2020年6月13日土曜日

富士山における気象観測(5)山頂へのレーダー設置計画

 気象庁が降水探知を目的として気象用レーダーの開発を始めたのは,1949年で気象研究所に小型レーダーが設置された。1950年代半ばから本格的な開発が行われ、大阪、東京と現業用レーダー設置された。

 その次の課題として、本州を直撃する台風の通り路である日本南方海上をどのようなレーダーでカバーするかが大きな問題となった。超大型の台風Vera(伊勢湾台風)は1959年9月に突如本州中部に上陸し、5000名以上の犠牲者を出した。既存のレーダーでは上陸の3時間前に台風を捉えるのが精一杯だった。

 台風の早期発見は日本国民の悲願となった。数か所の設置候補地が比較検討された。もし富士山頂に高出力のレーダーを設置できれば、北緯30度付近から台風を捕えられるばかりでなく、低気圧や前線に伴う雨も広範囲にわたって探知できることがわかった。
 
 1961年に気象庁は富士山頂にレーダーを設置し、レーダー映像をマイクロ波で東京の気象庁へ送るすることを決定した。この建設の気象庁責任者は測器課長藤原寛人になった。彼は有名な気象学者藤原咲平の甥で、新田次郎というペンネームで有名な小説家でもあった。
にったじろう
新田次郎
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Nitta_Jiro.jpg?uselang=ja

 レーダーは減衰の少ない異例の10 cm波を用い、直径5 mのバラポラアンテナからバルス幅4 μsec、出力1,500 kWの強力な電波で、最大800 km先の降水を探知できる計画だった。建設のための予算は、1963~64年に認められた[1]。しかしながら、山頂へのレーダー施設の建設は数多くの問題を抱えていた。

参照文献

[1]気象庁、気象百年史II各種史談類第13章, 1975

2020年6月7日日曜日

富士山における気象観測(4)山頂への送電線設置

 第二次世界大戦の戦局が逼迫してきた1944年4月に、大本営は連合国軍の首都東京への攻撃を早期に探知するため、東京と八丈島間の通信回線を確保するように逓信院に命令した。富士山頂は通信回線の中継地点として絶好の地点にあった。そのため、山頂の東安河原にある旧気象観測所の建物の一部を無線中継所とすることに決まった。

 それまで山頂では、電気を発動発電機で時々発電し、それを蓄電池に貯めて少しずつ使っていた[1]。そのためには重油を山頂まで運ばなければならず、また希薄な空気と低温下では、発電機のエンジンをかけることは容易ではなかった。山頂の暮らしを改善することと、無線中継所として常時安定した電源が必要であるため、逓信院は山頂の無線中継所まで送電線を敷設することを決めた。

 送電線の敷設工事は9月1日から開始されたが,この作業には軍が協力することになり、御殿場に駐とんしていた工兵隊の500人の兵士が動員された。電源ケーブルは、冬季のなだれによる損傷を防ぐために、地面の下に敷設する必要があった。山の斜面に沿った敷設は難工事になることが予想され、そのため工事は3 m間隔ごとに兵士を配置するという人海戦術によって行われた。戦時だからこそ可能なことだった。その結果、工事は接続箇所を残して1週間で完成した。送電線工事は1944年11月27日すべて完成し,30日には通信回線も開通した[2]。

 無線中継所は連合国軍の空襲の情報を早期に伝えるのに役立った。しかし、1945年7月30日に連合国軍機6機によって山頂の施設が銃撃を受けた。富士山周辺は連合国軍の東京空襲の経路となっており、連合国軍は怪しい施設と思ったかあるいは山頂からの無線発信を探知したのかもしれない。気象観測所は被害を受けて、2名が負傷した。

 電線が敷設されたのは山頂の東安河原の無線中継所までで、それが剣が峰の気象観測所に延びたのは1947年1月だった。送電は3300 Vの高圧送電だったので100 Vに電圧変換するための1個83 kgあるトランスを、なんと強力が一人で麓から剣が峰の気象観測所まで合計で2個担ぎ上げた[1]。これで観測所は電気を使った文明的な暮らしの恩恵にやっとあずかることができるようになった。なお、気象観測所は1951年に正式名称が富士山測候所と変わった。

 東安河原の無線中継所は、別な無線回線が出来たため1948年6月に廃止されたが、山頂までの送電線はそのまま残された。この戦時中に敷設された送電線がなければ、後年に富士山頂にレーダー施設を建設して運用することは実質的に不可能だった[2]

参照文献

[1]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年
[2]気象庁、気象百年史資料II各種史談類第13章、1975年

