いや亀卜(きぼく)と呼ばれる亀の甲を使った占いが行われ、遺跡からその跡も見つかっている [4]。

1.2 殷・周時代

古代中国では「天」は意思を持ち、その子である「帝」は神として、雨を降らことも干ばつを起こして飢饉をもたらすこともでき、自然と人事にたいして絶対的な権力を持っていた [4]。その古代中国の王朝「」で信仰されていた帝は、自然神の一つでありながら別格の存在であり、殷の王はその直系の子孫であるとされた [4]。

前1027年に殷を滅ぼした「」王朝は、帝に代わって「天」を信奉した [4]。周では殷の王権(帝位)を奪ったことを正当化するために、殷の滅亡を天によって下された命とした。そして、天は徳のない統治者から位を奪い、有徳者に位を与えて統治者とすることを唱えた。これが天命説となった [4]  [5]。つまり、天は自然の万物、万象の絶対的支配者であり、天は人間の世界から誰かを自分の「子」として選び、その子が「天子」として人間世界を支配するということである。そしてその天からの支配権の委譲が「天命」と考えられた。

しかし天は直接には語らない。そのため、洪水や干ばつなどの天変地異は、天が地上における有徳の政治が失われた状態を見てそれらを引き起こしたと考えられた [4]。つまり天命とは、天命を受けた者は統治者となるが、その統治者に倫理的・政治的な過失があれば、天は災異によって警告する。統治者がそれを改めなければ天は最終的に統治者の命を奪って滅亡させ、別な有徳者に天命を授けて次の統治者となすというものだった [5]。これは「易姓革命」とも呼ばれている [6]。

また周王朝の「周礼」では、当時既に自然現象に基づいた占いが行われたとされている。日食、月食、五惑星(木星・火星・土星・金星・水星)の会合などの天文現象から吉凶を占うだけでなく、気象(雲や風や虹、太陽の周囲に現れる暈)からも水害や干ばつなどを予測し、諸国の農作物の豊穣・凶作を占うことが行われた [1]。

2 災異説

しかし、天は王朝の交替をも決定するという思想は諸刃の剣であり、「天命」は徳ある者に政権を付与する一方で、徳を失った統治者からは政権を奪うことも正当化した。天は、統治者の権力の根拠であると同時に、それを制限する根拠ともなった [4]。例えば中国においては治水によって河川の氾濫による被害を防ぐことが統治者の大きな課題だった。そのため、後漢時代の辞書である「説文解字」によると「政治」という言葉は「正しい治水」から来ているとも言われている [1]。このため、洪水の発生は統治者が民を正しく治めることができなかった証拠とも見なされた。そのため天変地異が発生すると、それは正しい政治が失われたためと解釈された。この考えは「災異説」となっていった。 

上記の災異説の一つの典型的な考え方は、統治者が立派な徳を身につけて正しい政治を行えば、天はその徳を感じて雨、陽光、暖、寒、風という天の恵みを地上にもたらす。逆に統治者の徳を失って悪政を行うと、天は長雨や干ばつ、あるいは冷夏や暖冬などの天候不順、地震や水害・虫害・疫病などの災害異変を起こすというものである [1]。災異説は儒教に取り入れられたため広く流布し、後述するように前漢の董仲舒によって政治へと反映されていくことになる。

3 陰陽説

古代中国で広く信じられていた自然観は陰陽説である。これはいろんな物を陰と陽に分類し、両者の生成消滅のバランスで世界が成り立っているという考え方である。陽を代表するものには天、男、太陽などが挙げられ、陰を代表するものには地・女・月などが挙げられる。両者は対等で物事の裏表であり、優劣があるわけではなく、またどちらかだけでは世界は成り立たない。四季の循環もその陰陽説で生まれるとされており、草木は陽気の兆す春に芽吹き、陽気の最も盛んな夏に生育し、陰気と陽気とが交わる秋になると実を結び、陽気が衰えて陰気が満ちる冬に枯死する。そして、それらは絶えず繰り返されると考えられた [1]。

これに、中国戦国時代の思想家だった鄒衍が、世界は木、火、土、金、水の五つの要素から構成されるという五行説を加えて、「陰陽五行説」が完成した。この考え方は儒教に大きな影響を与えた。

陰陽説を表す太極図

4 漢時代前後の災害に対する考え方

天人相関説は災異説、陰陽五行説などと融合して儒教の一部となり、その儒教は当時の政府に取り入れられ、いわば「国教」となった。当時の天人相関説に関する代表的な書物や人物の考え方を紹介する。

4.1 呂氏春秋

呂氏春秋」は、秦の丞相であった呂不韋(? ~紀元前235年)が編纂して紀元前239年に完成したとされている。これは各季節をさらに「孟」、「仲」、「季」の順に3分してその気象や気候を記した12の「紀」からなっている。ただし夏至や冬至は真ん中の「仲夏紀」と「仲冬紀」に含まれており、現在の季節とは1か月程度ずれている。呂氏春秋によると、季節は陰陽五行説に基づいて陽気と陰気とが1年周期でその勢力が交代するために起こる。しかしその交代は因循的、規則的なものではなく、その時々の状況、特に夏至と冬至の頃の状況がその後の両者の勢力の度合いに影響して、続く冬や夏の動向が決まるというものであった。そしてその季節の状況には天人相関思想に基づいて人間の振る舞いも含まれていた [7]。そのため、統治者は季節の動向にも注意しなければならなかった。

4.2 淮南子

淮南子」は、高祖の孫で淮南王となった劉安(紀元前179年~紀元前122年)が、学者を集めて編纂させた思想書である。淮南子では、災異説に基づいて統治者は天に従わねばならない。それを怠ると天に異変が生ずるとし、人間の行動は天すなわち自然にも作用すると考えられた。天地自然と人間との間は、「気」を通して相互に作用することで、天は統治者が人々に対して正しい政治をしているかどうかを判断するとされた。

例えば、「淮南子」の「天文訓」では、

人主之情,上通於天,故誅暴則多飄風,枉法令則多蟲螟,殺不辜則國赤地,令不收則多淫雨.

