2025年4月11日金曜日

19世紀の暴風雨論争

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

  はじめに

17世紀から、嵐などの暴風雨は気圧が下がることと関係していそうだということは良く知られていたが、19世紀中頃までその現象がどういう仕組みを持っていて、どのように振る舞うのかは謎だった。嵐に今でいうハリケーンや低気圧などの違いがあることさえもわからなかった。そのため、嵐については、ストーム以外にも、ゲール(強風)やハリケーンなど、さまざまな呼び名があった。

このブログの「嵐の構造についての発見」のところで述べたように、当時ニューヨークの実業家だったウィリアム・レッドフィールド(1789-1857)は、1821年にアメリカ東海岸を襲ったグレート・セプテンバー・ゲールの際に、ニューイングランド一帯を広く歩く機会があった。彼はその際に見た倒木の方向に、場所によって異なる大規模なパターンがあることに気づいた[1]。彼は、嵐の風が回転している、つまり大規模な旋風なのではないかという考えを持った。彼は科学者ではなかったが、気象学者にその話をしたことがきっかけで、1831年に「嵐の風が大規模に回転している」という論文を発表した。当時広域にわたる嵐の形態は知られておらず、嵐が組織的な風系を持っているという考えは画期的だった。彼は蒸気船を運航する実業家であったが、まじめで向学心に富んだ人物だった。彼は1848年にアメリカ科学振興協会(AAAS:サイエンス誌の出版などで知られる)の初代会長となることとなる。

ところが、このレッドフィールドが主張する嵐の構造についてアメリカで大きな論争が起きた。1841年に嵐に関して異なる説を発表したのは、フィラデルフィアにあったフランクリン研究所のジェームス・エスピー(1785-1860)だった。彼は、水蒸気が凝結して雨になる際に潜熱を放出することによって上昇流が起きて、それが周囲から大気を集めて嵐(低気圧)が発達すると唱えた。当時熱力学理論は完全には確立されておらず、熱力学を用いたエスピーの考えは画期的だった。ただ彼は、嵐の風は低気圧の中心の回りに回転するのではなく、中心に向かってあらゆる方向から直線的に吹き込むのだと主張した。

 


エスピーによる熱力学的収束説(左)とレッドフィールドによる回転説(右)

 エスピーが低気圧の中心部に向かって風が直線的に吹き込むと考えた理由は、風が回転する必然性が知られていなかったからだった。嵐の風が回転するのは「コリオリ力」によるものだが、コリオリの論文は1835年に出版されていたものの、フランス科学アカデミーによる有名なフーコーの振り子実験をきっかけにそれが再発見されたのは、1859年だった。論争当時、コリオリ力はほとんど知られていなかった。 

パリのパンテオンにあるフーコーの振り子

 この暴風雨に関する二つの説は、本書の「6-1-6 アメリカ暴風論争」で述べたように、レッドフィールドが本拠地としているニューヨークの学者たちとエスピーが本拠地としているフィラデルフィアの学者たちの間で大論争に発展し、暴風雨論争(The Storm Controversy)と呼ばれた。この論争において、レッドフィールドは、嵐の風は回転による遠心力で中心部から外側に引き出され、下降した上層の冷たい大気が暖かい大気と混じって雲や雨になると反論した。

レッドフィールドの説は、倒木などを実際に観察した結果による帰納的な考えをもとにしていたが、エスピーの説は力学や熱力学理論を用いた演繹的な考察に基づいていた。この論争の背景には、科学は観測に基づく帰納的にあるべきか思考に基づく演繹的であるべきかという当時の思想的論争も絡んでいた。

ヨーロッパでの暴風雨論争

この論争はヨーロッパに飛び火した。イギリスでは天文学者のジョン・ハーシェルや物理学者で数学者のブリュースター卿らはレッドフィールドの帰納説を推した。一方でフランスでは、天文学者フランソワ・アラゴや物理学者で数学者のジャック・バビネらがエスピーの演繹説を支持した。大西洋を挟んだ世界をまたにかけた論争に発展した。