2020年5月31日日曜日

富士山における気象観測(3)富士山頂での通年観測

 皇族である山階宮菊麿王(Yamashinanomiya Kikumaro-ou, 1873-1908)は気象学に興味を持っており、私財を投じて筑波山山頂に気象観測所を建設した。また富士山での気象観測計画も持っていた。ところが、菊麿王は途中で亡くなったため、富士山での観測計画は実現しなかった。しかし、その子である鹿島萩麿伯爵は父の遺志を引き継ぎ、筑波山気象観測所長をしていた佐藤順一氏が持っていた富士山での観測計画を支援した。佐藤順一はその支援を得て1927年に山頂に富士山気候観測所を建設し、夏季だけの観測を開始した。中央気象台も人を送ってこの観測を支援した[1]。
旧筑波山観測所(現筑波山神社・筑波大学計算科学研究センター共同気象観測所)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meteorological_Observation_Station_at_the_summit_of_Mt._Tsukuba,Tsukuba-city,Japan.JPG

 佐藤順一は1929年1月に約1か月山頂に滞在して冬季の気象観測を行った。山頂滞在中に脚気を患い、また登下山時に足が凍傷にかかった。1931年には彼と中央気象台のグループは年末から交代で翌年の2月12日まで山頂に滞在して、富士山頂での暮らしや観測のための調査を行った。

 第2回国際極観測年(International Polar Year; 本の「11-3 第2回国際極観測年(1932~1933)の開催」参照)に日本も参加することになり、第2回国際極観測年のための観測という目的で、中央気象台が山頂の東安河原に観測所を建設して、初めて1932年8月から富士山での通年気象観測が行われた。観測所には当時としては最先端のVHF(超短波)の無線電話も設置された[1]。

 なお、第2回国際極観測年では、日本は他にも中央気象台が地磁気の観測や航空機を用いた流氷観測を行い、海軍技術研究所が日本独自の装置を使って短波を使った電離層の観測を行った[2]。余談ではあるが、日本は当時の短波や超短波の研究では世界と肩を並べていた。

 第2回国際極観測年が終わった後も三井報恩会の寄付と有志で観測が継続された。それらの活動により、富士山頂の気象観測は中央気象台の正式な観測としての予算が認められた。東安河原は風が周囲の影響を受けるため、剣が峰に新たに「富士山頂観測所」が建設され、1936年8月1日に通年観測が始まった [1]。1938年には剣が峰の北に、陸軍の「軍医学校衛生学教室富士山分業室」ができた。しかし、こちらはあまり使われなかったようである。これは終戦とともに廃止された[1]。

参照文献

[1]志崎大策, 2002, 富士山測候所物語, 成山堂 
[2]中川靖造, 1990, 海軍技術研究所, 講談社

2020年5月23日土曜日

富士山における気象観測(2)野中夫妻による観測

 明治28年(1895年)に高山での気象観測に注目したのは野中到(1867-1955)である。彼は福岡で生まれたが、父は東京の裁判所の判事で東京で暮らしていため、福岡藩の武士だった祖父に育てられた。到は優秀で大学予備門(今の東京大学教養学部)に進んだ。

 在学中に中央気象台の和田雄治技師と知り合いになり、彼から欧米での気象観測の話を聞いて、高山での気象観測に興味を持った[1]。当時は地上気象観測の限界がわかりつつあり、気球などを使った高層気象観測が始まりつつあった(「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要」参照)。しかし、世界的にも高山での連続観測の例は稀であり、富士山での通年での気象観測が実現できれば、それは世界的な快挙だった。また、彼は富士山での高層気象観測の有用性を実証しようとも考えていた。まだ各国が国の威信を競っていた時代だった。

 豪胆で一途だった彼は、そのために大学予備門を中退した。彼は1894年に次のように決意を述べている。「余不肖ナリト雖モ将ニ明年ヲ期シ先ス一家屋ヲ最高ノ地ニ構へ二三ノ観測機器ヲ携ヘ越年ヲ山上ニ試ニ以テ聊カ志士仁人ノ奮起ヲ促サントス」[2]。この時代には南極探検を志していた白瀬 矗などもおり、当時の人々の私欲に囚われないスケール大きさには驚かされる。

 彼は1895年の冬を含めて何度か富士山への登頂を試み、自分の計画実現への確信を得た。彼は1895年夏に私財を投げ打って富士山頂に長期滞在用の石造りの小屋を建設した。それには父も福岡の家を売り払って資金協力した。観測には中央気象台も協力することになり、観測機器が貸与された。

 彼は同年の10月1日から富士山頂に滞在して1日12回の気象観測を開始した。ところが10月12日に山頂を尋ねてきた一行がいた。それは到の妻、千代子だった。千代子は到の姉の子である。二人は従兄弟同士で幼なじみであり、おしどり夫婦だった。到は山頂で一人で観測するつもりだったが、実は千代子は観測の準備段階から山頂で夫の観測を助ける決意を固めていた。これ以降、山頂での気象観測は到と千代子が交代で行った[1]。こうやって夫婦による高山での観測という世界でも類を見ない気象観測が始まった。