(統治者の感情は天に届いているので、暴力的な罰は多くの風を引き起こし、無駄な法律は多くの昆虫の害を引き起こし、罪のない人々を殺すことは国の荒廃をもたらす。そしてそれらを受け入れなければ多くの雨が降ることになる。)としている。

しかし、淮南子では災異に関する説話を引用しているだけで災異説を論理的に細密に構築しているわけではない [8]。淮南子での考えは陰陽思想に基づいており、清陽と重濁の気、つまり陽と陰の気が上下に分離、凝縮して天と地が形成されたとしている。そして、雨、雷、雪などの気象も天と地の気に起因する。洪水や早魅も陰陽の気の生み出す現象とした [4]。また、人間は自然にも作用するとしたため、雨乞いの根拠にもなった。また、「淮南子」に既に二十四節気が記されていることは注目される。

4.3 董仲舒

前漢の儒学者、董仲舒(紀元前176年? ~紀元前104年?)は、統治者である皇帝の専制的権力を正当化するために、天人相関説という新しい統治のイデオロギーを提示した。その元となった考え方は災異説である。つまり、自然界の陰と陽とがバランスしているならば、雨は然るべき時に然るべく降り、風は然るべき時に然るべく吹く、その結果農作物は豊かに実る。ところが災害異変が発生して農作物に被害が出るのは、地上での悪政に天が鳴らした警鐘であるというものであった。つまり異常気象は政治を行う統治者に原因があるとするものである。

董仲舒は「春秋繁露」で次のように述べている。そもそも災害異変はことごとく国家の失政によって生ずるものである。国家に失政の兆しがあると、天は災害を起こしてその国に警告する(天譴)。天が譴告しているのに天の意を理解しようとしない場合、天は次に怪異を示してその国を威嚇する。それでも非を改めようとしなければ厳罰を下して国を滅ぼす[6]。

これは天は統治者の政治を監視して、統治者(とその側近)によって失政や悪政が起これば、天はそれを咎めて天変地異(天譴)を起こして、国家の存亡を警告するという政治理論となった。彼の天人相関説は、秦の始皇帝が苛烈な専制政治によって大勢の民を苦しめた後、わずか数十年で滅亡したことを踏まえて、統治者の権力が暴走することを防ぐためとも考えられている [1]。 

この天人相関説のため、統治者は天のもたらす自然現象にたえず注意して、天の意思にかなった政治に努めることが必要になった。そしてその天の意思をまず示すものは、彗星や新星などの天体の異常とされた。そのため、天体観測は統治者にとって重大事となった [4]。逆に彩雲などの気象は祥瑞とされ、善政を布いた統治者への称揚と考えられた。また董仲舒は、人間の気は天の気へ影響するため、人間の行為によって雨を降らせることも止めることも可能であると考えていた [4]。

4.4 天人相関説に基づいた漢時代の政治

前漢の時代は、董仲舒の災異説の影響を色濃く受けた政治が行われた。しかし、天の監視対象は統治者だけではなかった。漢の正史である「漢書」には

『人君』は『心』を正して『朝廷』を正し、『朝廷』を正して『百官』を正し、『百官』を正して『万民』を正し、『万民』を正して『四方』を正す。

とある [9]。つまり、君主は一人で政治を行うのではなく、有能な臣下を組織してその助けを得て政治を行うと考えられ、逆に言うと、天譴や災異は臣下の行動にも関連すると考えられるようになった。

前漢の武帝の時代に太史令となった司馬遷は「史記」の「天官書」に天の異常現象のもつ意味を詳細に記述した占星の記事を収めた [4]。そのため、漢時代以は天に異変が起こると、その意味を天官書に従って調べて報告したり、対処したりする役職が置かれた。つまり天の観測は行政の一部となった。

前漢の考え方は後漢にもひきつがれ、天についても董仲舒の思想が正統的な位置を維持した。しかし、その思想の核にあった災異説は、五行説と融合してより神秘性の強い考え方となっていった [4]。例えば、災異を木火土金水の五行の循環を用いて解釈し、自然と人間の未来を予言しようとするものなどである。それは一種の宿命占星術のようなもので、怪しいものも含めていろいろな形で広がっていった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] (編集)串田久治 (2020) 天変地異はどう語られてきたか. 東方書店.
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991)  『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.




2021年10月11日月曜日

正野スクール:正野重方と日本の気象学者

 1 正野スクール

2021年にノーベル賞を受賞した気象学者の真鍋淑郎博士については、「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」でその業績を紹介したが、東京大学では正野重方教授の学生だった。そして真鍋博士を含む正野重方から教えを受けた気象学者たちは正野スクールと呼ばれている。

一般に、ある特定の指導者を中心にその人が開発した発想や手法をベースに研究を行っている研究者たちを「・・・学派」と呼ぶことがある。気象学でもヴィルヘルム・ビヤクネスを中心としたベルゲン学派(ノルウェー学派)、ライプチッヒ学派、ロスビーを中心としたシカゴ学派などが有名である。この学派という言葉は英語の「スクール」を訳したものである。そして日本では、1950年代から1960年代にかけて東京大学の気象学講座教授だった正野重方(1911 - 1969)が育てた気象学者たちのグループを「正野スクール」と呼ぶ。正野と正野スクールについては、本の「10-6 日本での数値予報の開始」で述べたが、今回、正野スクールについて補足する。

これは個人的な推測だが、正野重方が育てた大勢の気象学者のグループが「正野学派」ではなく「正野スクール」と呼ばれているのは、彼の薫陶を受けた気象学者たちがある特定の研究スタイルを取っているのではなく、かつ気象学の多くの分野に数多くの気象学者を輩出しているため、「学派」という呼び名では括れないからではないだろうか。