ハーシェルによる大気波の観測

気象に関心があったイギリス天文学者ジョン・ハーシェル(天王星を発見したウィリアム・ハーシェルの息子)は、この論争に啓発されて1836年にロンドンを襲った嵐の時の気圧変化は、嵐が大気の波が交差することによって引き起こされるのではないかと考えた。帰納的な観測によってその波を検出できれば、暴風雨論争に決着をつけて嵐を予測できるかもしれないと考えた。それには天文学からの類推もあった。

ハーシェルは、それまで行われていたように観測結果をやみくもに蓄積するのではなく、波の検出という目的を絞った観測する必要性を感じた。彼は気象観測者たちに、夏冬至点と春秋分点の前後に限って毎時観測を集中して行うように提案した。

この観測結果は、アメリカの気象学者ルーミスによって、初めての詳細な天気図のデータとなった[1]。ハーシェルは政府に気象観測所を多数設置するようにも要望した。これは受け入れられなかったが、後にフィッツロイによる電信を用いた気象観測網の下地となった。

ハーシェルは、同僚のバートに各地の観測結果の解析を続けさせたが、想定された大気の波は観測されなかった。彼は気圧変化の周期に解析を絞ったが、やはりそのような波は確認できなかった[2]。彼の帰納的な考えは、気象学の場合は結実しなかった。ハーシェルの研究は、その後防災などの実用を目指す気運が気象学に高まったこともあって、断念された。

ハーシェルの波の交差という考えは、ドイツの気象学者ドーフェが1831年に示唆していた大規模な気流の境目[3]として見れば全く見当外れなものではなかった。しかし、それは後にヤコブ・ビヤクネスが前線を発見するように、周期性のある気圧波のようなものではなかった。なおこの約100年後に、上層ではロスビー波という大気波が発見されることになる(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)」参照)。この場合は、ロスビーによる演繹的な理論が先行し、その後に観測によって実際に波が確認されている。

暴風雨論争と光の波動説

暴風雨論争は当時イギリスなどで行われていた光の粒子説波動説の議論にも影響を与えた。17世紀にホイヘンスが提唱し始めた波動説は、波動性そのものは実験で確認されたものの、波を媒介する物質として未確認のエーテルの存在という演繹的な仮説から出発していた。18世紀にはニュートンが主張した帰納的な粒子説が主流になったものの、19世紀に入るとイギリスの物理学者ヤングが光の波の干渉を示す実験を行い、その結果を約30年後にフランスの物理学者オーギュスト・フレネルが数学的に理論化した。そのため、エーテルを仮定する演繹的な波動説が有利となっていた。暴風雨論争が始まると、レッドフィールドの説は、帰納的な粒子説を力づけることとなった。

 暴風雨論争の解決

レッドフィールドの説は観測結果に基づいた帰納的な考えに基づいていたが、観測によって回転する風が内側に収束しているのか外側に発散しているかを立証することは困難だった。一方で、エスピーの説は、熱力学理論を演繹的に正しく用いていたが、コリオリ力を考慮しなかったことと自身の頑迷で強引な性格が災いしてか、大勢の科学者を納得させることが出来なかった。この論争にさらにペンシルバニア大学のヘアによって当時最新の流行だった大気電気説が参入してきた。

暴風雨論争は結局論争者たちが生きている間には決着がつかなかった。約20年後にアメリカの大気力学の研究者ウィリアム・フェレルによる、「嵐の原因は、潜熱による熱力学的な上昇流であり、風は低気圧中心に吹き込む際にコリオリ力で回転する」という結論によって解決された。

人間が自分一人で取り扱うことが出来る現象の問題は解決しやすい。例えば繰り返し観察したり、実験したりすることが出来る場合もある。しかし嵐に関するこの論争は、人間が届く範囲を超えた広域の気象を正確に捉えることが、当時いかに困難だったかを示している。この論争は、こういった現象を捉えるには、広域の気象観測網による統一的な組織的観測が必要であることを、多くの人々に感じさせることになった。