野中到と千代子
                   
 しかし、当時の技術や資材などの状況では、厳寒期の山頂での観測は過酷というより無謀だった。気圧が低い上に新鮮な野菜がなかった。特に寒さは想像を絶しており、多くの毛布を重ねても寒さで眠れない日が続いた。観測もさまざまなトラブルに見舞われた。例えば11月になると、湿球と風速計は低温のため凍結したり、予想外の低圧のため水銀が水銀槽からあふれ出して気圧が測定できなくなったりしたことがしばしばあった[3]。

 過酷な環境の下で二人とも浮腫を生じて健康を害した。まず千代子が喉が腫れて発熱した。彼女が回復すると、今度は到が発熱して寝込んだ。到は起き上がれなくなった。麓への連絡手段もなく、一時は死も覚悟した。たまたま12月12日に麓の村人が山頂に慰問に来て、二人の状況を見て驚いた。救援隊が組織され、12月22日に二人は救出された[1]。3か月間の山頂での観測だった。

 しかし、彼らの命を賭した観測は新聞で広く報道され、その志の高さは多くの人々の反響を呼んだ。それ以降、彼らの冒険に基づいた文学作品がいくつか作られた。その中の一つは、新田次郎の有名な小説「芙蓉の人」である。これは何度かテレビでドラマ化されて放映されたことでも有名である。

 新田次郎の本名は藤原寛人で、この後のブログで触れるように、彼は富士山レーダーの建設に気象庁担当者として大きな貢献を行った。ちなみに彼の叔父は有名な気象学者で中央気象台長も務めた藤原咲平である。

参照文献

[1]野中到・千代子 夫婦で打ち立てた不滅の金字塔、国際留学生協会、http://www.ifsa.jp/index.php?Gnonakaitaruchiyoko
[2] 中野至-1894-富士山頂氣象観測所設立ノ爲二敢テ大方ノ志士二告ク、氣象集誌、13 巻 11 号 p. 574-579
[3]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年

2020年5月17日日曜日

富士山における気象観測(1)明治初期まで

 富士山は古から信仰の対象とされており、そのため山伏などによって村山修験などの修行が行われていた。江戸時代になると富士講と称して、日本各地から地域を代表して祈願するために、大勢の巡礼者が富士山に訪れるようになった。また麓にはそのための宿泊施設が数多く開設されていた。

 江戸時代に長崎の出島に滞在したドイツ人医師シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、そこで自ら気象観測を行っていた。彼は後に伊能忠敬が製作した日本地図などを国外に持ち出そうとして国外追放になった(シーボルト事件)が、持ち出そうとした目録の中に江戸幕府の気象観測結果も含まれていた。

 彼は出島滞在中に江戸に行くことになり、その途中で日本の象徴である富士山の高さを計測することを計画した。しかし、外国人の行動に対する幕府の監視は厳しく、1828年に本人の代わりに蘭学者で弟子の二宮敬作(1804-1862)が実際に富士山に登って高度を計測した。二宮敬作はおそらく気圧計と温度計を使ったと思われる。既に当時は高度を現地気圧と気温から推定できることがわかっていた[4-8測候高式の発見]。彼は富士山の高度を3794.5 mと算出したらしい。これは実際の高度との差はわずか約20 mという高い精度での測定だった。しかしこの観測は秘密裏に行われ、日本では正式な記録として残らなかった [1]。
晩年のシーボルト
(Unknown artist, "E. Chargouey", 
Naturalis Biodiversity Center - Siebold Collection - Philipp Franz von Siebold - Portrait, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons

 19世紀末から世界各国が高層大気への関心を高める中で、明治維新後に日本においても高山での気象観測が計画されるようになった。その中でまず注目されたのは、高度が高くて孤立峰のため直接高層の大気を捉えることができると考えられたのは富士山だった。

 富士山での気象測定器を使った初めての本格的な気象観測は、当時東大理学部教授のトーマス・メンデンホール(Thomas Mendenhall, 1841-1924)によるものだった。彼は土木学教授のチャップリンと当時学生で後に日本を代表する地球物理学者となる田中館愛橘(1856-1952)らとともに明治14年(1880年)8月3日から4日間富士山頂で重力等の観測を行った際に、気象観測も行った [2]。これが富士山頂での初めての気象観測と考えられている。なお、メンデンホールはアメリカに戻った後、アメリカの国家気象局である陸軍信号部で気象の研究にも携わっている。

 また明治20年(1887年)9月には、当時中央気象台で気象予報を行っていたドイツ人クニッピングらがやはり富士山頂で気象観測を行った。彼は政府に富士山頂での気象観測を提案したが、政府は認めなかった。


参照文献

[1]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年
[2] お雇い外国人(第3)自然科学、鹿島研究所出版会、1968年