正野重方は将来に対する卓越した洞察力と数理物理学の豊富な知識を持っていた。ただ、それを活かした大気擾乱の理論化については、後述するようにアメリカの優れた気象学者チャーニーに先を越された。しかしながら、傑出した統率力と優れた教育手腕とによって、大勢の優れた気象学者を育てた。彼は57才という比較的若い年齢で亡くなったため、気象学者以外にはあまり名前が知られていないのではなかろうか。アメリカの気象学者レウィス(John M. Lewis)は正野のことを、あまり評価されておらず知られていない教育者「uncelebrated teacher」と呼んで、もっと国際的な評価を受けて然るべきだと述べている [1]。

正野スクールの気象学者たちは、日本だけでなく世界で活躍している。その中に今回ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏も含まれている。真鍋氏のノーベル賞受賞には、同氏の卓越した能力と努力の結果であることは間違いない。しかし、科学の発達には研究資金や機材だけでなく、直接的あるいは間接的に師による薫陶や人材育成が大きく影響を及ぼすことが多い。正野が育てた気象学者たちは、戦後の日本と世界の気象学の発展と不可分の関係にある。


真鍋淑郎博士
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crafoord_Prize_EM1B0732_(42329290061).jpg

2 正野重方と彼の研究

正野重方は東京帝国大学理学部で物理学を学び、その後同大学で地震波の研究を行い、1940年に博士号を得た。しかし、彼は寺田寅彦との交流によって気象学に強い関心を抱いていた。また日本の気象学の父、岡田武松にも興味を持っていた [2 ページ: 503]。当時、東京帝国大学には気象学教室はなく、彼は中央気象台(現在の気象庁)に就職した。

中央気象台で彼は、地震波に関する知識を活かして大気波の擾乱の研究を行った。1944年に東京帝国大学に気象学講座が開設されると、彼は中央気象台職員の身分を兼務したままその助教授に就任した。ちなみに当時の教授は中央気象台長の藤原咲平だった。

本の「10-3-2 傾圧不安定理論の確立」で述べたように、アメリカのジュール・チャーニーが、低気圧の発達の仕組みと関係が深い大気擾乱の傾圧不安定についての理論化を行い、1947年に論文として発表した。この論文は遅れて1949年に日本に入ってきた。この論文を見て、彼は地球物理学教室の研究室に駆込んできて、「見ろ!この論文は気象学を近代化している!」と興奮して叫んだ [2]。チャーニーによる成果は、コンピュータを使って気象予報を行う数値予報への新たな扉を開くものだった。それは正野が目指していたものでもあり、チャーニーに先に達成されてしまって彼は深く落胆した。しかし、彼は1949年に専任の教授となり、1950年に大気擾乱に関する一連の研究によって学士院賞を授与された。また1961年にはアメリカ気象学会の名誉会員にも選出されている。また現在、日本気象学会では正野賞を設けて「気象学及び気象技術に関し貴重な研究をなした若手研究者に対する顕彰」を行っている。

大気擾乱の理論化については先を越されてしまったが、本の「10-6日本での数値予報の開始」で述べたように、彼は日本の気象学のリーダーとして数値予報のために、大学や気象庁の有志による数値予報グループ(NPグループ)を組織して日本での数値予報の実現を推進した。そしてそれは日本での数値予報の実現に大きな役割を果たした。彼はそれらの活動を通して、気象力学に関連した多くの研究を体系化、総合化して気象力学を数理物理学に匹敵する数学的秩序と厳密な学問にしようとした [2 ページ: 505]。また、多くの若手と関わりを持つことによって、多くの優秀な気象学者を育てることにもなった。


3 正野スクールのメンバー

ここでは正野スクールのメンバーを [3]に従って紹介する。彼らは気象学界の中では有名な方々ばかりである。ただし、ひとえにメンバーと言っても正野との関係は様々である。

  • 磯野謙二(雲物理学):名古屋大学
  • 藤田哲也*(トルネード):北九州工科大学→シカゴ大学
  • 井上栄一(乱流):農業技術研究所
  • 小倉義光*(大気乱流):MIT→東京大学→イリノイ大学→東京大学→海洋研究所
  • 岸保勘三郎*(気象力学):プリンストン高等研究所→気象研究所→気象庁→東京大学
  • 増田善信(数値予報):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 村上多喜雄*(気象力学):気象研究所→ハワイ大学
  • 荒川昭夫*(大気大循環):気象研究所→カルフォルニア大学
  • 大山勝道*(ハリケーン):気象庁→ニューヨーク大学
  • 松本誠一(気象力学):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 森安茂雄(海洋学):気象庁→気象研究所→気象庁
  • 伊藤宏(数値予報):気象研究所→気象庁
  • 佐々木嘉和*(トルネード):テキサスA&M大学→オクラホマ大学
  • 笠原彰*(気象力学):クーラン研究所→テキサスA&M大学→シカゴ大学→米国大気科学研究所(NCAR)
  • 駒林誠(雲物理学):名古屋大学→気象大学校→気象庁
  • 加藤喜美夫(航空気象学):全日空
  • 栗原宜夫*(気象力学):気象庁→気象研究所→GFDL→海洋科学開発研究機構
  • 都田菊郎*(気象力学):シカゴ大学→東京大学→GFDL
  • 相原正彦(気象力学):気象研究所→気象大学校
  • 真鍋淑郎*(大気大循環):GFDL→海洋科学研究機構→GFDL
  • 武田喬夫(雲物理学):名古屋大学
  • 新田尚(気象行政):気象庁→WMO→気象庁
  • 柳井迫雄*(熱帯気象学):気象研究所→コロラド州立大学→東京大学→カルフォルニア大学
  • 松野太郎(気象力学):九州大学→東京大学→北海道大学→海洋科学開発研究機構
  • 廣田勇(気象力学):気象研究所→京都大学
  • 田中浩(気象力学):電波研究所→名古屋大学
  • 山岬正紀(熱帯気象学):気象研究所→東京大学→海洋科学開発研究機構
  • 近藤洋輝(気象力学):気象庁→世界気象機関(WMO)