 暴風雨論争の余波

イギリス工兵隊のウィリアム・レイドは、赴任先のバルバドス島に大被害をもたらした1831年の嵐の経験から、イギリス海軍艦艇の航海日誌と嵐の報告を集めてレッドフィールドに提供した。これはレッドフィールドによるハリケーンの研究を推進するとともに、この研究成果は1848年のイギリスのピディングトンによる「水夫のための全世界での嵐の入門書」の一部となった。またレッドフィールドはさらに研究を進めて、その成果はペリー提督が日本遠征時の公式報告書の中に、「太平洋のサイクロン」という題で含まれている。

一方でエスピーの方は、熱力学を先取りした画期的な理論だったが、コリオリ力を考慮しなかったのと、彼の傲慢な態度が災いしてか、彼の説の価値自体が曖昧となってしまった。しかし、彼は自分の説を立証しようとアメリカ国内の気象観測網の設立に尽力した。当時アメリカ陸軍は兵士の健康問題などのため気象観測網を構築しつつあった。観測結果によって自説の立証はできなかったが、気象観測網構築に協力した彼は、アメリカ国家機関での初めての気象学者に任命された。

(次は「フィッツロイと天気予報(1)」) 

参照文献

[1] J. D. Cox (2013), 嵐の正体にせまった科学者たち(訳:堤之智)、丸善出版

[2] V. Jankovic, (1998), "Ideological crests versus empirical troughs: John Herschel's and William Radcliffe Birt's research on atmospheric waves, 1843-1850.", Cambridge University Press.

[3] 斎藤直輔(1982, 天気図の歴史、東京堂出版

2025年2月20日木曜日

世界初の女性気象学者 アンネ・ルイザ・ベック

 (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

 

当初、このタイトルを「女性初の予報官」にしようかとも考えていた。かつては気象事業は基本的に国の事業であり、予報は「官」の仕事だった。しかし、彼女は米国気象局には務めていない。後に軍で働いているため、広い意味では官かもしれないが、アカデミックな体制の下で教育を受けた研究者でもあり、気象学者というタイトルにした。

ここで出てくるアンネ・ルイザ・ベック(1896-1982)は、カリフォルニア生まれで、カリフォルニア大学優秀な成績で卒業した女性である。彼女が大学を卒業した頃は、ちょうどヴィルヘルム・ビヤクネスが気象学のベルゲン学派を組織した頃だった。ビヤクネスは前線という新しい概念を導入したベルゲン学派(ノルウェー学派)の気象学を世界に売り込むために、ベルゲンに留学生を受け入れていた。

 

アンネ・ルイザ・ベック(1896-1982)

彼女は、アメリカ・スカンジナビア財団の奨学金で1920年にノルウェーのベルゲンに留学し、ヴィルヘルム・ビヤクネスの下で気象学を、ヘラルド・ハンセンの下で海洋学を学んだ。彼女は熱心にベルゲン学派気象学を修得した。当時ベルゲンには、ヤコブ・ビヤクネス、ベルシェロン、ロスビー、サンドストレームなど若くて個性豊かな人々が揃っていた。後に中央気象台長となった藤原咲平も同時期にベルゲンに留学しており、その留学記には、アメリカから留学しているミス ベックという人がいたとだけ記されている[1]。そして彼女は、ヴィルヘルム・ビヤクネスが1921年に出版したの論文の手伝いも行った。

彼女は1921年6月に米国に帰国した。トランクには天気図と海図がぎっしり詰まっていたという。米国気象局は彼女にワシントンD.C.にある中枢でのポストを用意した。しかし、彼女はカリフォルニア出身であり、独身ではあったがバークレーには親兄弟などの家族がいた。ワシントンはあまりに遠く、彼女は気象局の申し出を辞退した。この時、ワシントンに就職しておれば、ベルゲン学派気象学をマスターしていた彼女は、予報官になったと思われる。