*はアメリカに一時的でも移住した人たちであり、その多くはいわゆる頭脳流出組と呼ばれることがある。ただし岸保勘三郎については、研究拠点をアメリカに移したというよりも、2年間アメリカの気象プロジェクトに参加したため*印がつけられていると思われる。

正野重方はどちらかというと控えめで物静かな性格だったとされているが、誠実で親しみやすいだけでなく、弟子の研究テーマについては自由に考えさせて個人の自発的興味を大切にしていた [2]。正野の弟子への対応について、前述のアメリカの気象学者レウィスは藤田哲也の例を挙げている [2]。藤田は北九州の明治専門学校(現在の九州工業大学)を出ており、正野の学生ではない。藤田は自分の強い興味から明治専門学校で助教授をしながら雷雨の研究を行っていた。彼は自分の研究報告を自分で英訳してシカゴ大学の気象学者ホレス・バイヤースに送り、彼から招聘を受けた。しかし、留学のためには博士号が必要だった。彼はそのために毎週週末に正野の指導を乞うて、博士論文を完成させて博士号を得た。これはいわゆる通常の大学院の博士課程を出て博士号を取るコースではなく、当時としては異例のことと思われる。これは正野の懐の深さと面倒見の良さを示している。

その後、藤田哲也はアメリカで竜巻強度のスケールであるフジタスケールを作っただけでなく、ダウンバーストというそれまで知られていなかった全く新しい現象を発見して、世界の空港にドップラーレーダーを配備するきっかけを作った。これによってダウンバーストによる航空機事故はほぼ根絶され、藤田は航空機の安全な運行に対して絶大な貢献をした [4, 27章 ダウンバーストを見抜く]。

正野はこのように誠実かつ親身に接しながら弟子たちの自主性を活かして育てた。また数値予報のような大規模かつ複雑な問題については、個人がそれぞれ研究するのではなく、グループで討論しながら研究した方が良いと考えて前述のようにNPグループを設立して指導を行った。これらが上記のような大勢の有名気象学者を育てたことにつながったと思われる。


4 正野と頭脳流出組

昭和30年頃から日本人若手気象学者がアメリカに渡り始めた。彼らはアメリカで素晴らしい成果を上げたため、「頭脳流出組」と呼ばれることがある。戦後すぐの日本は食べるだけでも精一杯で、優秀な若手研究者が大勢いても十分な研究環境が整っているとは言い難かった。当時アメリカは冷戦でソビエト連邦と科学技術を競っていた。その中でアメリカは気象改変という思惑もあり、気象分野にも多くの資金が投入されて研究環境が整えられていた。そういった政治の面は別としても、アメリカの豊かな研究環境は当時の日本の研究環境と比べると格段の魅力があった。

正野は若い研究者が海外へ出て研究することを後押しした。彼は若い研究者たちに対して、自分なりの経験をして独自の道を行って欲しいという思いと、日本人の気象学者たちに国際的な広い世界の中で育つことを期待していた [2 ページ: 508]。ちょうどそういう時期に正野は1954年に東京でユネスコによる台風に関するシンポジウムを開催した。これで出来たつながりなどをきっかけに小倉義光はジョン・ホプキンス大学へ行き、笠原彰と佐々木嘉和はテキサス A&M大学へ行った。

1960年にやはり東京で「国際数値予報シンポジウム」を開催した。このシンポジウムは数値予報の実現に向けて大きな進歩をもたらした。これに大勢の日本人の若手研究者が参加した。このシンポジウムは、日本人の若手研究者に初めて世界的なレベルの研究者たちと交流を持つ機会を与えただけでなく、アメリカの研究者も日本人研究者の優秀さに気付き始めた。

この国際数値予報シンポジウムの前後に、このブログの「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」で述べたように、大循環モデルの開発のために、地球物理学流体力学研究所(GFDL)のスマゴリンスキーは真鍋淑郎を招聘し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のイェール・ミンツは荒川昭夫を招聘し、国立大気研究センター(NCAR)のフィリップ・トンプソンは既にアメリカにいた笠原彰を招聘した。他にも上記*印の大勢の日本人研究者がアメリカへと渡った。そして彼らは真鍋を初めとして気象学史に残る顕著な成果を上げている。

真鍋博士は米国国籍の取得理由の一つとして、「私には(他の多くの日本人のように?)協調を重んじる生き方はできない」とインタビューなどで述べられているが、私はこれを額面通りには受け取っていない。真鍋博士が渡米した頃のアメリカの研究所は、GFDLを含めて世界各地からいろんな人々を受け入れていた。アメリカのもともとのそういう風土もあって、研究所は厳しい競争社会だったのではなかろうか。しかし、GFDLのスマゴリンスキーは、真鍋博士を含む日本人研究者について、その勤勉さだけではなく研究者相互の協力や協調をGFDLで広げるのに貢献したと述べている [1]。日本人気象学者たちは、アメリカの研究所で他の研究者に協調性などについて影響を与えた。アメリカに渡った日本人気象学者たちは、気象学に対して国際的な貢献をしただけでなく、アメリカの研究所の雰囲気にも好影響を与えたのかもしれない。

ヨゼフ・スマゴリンスキー
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Smagorinsky

いわゆる頭脳流出組と呼ばれる人々について、正野重方は自身が第二次世界大戦とその後の研究環境の困窮を経験して、若い研究者にはそういう思いをさせたくないということと、若い貴重な時期にアメリカの自由な研究環境で思いっきり彼らの能力を開花させてあげたいと思ったのではなかろうか?正野重方は戦後期の東京大学の気象学講座の教授及び日本の気象学界のリーダーとして、自身の研究を発展させただけでなく、大勢の日本人研究者に機会を与えることによって世界の気象学の進歩に貢献したといえる。

今回の真鍋淑郎博士のノーベル賞受賞が、正野重方の再評価にもつながれば良いと思っている。

参照文献
[1] John Lewis (1993) Meteorologists from the University of Tokyo: Their Exodus to the United States Following World War II. Bulletin of the American Meteorological Society, 74, 7, American Meteorological Society.
[2] John Lewis (1993) 正野重方―The Uncelebrated Teacher― , 天気, 気象学会, 40, 503-511.
[3] 古川武彦 (2012) 人と技術で語る天気予報史. 東京大学出版会.
[4] 堤之智 (2013) 嵐の正体に迫った科学者たち. 丸善出版.

2021年10月8日金曜日

近年の秋の気温上昇について

 歴史とは異なるが、近年の気温状況を少し見てみる。

10月7日に気象庁は、2021年の10月9日から10月15日までの予想気温を発表した。それによると、平年と比べて気温が高くなる可能性を、以下の図のように全国どこでも紫の70%以上と予想した。しばらくまだ平年より暑い日が続きそうである。

気象庁が2021年10月7日発表した10月9日~10月15日の予想気温(平年より高くなるか低くなるかの確率)
https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/34.5/137/&elem=temperature&pattern=P1M&term=1&contents=season(2021年10月8日現在)

地球温暖化が叫ばれているが、近年秋になってもなかなか涼しくならないと実感されている方はいないだろうか?それで最近56年間(1965~2020年)の日本の15地点の季節別の気温上昇率を調べてみた[注]。これらの地点は気象庁が発表している日本の平均気温の計算に用いられている地点である。

最近46年間(1965~2020年)の季節別の日本の15地点の気温の上昇率(℃/10年)
赤矢印は15地点の平均

その結果、図に示すように各地点で気温は確かに上昇しているが、秋の気温だけ上昇率が高い地点が多いことがわかる。また、それぞれの季節の右端の赤色の「平均」の赤の棒グラフ(矢印)を見ると、平均の気温上昇率は他の季節は0.25℃/10年程度であるが、秋だけ0.31℃/10年であることがわかる。これは秋の時期に夏に近い気温の期間が長くなってきていると言えるかもしれない。また体感的にはいろいろな感じ方があろうが、一つの感じ方として秋が短くなってきているということになるかもしれない。皆さんはそう感じたことはないだろうか?

実はこれを裏付けるように、Urabe and Maeda (2014)も1999~2012年の平均で見て9月と10月の気温が、平年値より0.2~0.3℃高くなっていることを示している[1]。この高まりは6月を除いて他の月では見られない。彼らの論文はこの期間に「夏と秋の気温」と「冬と春の気温」の差が大きくなっていると指摘している。これは日本付近だけの状況のようである。

この気温差が大きくなる原因について、Imada et al. (2017) は、数値モデル計算のアンサンブルによって、12月から5月までは東ユーラシアから日本にかけての低気圧が気圧をより下げることによって寒気の流入が増えて温暖化を抑え、6月から11月までは東アジアから北アメリカにかけての高気圧がより発達することによって温暖化を高めている可能性を示唆している[2]。これらは他の様々な要因の一部である可能性もある。

いずれにせよ、近年秋がこれまでより涼しくなくなってきていることは事実のようである。

[注]計算には気象庁がホームページで公表している月平均気温を用いた。規定の観測要件を満たないためにフラグがついたデータもそのまま用いている。上昇率の計算にはnon-parametric Sen’s slopeを用いた。

参照文献

[1] Urabe, Y., and S. Maeda, (2014) The relationship between Japan’s recent temperature and decadal variability. SOLA, 10, 176−179, doi:10.2151/sola.2014-037.
[2] Imada Y., et al., (2017) Recent Enhanced Seasonal Temperature Contrast in Japan from Large Ensemble High-Resolution Climate Simulations. Atmosphere, 8, 57; doi:10.3390/atmos8030057.




2021年9月9日木曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(6) 浅間山噴火の影響と全体のまとめ

 6 浅間山噴火の影響と全体のまとめ

6.1 浅間山噴火の影響

ラキ火山噴火が起こった1783年は、日本では「夏のない年」と言われ、夏が非常に涼しくて湿っていたため稲作などに歴史的な大凶作をもたらした。これは天明の大飢饉として知られている。全国で92万人が餓死し、人肉相食んだとも言われるが、各藩は幕府に窮状を知られたくないために実情を隠したとも言われ、正確な数字はわからない。

日本では、18世紀後半には験温器や寒暖計という名称でオランダから日本に温度計が持ち込まれていたが、幕府の天文方が天文観測用に測定器を用いた気象観測を開始したのは、本書「7-1-3 江戸後期の気象観測」で述べたように19世紀に入ってからで、それ以前の系統的な観測記録はない。しかし、長年記録された諏訪湖の凍結日と後年の江戸の気温のデータの関係から、1784年から1785年にかけての冬季の気温は、1768年から1798年の冬季の平均気温より1.2°C低かったと推測されている [14]。

天明の大飢饉の絵(Wikimedia Commonsより)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Great_Tenmei_famine.jpg?uselang=ja

日本の長野県にある浅間山は1783年5月から8月にかけて断続的に噴火し、特に8月の爆発的噴火は大きかった。この噴火が日本での冷夏などの異常気象の一因となった可能性が示唆されている。しかし、この噴火によって成層圏に注入された硫酸エアロゾルは3.5 Mt [15]、降下堆積物の量は0.17 km3 [16]と推定されている。これはラキ火山のそれぞれ約100 Mtと0.4 km3に比べると遙かに小さく、またそれによる成層圏エアロゾルの光学的厚さも気候に影響を与えるほどではなかったと推定されている [15]。そのため、浅間山の噴火による気候への影響は大きくなかったと考えられている。

6.2 火山噴火によるリスク

しかしながら日本は有数の火山国である。噴火のタイプはラキ火山とは異なるかもしれないが、三宅島の噴火では雄山が2000年から2004年にかけて1日あたり最大で0.01~0.05 Mtの二酸化硫黄の火山ガスを放出し続けたことがあった。夏季には南風に乗って関東の内陸で硫黄臭騒ぎもあった。2014年の御嶽山のように火山噴火との直接の遭遇による被害も怖いが、火山は噴火によってはこれまで記述してきたように、さまざまな被害を長期にわたって広範囲に起こし得る。