しかし、「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学 」に書いたように、必ずしも米国ではベルゲン学派気象学は受け入れられておらず、しかも、ヴィルヘルム・ビヤクネスが1921年に出版したの論文は米国で激しい論争を引き起こしていた。予報官になっていれば軋轢もあっただろう。彼女がワシントンに行かなかったのはその影響もあったかもしれない。

彼女はカリフォルニアへ戻って、カリフォルニア大学バークレー校の地理学科で、総観天気図におけるベルゲン学派気象学の極前線理論の応用をテーマに修士号を得た。これは、一般的な流体力学的考察が、ベルゲン学派の極域前線やそれに沿って伝播するサイクロン家族という概念に、どのようにつながったかを説明した。

そしてベルゲン学派の手法を知ってもらおうと、当時気象局が出版していたマンスリー・ウェザー・レビュー誌に、ベルゲン学派の手法で実際に低気圧を解析した論文を送った。しかし論文は編集者によって改変され、しかもページ数制限を理由に分量を削られて出版された[2]。これは米国気象局によるベルゲン学派手法に対する抵抗だったとされている。

彼女は大学を卒業後、しばらくはカリフォルニアのサンタ・ローザの高校で、その後はそこの短大で数学や天文学を教え、その後航空学校で気象学と航空理論の講師をしていたようだが、大戦が始まると陸軍航空隊の気象学の講師となった。その後の経歴はよくわかっていない。

少し後にベルゲンで一緒だったロスビーもアメリカでベルゲン学派気象学を定着させようとした。どちらも航空気象学の方へと進み、ともに第二次世界大戦の気象教育プログラムに従事した。しかし、両者の道が交わった形跡はない[2]。いずれにしても、彼らは米国気象局の文化を大きく変えたプロセスの第一歩だった。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(6)戦争時代 」で述べたように、米国気象局長官にライケルデルファーがなり、彼がロスビーをMITから長官補佐に抜擢して強引に改革を進めた結果、やっと米国気象局でベルゲン学派気象学は受け入れられた。

おそらく彼女は、ベルゲン学派の気象学をマスターした最初の女性だったと思われる。しかしながら、当時のアメリカでは予測手法に対する保守的な状況と男女の役割に対する期待の違いから、十分な活躍はできなかった。米国で気象学の博士号を初めて取った女性は、時代が下った1949年のジョアン・シンプソン女史であり、彼女はベックより27才年下だった[2]。

(次は「19世紀の暴風雨論争」)

参照文献

[1]藤原咲平、現象の奥がを見つめる人(1950)、天文と気象、Vol.16、No.8、7-11.
[2]
James Rodger Fleming (2016)、Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology  (MIT Press, 312 pp.)

2025年1月12日日曜日

低気圧発達の解明(2)傾圧不安定とは

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低気圧発達の解明(1)歴史的経緯 」では、低気圧の発達が傾圧不安定によることが解明されるまでの経緯を説明した。「傾圧不安定」は気象学の専門用語であり、低気圧の発達を説明する際にしばしば使われるものである。気象学を勉強しようとした人は、目にしたことがあるかもしれないが、実はこの概念は直感ではわかりづらい。

気象学の教科書では、傾圧不安定について多くの数式を用いて説明されていることが多いが、これを理解するのは簡単ではない。そのため、ここでは正確さにこだわらずにざっくりと説明したい。詳しい理解を目指す方は教科書の方を見ていただきたい。 

まず「不安定」という言葉であるが、これはよく使われる「大気が不安定」のような言葉の使い方とは少し異なっている。傾圧不安定の「不安定」は、低気圧のような大気擾乱が「発達する」ことに重みが置かれている。中緯度では緯度が高くなるほど気温が下がり、偏西風(ロスビー波)が高度とともに強まる。これはいわゆる「温度風」のメカニズムである。このような大気を「傾圧大気」と呼んでいる。 この傾圧大気において、気圧の中心軸が高度とともに西に傾いていると傾圧不安定が起こる。

なぜ低気圧などの気圧の中心軸が高度とともに西に傾くことがあるかというと、寒気が西から流入してくると、西方では大気密度が高まる。気柱量全体は変わらないため、寒気が流入した西側ほど上層の気圧が低くなる。その結果、低い気圧の中心軸が西に傾くことになる。そして、このような状態が低気圧の発達に大きく関連する。

この低気圧の発達には偏西風(ロスビー波)が大きく関与している。式を使わずに記述的に言えば、温度風が卓越している(つまり、南北間の気温勾配で上空ほど西風が強まる)状態で、上層の気温の谷が気圧の谷より西に位置すると低気圧性渦が強まる。そのため、寒気が西から流入すると、上層の気圧の谷で低気圧性の渦が強まる。そして気圧の谷の上流側では大気が収束して上昇流が発生し、気圧の谷の下流側で大気が発散して下降流が発生することになる。

  傾圧不安定が発達する状況。偏西風の中での上層の等温線と等圧線の分布のずれによる上昇流域と下降の発生を上から見た模式図。青色の実線は等圧線、橙色の破線は等温線。図中のHとLは、それぞれ地上の高気圧と低気圧を示す。ベクトル解析の知識が必要になるが、等圧面の傾き∇Pと等温面の傾き∇Tの外積(∇P×∇T)をとったものが、下向きになる場所が高気圧性の渦(下降域)になり、上向きになる場所が低気圧性の渦(上昇域)となる。これからその場所における等圧線と等温線の曲率のずれが、重要であることがわかる。

傾いた気圧の中心軸によって、上層の偏西風の発散域が地上の低気圧の真上にあり、そこの発散が下層での収束を上回れば、気圧が下がって低気圧が発達することになる。このため、上空の気温の谷(低温域)が地上の低気圧の西から近づくと、低気圧上層の発散が強まって低気圧が発達する。このように、西から寒気が流入することが、傾圧不安定によって低気圧が発達するポイントの一つとなる。

典型的な傾圧不安定のパターンの模式図
「気象学と気象予報の発達史」(丸善出版)の図10.4

なお夏場などに、寒気の流入によって「大気が不安定になる」など予報が出ることがよくある。この場合は局地的な積乱雲による雷雨になる。夏季は偏西風帯(亜熱帯ジェット)が北上して北海道かそれよりもっと北に位置することが多い。そうなると、日本付近は背の高い一様な太平洋気団(小笠原気団)に覆われて、温度風による傾圧状態にならない。

こうなると寒気が流入しても傾圧不安定が起きず、組織的な低気圧は発達しない。下降する上空の寒気と上昇する地上付近の暖気によって局地的な積乱雲が発達して、狭い地域での雷雨などになる。

(次は「世界初の女性気象学者  アンネ・ルイザ・ベック」)


2025年1月11日土曜日

低気圧発達の解明(1)歴史的経緯

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

19世紀までは、嵐が物理的にどうして起こるのかは謎だった。本書の6-1-4「気象学への熱力学の導入」で述べたように、最初にその原因を唱えたのは、米国の科学者エスピーだった。19世紀半ばに、彼は著書「嵐の原理(Philosophy of Storms)」の中で水蒸気に着目し、それが凝結して潜熱を放出することによって、上昇流が起きて周囲から大気を集めて嵐(低気圧)が発達することを唱えた。当時は水蒸気を含むと大気は重くなって沈降する、という間違った考えも広く共有されており、彼の説は、当時熱力学が十分に発達していない中で画期的な考えだった。


エスピーが唱えた水蒸気の凝結による潜熱によって上昇して出来た雲。
Philosophy of Stormsより

彼の説はこのブログの「嵐の構造についての発見」で述べたレッドフィールドとの間に、アメリカ暴風雨論争を引き起こした(本書の6-1-6「アメリカ暴風論争」を参照)。熱力学的にはエスピーの説は正しかったが、「嵐の王(Storm King)」とも称された彼の強引で攻撃的な性格が災いしてか、結局彼の説は主流にはならなかった。

次に嵐が発達するメカニズムに着目したのは、オーストリアの気象学者マルグレスだった。彼は、気温などが異なる気塊が接触してもある条件下では平衡状態になることを示した(本書の8-7「傾向方程式とマルグレスの式」を参照)。後に説明する傾圧不安定は、逆にこの平衡状態が崩れる条件の一つを示している。