ラキ火山噴火による気候への影響についても、未だにまだよくわかっていない部分がある。例えばラキ火山が噴火した後、1783年の夏はなぜヨーロッパで猛暑になったのか?それはヘイズと関係があったのか?あったとすれば、 ヘイズのエアロゾル成分は日射に対してどう影響(吸収それとも反射)したのか?大規模なヘイズは放射への影響を通して地球規模での大気循環パターンに影響を与えたのか?などである。大規模な火山噴火はこれからも起こるかもしれない。ラキ火山噴火の自然への影響は決して過去のものではない。

1.初めに」で述べたように、ヨーロッパの各国政府は、ラキ火山噴火のような噴火が発生した場合のリスク軽減に関心を示している。噴火による気候や大気循環への影響を推定できれば、人間の健康、農業、生態系、航空便に対するラキ型噴火の影響をある程度評価することができる。そして、その中には事前や事後に速やかな対策を講じることによって影響をある程度緩和できるものもある。そのためか、ヨーロッパを中心に現在でも1783年のラキ火山噴火に関する研究発表は多い。

自然界のメカニズムは複雑でかつつながっており、さまざまな所に及ぶ火山噴火の影響の全容は必ずしもわかっていない。例えば1991年のフィリピンのピナトゥボ火山噴火の際には冷夏になっただけでなく、それによって生成された成層圏エアロゾルによって成層圏オゾンに変動が見られ、また直達日射は減ったものの散乱日射が増えたため、通常は陰になっていた葉の光合成量が増えて、自然界における二酸化炭素の吸収が増えたとも言われている。

6.3 最後に

1991年のピナトウボ火山噴火の当時とは異なり、現在はエアロゾルや大気汚染に関する世界規模の観測網が構築されている。設置場所は離散的であるが、都市域には大気汚染の観測地点が設置され、またSKYNETやAERONETのように上空のエアロゾル全量や鉛直分布を地上から光学的に推定する測定器が世界規模で展開されている。逆に宇宙からMODISやCALIOPなどの衛星に搭載されたセンサーで大気中のエアロゾル全量や鉛直分布が光学的に推定されている。

宇宙からの衛星観測は地域的に見ると連続的ではないが、場所を変えながら地球を周回するので、1か月などの平均をとると全球の観測が行える。衛星による観測は地上での直接観測と組み合わせることによって、その精度を上げることが出来る。過去の噴火状況を調べることも重要であるが、この後もし大規模な噴火が起これば、その気候への影響のメカニズムに関する知識は現在より大幅に進展すると思われる。

火山噴火ではないが、私は1997年秋のエルニーニョによって起こった東南アジアでの大規模森林火災発生時に、インドネシアに滞在したことがある。その時は森林火災によるヘイズ(煙霧)で地上でも物が霞んで視程は1 kmもなく、空は晴れているのに太陽がときおりぼんやり薄く見える状態だった。しかし何より困ったのは、呼吸する際の焦げ臭い匂いであった。ヘイズは数千kmという広域に広がっているので、逃げることも出来ずマスクをしてもほとんど防ぎようがなかった。おそらくラキ火山のような大規模火山噴火が起これば、日本でも同様な状態になる場合があるのではないかと思っている。

1997年のインドネシア森林火災時のヘイズ(カリマンタン島のバンジェルマシン空港にて筆者撮影。1997年10月24日)

火山については、数十年から数百年、あるいは数千年に一度という活動頻度のものも多く、その活動についてまだよくわかっていないことが多い。日本でも今後大規模火山噴火がないとは言い切れないので、火山活動による大気の影響について知っておくことは有用だと思われる。

【2023年11月追記】過去2000年間の人類に危機的な影響を与えた火山噴火(西暦540年代、1450年台、1600年台)では、成層に注入されたエアロゾルはこれまで推定の約半分だったという論文が発表された。これは成層圏エアロゾルの気候への影響がこれまで考えられていたものより大きく、特に成層圏へ火山ガスが上がりやすい高緯度の火山噴火では、気候に複雑な影響を与える可能性を指摘している[17]

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(1) 」でフランクリンが指摘したように、火山噴火による気候への影響には時間差があるので、ある程度対策が可能である場合がある。今後も特に高緯度での火山噴火には注意を払う必要があると思われる。

(このシリーズ終わり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.
[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland, SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
[8] Richard B. Stothers(1996)The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 32, 79-89.
[9] Franklin Benjamin(1784)Meteorological Imaginations and Conjectures, Manchester Literary and Philosophical Society, Memoirs of the Manchester Literary and Philosophical Society, 2, 373-377.
[10] Gaston R. Demaree, E. J. Ogilvie, De'er Zhang Astrid(1998)Further Documentary Evidence of Northern Hemispheric Coverage of The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 39, 727-730.
[11] Grattan J., Pyatt P. J.(1999)Volcanic eruptions dry fogs and the European palaeoenvironmental record: Localised phenomena or Hemispheric impacts? Global and Planetary Change. Aberystwyth University.
[12] Manley Gordon(1974)Central England temperatures : monthly means 1659 to 1973, Royal Meteorological Society, Quarter Journal of Royal Meteorological Society, 100, 389-405.
[13] 堤 之智(2017)新たなWMO/GAW実施計画:2016-2023について気象学会天気, 8, 64, 607-614.
[14] Barbara M. Gray(1974)Early Japanese winter temperatures, Royal Meteorological Society, Weather, 29, 103-107.
[15] Zielinski G. A. et al.(1994)Climatic Impact of the A.D. 1783 Asama (Japan) Eruption was Minimal: Evidence from the GISP2 Ice Core.  the American Geophysical nion, Geophysical Research Letters, 21, 22, 2365-2368.
[16] 安井真也, 小屋口剛博 , 荒牧重雄(1997)堆積物と古記録からみた浅間火山1783 年のプリニー式噴火, 日本火山学会, 火山, 42, 4, 281-297.
[17] Andrea Burke et al., (2023) High sensitivity of summer temperatures to stratospheric sulfur loading from volcanoes in the Northern Hemisphere, PNAS, 120, 47, https://doi.org/10.1073/pnas.2221810120



2021年9月4日土曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(5) 噴火の社会への影響

5. 噴火の社会への影響

5.1 同時期の災害

ヨーロッパにおいては、1783年は自然災害について異常な年だった。以下に示すさまざまな自然現象が起こり、人々に対して自然に対する関心の高まりと混乱をもたらした。

ヨーロッパの地震

1783年2月5日19時頃にシシリー島のメッシーナやイタリア南部のカラブリア州を中心とした大地震が起こった。この地震による家の倒壊などにより約2万人が亡くなったとされている [2]。このニュースは当時の新聞を通じて全ヨーロッパへ誇張気味に伝えられた。さらにナポリ近くのベスビオス火山や地中海のブルカノ島とストロンボリ島の火山も同時期に噴煙を上げたため、何かの大災害がさらに起こるのではないかと人々は恐れた [2]。人間はいつの時代も未知の現象に遭遇すると、その不安を和らげるためにその原因を知ろうとする。もちろん当時は地震の科学的なメカニズムなどはわからないので、同時期に起こった火山の噴火や激しい雷雨などがこの地震が起こった原因の憶測として飛び交った。

同年の7月6日に、今度はフランス西部からスイスにかけての地域、フランシュ=コンテ、ブルゴーニュ、ジュネーブで地震が起こった。7月30日には北アフリカ地中海沿岸のトリポリで地震が起こった。8月7日から8日にかけて今度はアーヘンなど北フランスを中心とした地域で地震が起こった [2]。これらの地震は大きくなくそれほど被害はなかったが、イタリア南部の地震の記憶がまだ生々しかった時期だった。しかも、この頃には既にヨーロッパをヘイズが覆っていたがアイスランドの火山噴火はまだ伝わっておらず、その原因は全く不明なままだった。ヘイズの原因としていろいろな憶測が流布しており、後述するようにヘイズの原因の一つとしてこれらの地震も挙げられた。

流星

この年は流星が多発したことで知られている。頻度だけでなく、いくつか大きな流星も出現した。その一つは1783年8月18日のもので、イギリスのシェトランド諸島からドーバー海峡までイギリス上空を太陽とほぼ同じ大きさの光彩を持った隕石が長い尾を引いて通過し、その後に爆発して7-8個に分裂した[2] [9]。さらに10月4日の午後7時過ぎにも月とほぼ同じ大きさの赤い輝きをもった流星が観察された [9]。中世からこういった現象は悪いことが起こる予兆と捉えられることが多く、その後科学の進歩で少しずつ天体のことがわかってきていたが、まだ中世的な考えは払拭されていなかった。これらの流星の出現は、人によってはさらに悪いことが起こる予兆として捉えられた。

1783年8月18日に現れた流星の絵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Meteor_of_August_18th,_1783_as_it_appeared_from_the_North_East_corner_of_the_terrace_at_Windsor_Castle.jpg

アイスランド南西沖での火山噴火

ラキ火山噴火と連動しているかどうかはわからないが、同じ年の1783年5月にアイスランド南西の海洋上で海底火山(Reykjaneshryggur)の噴火が起こり、激しい噴煙が上るとともに島が一時的に形成されたようである。この噴火と島は1783年5月22~24日頃に船員が目撃している [2]。この噴火は8月15日まで続いた [6]。アイスランドの住民も4月20日頃から遠くの海洋上での噴火を目撃していた [2]。

疫病

当時はこの本のコラム「ヒポクラテスの生気象」で述べたように、ギリシャの哲学者ヒポクラテス以来の病気は天候や地理によるものという考えが広まっており、病気(家畜の病気を含む)と気象との関係を研究するため、パリ医学アカデミーやオランダの医療通信学会が気象観測網を構築していた。しかし、これらは必ずしも観測基準や観測手法の統一がなされておらず、あまり精度の良いものではなかったようである。

1783年の夏にヘイズが広がるとこの大気現象と病気との関係が注目された。当時の気温と死亡者数に関する研究によると、夏季の高温のピークと死亡者数のピークとの関係には1か月程度の時間差があり、熱波による熱中症などの直接的な死者はそれほど多くはなかったと考えられている。むしろ高温によって蠅、蚊、シラミなどが増加して、赤痢、腸チフス、マラリアなどの感染症が蔓延したり、肉が腐敗しやすくなった結果、徐々に死亡者数が増加したと考えられている [6]。

一方で、冬の厳寒による気温の低下は直ちに死亡者数の増加と結びついた。もちろん凍死なども増えただろうが、老人や虚弱体質者から肺炎、気管支炎、インフルエンザにかかりやすくなったと考えられている。あるいは人々が寄せ合って暖を取ろうとした結果、シラミを媒介する発疹チフスが広がったとも考えられている [6]。

5.2 人々の反応

この時代、いわゆる啓蒙思想が盛んになりつつある時代で、これに啓発された多くの一般の人々が自然現象を観察して記録し、科学界も活発な議論を行っていた [10]。長期にわたる広範囲のヘイズの出現は、西ヨーロッパの人々に環境と社会に関する大きな関心を引き起こした。自然科学者たちや一般の人々にとってこの長期にわたって持続するヘイズの原因は当時の議論の的になった。

ところが6月8日のラキ火山噴火がヨーロッパ各国に伝わったのは遅かった。噴火のニュースは9月1日にようやくコペンハーゲンに伝えられ、それは9月11日にスウェーデンのストックホルムへ伝わり、9月15日にドイツのブレスラウへ、9月20日にウィーンに、9月22日にブリュッセルとサンクトペテルブルグに、9月30日にパリへ、10月1日にベルン、ベニスへようやく伝わるという具合だった [2]。多くの地域ではそのニュースの到着はヘイズの発生から3か月以上経っており、しかもその時点ではヘイズの最盛期は過ぎていた。