そして20世紀初頭に、彼は嵐のエネルギー源として、上層の寒冷大気が下降してその位置エネルギーを放出することを挙げた(本書の8-6「嵐のエネルギー源論争」参照)。これは正しかったが、地球という回転球体の上で、具体的にどのようなメカニズムで低気圧が発達するのかまではわからなかった。

よく知られているように、ベルゲン学派のヤコブ・ビヤクネスが 1920年頃に低気圧の構造についての画期的な発見を行った。最初は典型的な低気圧の固定した構造だったが、後に低気圧の一生のような発生から終焉までの動態を含めるようになった。しかし、低気圧がなぜそのような経緯を辿るかというメカニズムはわからなかった。

1930年頃からラジオゾンデの観測によって上層の大気に規則的な波があることがわかってきた。このロスビーによる超長波(ロスビー波)の発見(このブログの「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績参照)が、低気圧の発達に関連していた。

そのメカニズムを解明したのはアメリカの気象学者ジュール・チャーニーである。彼は1947年に「傾圧不安定論」を唱えて、温度風の環境の中で上層の寒気が西から流入すると傾圧不安定が起こり、これが低気圧を発達させていることを理論的に解明した(本書の10-3「傾圧不安定と準地衡風モデル」参照)。この考えはイギリスの気象学者イーディによっても1949年に唱えられている。傾圧不安定の概要は次で触れる。

当時は数値予報の黎明期であり、気象予報には低気圧の発達についての予測が必要だった。チャーニーの傾圧不安定論は、数値予報モデルの開発にも大きな影響を与えた。

(次は、低気圧発達の解明(2)傾圧不安定とは

2025年1月4日土曜日

気候データのデータ解析モデルとは

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

ここでは観測された気温をベースに計算された(地上の)全球平均気温の経年変化の課題を挙げる。「気候変動社会の技術史」(日本評論社)の第11章で述べているように、全球平均気温のデータセットは一つではない。この本で示しているように、よく使われている近年の全球平均気温のデータセットだけでも4種類ある(下図参照)。



最近の4つの全球地上気温データセット。ブローハンら(2006)から更新したCRUTEM3平均値[黒線]に対する世界の地上気温の経年偏差(℃)。偏差は1961-1990年の平均値との差である。平滑曲線は10年平均の変動を示す。国立気候データセンター(NCDC)[濃い灰色線]、ゴダード宇宙研究所(GISS)[赤線]、Lugina et al.[緑線]の偏差もCRUTEM3の1961-1990年の平均値に対してプロットされている。出典:Climate Change 2007: The Physical Science Basis (Cambridge University Press, 2007).

この違いは、各データセットで用いている観測データ(インフラストラクチャの遡及を含む)やデータ処理方法の違いに原因がある。つまりこの本が指摘しているように、観測値に基づいた全球平均値は、データセットが処理に用いているデータ解析モデルに依存していることになる(詳しくは気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログ「データ解析モデル」 を参照)。これをよく理解していないと、同じく「『健全な科学』議論」 で述べたような誤解が起こることがある。

この全球のデータセットが一つではないことを説明する例として、気温ではなく温室効果ガス全球平均濃度の例を挙げる。考え方は気温と同じである。これは現在大きく分けると、NOAA(米国海洋大気庁)発表している全球平均値とWMO(世界気象機関)が発表している全球平均値の2種類がある。NOAAは、自分たちが世界に展開している海岸に近い清浄な観測地点の観測値を使って、地域の重みを考慮した上で世界平均値を出している。これはIPCCを始め、科学論文などで利用されている。

WMOによる全球平均値は、WMOの全球大気監視(Global Atmosphere Watch)プログラムに参加している観測地点の観測値を用いている。これは毎年WMOが温室効果ガス年報(Greenhouse Gas Bulletin日本語版はこちら)で発表されており、全世界のマスコミがこの値を報道している。ちなみに、WMOの温室効果ガス年報には、NOAAの観測地点の値も含まれている。なお、濃度の基準となる尺度は共通であり、値の違いは用いている観測地点の違いとデータ解析モデルの違いによる。