そのため、この噴火はヘイズの原因となかなか結びつかず、ヘイズの原因についてさまざまな憶測が飛び交った。情報がない中で原因として有力視されたものの一つが、2月にイタリア南部カラブリア州で起こり2万人が死亡したとされる大規模な地震だった。それによって地中からの放出されたガス状の物質がヘイズの原因と噂された。

今日から見ると地震と大気現象であるヘイズはなかなか結びつかないが、当時はまだギリシャの哲学者アリストテレスによる自然哲学が有力視されていた。「気象予測の考え方の主な変遷(1)古代ギリシャ時代」で述べたように、自然現象を引き起こす原因の一つとして彼が提起したexhalation(蒸発気もしくは蒸発物と訳される)のようなものが、地震によって地中から立ち上って大気現象を起こしたと考えても、それほど違和感はなかったと思われる。

1755年11月1日の万聖節の日にポルトガルのリスボンで大地震(リスボン地震)が起こり、数万人が亡くなったとされている。当時敬虔なカトリック信徒が多いと言われていたリスボンの壊滅的な被害は、近代的な啓蒙思想のヨーロッパでの普及を後押ししたとも言われている。この地震の前にヨーロッパの一部でヘイズが起こったことが知られていた。このヘイズはたまたま1755年10月から始まったアイスランドのカトラ火山の噴火によるものである可能性がある [2]。しかし、リスボンでの大地震の原因も一部ではその前に起こったヘイズと関連付けて考えられていた。

それ以外にも、ヘイズの原因として夏の異常高温によって上部地殻から蒸発した物質によるものという説や、泥炭の燃焼、大気電気、流星の破片、彗星の尾の破片、太陽からの放出物などのさまざまな説が流布した [5] [8]。当時、アイスランド以外でヘイズの原因を初めてラキ火山の噴火と結びつけたのはフランスのモンペリエのロイヤルアカデミーで8月7日に講演した自然科学者マーグ・ド・モントレドンとされている [5]。

地球環境の長期監視の重要性」の所でも少し触れたが、何か異常現象が起こった際にその原因を的確に推定するには、平常時からのデータの蓄積が重要である。その上で、それに基づいて何がどう異常なのかを把握し、それを科学的な知識を総動員して合理的に原因を判断する必要がある。そうでなければ、いろんなあやふやな憶測が飛び交うことになる。現在、世界気象機関(WMO)が各国と協力して世界規模で地球環境の観測を長期にわたって継続している[13]。しかし、平常時にはその必要性についてなかなか理解を得られにくい場合がある。

5.3 フランクリンの活動

アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンは自然科学者としても有名である。彼は当時駐仏アメリカ大使でパリ郊外に滞在しており、1783年夏のヘイズ(ドライフォッグ)を受けて、その原因について後述するようにいくつかの考察を行った。彼はこの持続する乾燥したヘイズの原因と影響について、イギリスの友人で医師であったトーマス・パーシバルに宛てに手紙を書いた。パーシバルは1784年12月22日にマンチェスター文学哲学協会(Manchester Literary and Philosophical Society)でこの手紙を読み上げている。その後この内容は、協会の定期出版物(Memoirs)の中で出版された。

この手紙の中でフランクリンはヘイズの原因についてアイスランドの火山噴火によって引き起こされた可能性を挙げるとともに、これによる乾燥した霧による日射の減衰が1783年から翌年にかけての厳冬の原因であった可能性を指摘している。彼は火山噴火が気候に影響して厳冬を引き起こす可能性があることを指摘した初めての人物だった。現在では1991年のピナトゥボ火山噴火によってその気候への影響がはっきりしたものの、当時において「火山の噴火が気候に影響を与える」という考えは極めて先見の明があった。そしてそれだけではなく、もしそうであれば、大規模火山噴火の翌年の冬は厳冬になるので、それに供えるべきという季節予報を用いた防災も提唱した。彼はこう述べている [9]。

歴史に記録されている厳しい冬に、今回と同様の持続的で広がった夏の霧があったかどうかを調べる価値はあるようである。 もしそうならば、ひきつづく厳しい冬と春の凍った川の融解によって起こるであろう被害を予想し、最後に起こる被害の影響を避けて自分自身を守るために、実行可能な措置をできるだけ講じることが出来るかもしれない。(拙訳による)

4.1 天候や気温への影響」で述べたように、1783年から翌年にかけて厳しい冬によって、飢饉や凍死が起こり、また大量の積雪や氷結した河川は1784年の春に一斉に溶融したため洪水が起こった。彼はそれらを事前に備えることによって防止できると述べている。

社会への影響の所でさまざまな原因説があったことを述べたが、実はフランクリンはヘイズの原因として、この年に多発した流星による隕石か彗星による影響の可能性も挙げている。これは地球外からの影響が気候変動の原因として考察されたおそらく最初の例とされている [9]。現在でも、例えば太陽から出る宇宙線が雲粒子の核になる粒子に影響を与えているのではないかという研究がある。そういった発想の先駆けとなるものであった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.
[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland, SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
[8] Richard B. Stothers(1996)The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 32, 79-89.
[9] Franklin Benjamin(1784)Meteorological Imaginations and Conjectures, Manchester Literary and Philosophical Society, Memoirs of the Manchester Literary and Philosophical Society, 2, 373-377.
[10] Gaston R. Demaree, E. J. Ogilvie, De'er Zhang Astrid(1998)Further Documentary Evidence of Northern Hemispheric Coverage of The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 39, 727-730.
[11] Grattan J., Pyatt P. J.(1999)Volcanic eruptions dry fogs and the European palaeoenvironmental record: Localised phenomena or Hemispheric impacts? Global and Planetary Change. Aberystwyth University.
[12] Manley Gordon(1974)Central England temperatures : monthly means 1659 to 1973, Royal Meteorological Society, Quarter Journal of Royal Meteorological Society, 100, 389-405.
[13] 堤 之智(2017)新たなWMO/GAW実施計画:2016-2023について, 気象学会, 天気, 8, 64, 607-614.