そして、ここでは全球平均値を算出するデータ解析モデルの例として、温室効果ガス年報で使われているデータ解析モデルを説明する。WMOの全球平均値は、気象庁が運営している温室効果ガス世界資料センター(World Data Center for Greenhouse Gases:WDCGG)によって算出されている。同センターでは集めた世界各地の観測地点のデータを用いて、1983年からの全球平均値を算出している。

しかし、年とともに観測地点の開始や廃止が行われることがあり、解析期間の全期間にわたって全ての観測点のデータがあるとは限らない。これをそのまま算術平均を行うと、期間によって地点数が異なるため、地域の違いなどによる重みが時間と共に変わってしまう。これでは正確な全球平均値の経年変化とはならない。そのために、観測値を選別したり、重みを均等にしたりするためのデータ解析モデルが必要となる。

同センターが行っている処理は、概要を記すと以下のようになる[1]。

1.全球平均に必要なデータは、その地域の広範な範囲を代表する必要がある。地点によっては近隣の都市汚染や森林火災などの影響を受けることがあるが、この影響は局地的であるため、このような観測値を全球を対象とする計算から除く必要がある。そのため、全地点から計算した緯度分布の平均値から標準偏差が3シグマ以上離れた値をふるいにかける。これは計算に使う全ての値が3シグマ内になるまで繰り返される(このやり方はNOAAと同じである)。

2.以下の手段によって、全観測地点の観測期間を揃えるとともに、観測の空白期間があればそれを埋める。

・他の観測地点から算出した同じ緯度帯の、季節変化を除いた経年傾向(トレンド)を算出し、それをデータがない地点のトレンドにつなげる。これは、中高緯度では西風が卓越しているので、同じ緯度帯では、濃度は異なっても傾向は同じであることを仮定している。

・各観測地点が持つ平均的な季節変化幅を算出し、そのつなげたトレンドに重ね合わせる。これによって全ての観測地点でデータ期間が揃った空白のない月平均データが作成される。この期間が揃った各地点の時系列観測データがポイントとなる。

データ同期のために外挿された(破線)CO2 長期トレンド(上)と季節変化を加えた長期濃度変動(下)の例


WDCGG が保管している観測されたCO2 の月平均濃度データ(左)と全球平均のためにデータ期間を揃えた月平均濃度データセット(右)。図は北半球高緯度の観測地点を上にして緯度毎に並べた濃度の経年変動を示している(最下段は南極)。左の観測データは長さがバラバラで虫食い状態になっているが、右は全ての観測点データの長さが揃って空白がないことがわかる。色は濃度値を反映している。


3.各緯度帯毎に平均気温を算出し、その緯度帯が持つ面積の重みをつけて全球の平均気温を算出する。

以上の計算を行うモデルが、センターが用いているデータ解析モデルとなる。同様なことが世界平均気温の算出でも行われている。観測地点やインフラストラクチャの遡及を含む観測データの違い、気温の内外挿の手法の違い、地域平均の取り方の違いなどによって全球平均値が異なることとなる。ただし、どのデータセットでも全球平均気温は右肩上がりになっており、最初の図を見てわかるように、その差はそれほど大きくない。

なお、気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログで解説した再解析データからも全球平均気温は計算できる。しかし、現在は実際の地上気温の経年変化の把握には直接的には使われていない。ただし、再解析データはイベントアトリビューションなどの現在の気候変動に対する人為効果の寄与の推定などには頻繁に使われている。

(次は、低気圧発達の解明(1)歴史的経緯

参照文献
[1]堤 之智・森 一正・平原 隆寿・池上 雅明・栗原幸雄・Thomas J. Conway, WDCGG における主要温室効果ガスの全球濃度解析手法, 気象庁, 測候時報, 76.4-6, 2009.