2020年5月3日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(8)数値予報の発達

 第二次世界大戦後、フォン・ノイマンは電子計算機の開発の目的に気象予測を含めた。そして、電子計算機を使った数値予報のためのプロジェクトを立ち上げた[10-2-2 電子計算機(デジタルコンピュータ)の出現](このブログのフォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1も参照。このプロジェクトの中でチャーニーは、リチャードソンの失敗を回避する方策を考案した[10-3-4 準地衡風近似とその利点][10-4 実験的な数値予測の成功]

 観測データを用いた数値処理(数値予報)によって気象予測を行おうとすれば、予測をしようとしている日時より早くその処理を終えなければ意味がない。フォン・ノイマンによって開発されたコンピュータによって、気象予測のための大量の高速計算が可能になり(このブログの「フォン・ノイマンについて(9)と(10)」を参照)、コンピュータを使った気象予測の数値計算が始まった[10-5 数値予報の現業運用化]。これによって決定論に基づいた気象予測ができると考えられた。その予測をより長期先に向けるための改善に努力が払われるようになった。

 計算機や計算手法の発達とともに、複雑な気象も扱えるように物理過程が改善された気象予測モデルが開発された。計算を行う大気層の数は増え、計算格子は細かくなっていった[10-5-3 現業予報のための数値モデルの改良]。人工衛星が打ち上げられるようになり、それを用いた全球の観測も気象予測モデルの初期値として使えるようになった。この数値予報は、日食の予測のような決定論的な気象予測を実現するのではないかと思われた。さらに観測データや物理過程を細かくしていけば予報期間もどんどん長く延ばしていけると思われた。また同時に長期間の大気循環を計算して気候を調査、予測する大循環モデル(気候モデル)も開発された[10-7-2 大循環モデルの発明]。これは現在、地球温暖化などの地球環境問題の調査や将来予測に用いられている。

 気象予報モデルを用いた正確な気象予報には全球の一貫した観測データが必要である。気象観測データの交換や気象観測の国際協力のために、1951年に国連の専門機関として世界気象機関(World Meteorological Organization: WMO)が作られた[11-4 WMOの発足]。これは政府間組織であり、このことはIMOの時と異なり加盟国が世界気象会議の決定に拘束されることを意味している。これによって、ようやく迅速で円滑な観測データの交換が可能になった。

 このWMOと国際科学会議(ICSU)などは地球をよく調べるために、1957年から1958年にかけて国際地球観測年(International Geophysical Year)を設定し、世界各国が参加して地球規模での観測を実施した[11-5 国際地球観測年の開催]。これによってエルニーニョが熱帯太平洋全域に広がった大規模な現象であることがわかり、その原因解明に貢献した[11-5-2 エルニーニョと南方振動の発見]。またこの時に始まった二酸化炭素濃度の観測と南極でのオゾン層の観測は、温室効果ガスが増加していることの発見と後のオゾンホールの発見に貢献することになった。


国際地球観測年を記念して発行された切手

 1961年にアメリカのケネディ大統領の提唱により、世界各国の協力による衛星気象観測を含む世界中の気象観測データのリアルタイムでの交換のために、WMOによる世界気象監視(World Weather Watch)プログラムが始まった[11-6 世界気象監視プログラム]。これによりIMO時代から取り組んでいた観測データの内容や形式の統一は一応実現された。これは主権を持つ各国が、世界気象機関条約下のこのプログラムに沿って、決まった時刻に決まった観測を行い、決まった様式で世界にリアルタイムで報告するというユニークな国際協力になっている(強い主権を主張することが多い各国が、WMOの規定に従って細かい統一的な作業を日々行い続けているのは珍しいことである)。現在の気象予測(数値予報)は、この国際的枠組みの下で機能している。

 ところが1963年にアメリカの気象学者ローレンツが、ある大気モデルを計算している際に偶然にカオスを発見した。これは、非線形の現象の中で(つまり非線形方程式の中で)微小な差が、時間が経つにつれて大きく発達することがあるというものである。気象観測の結果には微小な誤差が不可避的に含まれており、この発見はその誤差を含んだ気象の時間発展について、ある一定時間以上は予測不能であることを意味した。
 
カオスを表すローレンツアトラクタの例。線は位相空間での解の時間発展を示している


 このカオスの発見は、決定論的な気象予測に原理的な限界をもたらした[10-8 カオスの発見]。それでも現在ではこの困難を克服するために、初期条件の異なる「決定論的」な計算を多数行って、予測結果の信頼範囲を「決定論的でない」確率などの形で予測するアンサンブル予報などが研究されている。

(このシリーズ終わり。次は「富士山における気象観測(1)」)

2020年4月24日金曜日

気象予測の考え方の主な変遷(7)気象学の近代化

 天気図を見て主観に基づいて行う気象予測は科学とは言えず、アメリカの気象学者アッベなどは物理法則を用いた科学的な気象予測を唱えたが、当時の観測技術や未成熟な気象学では困難だった。

 20世紀に入ると、ノルウェーの物理学者ヴィルヘルム・ビヤクネスは気象を物理法則に基づいて定式化すれば、「観測データの整備によって客観的にかつ決定論的に気象予測ができる」という考え方を提唱した。彼は気象学者に転向して実際に気象予測のための物理方程式(プリミティブ方程式)を定式化し、高層気象観測データを用いた予測手法を構築しようとした。これは決定論的な手法だった。気象予測のための方程式は解析的には解けないため、彼は所長となったライプチッヒ地球物理学研究所において、解析天気図を組み合わせていく視覚的な手法を検討した[9-1ヴィルヘルム・ビヤクネスによる気象学の改革](このブログの「大気力学でのソレノイド」も参照)。

 一方で、イギリスの気象学者リチャードソンは、気象予測の物理方程式(プリミティブ方程式)を高層気象観測データと差分法を用いて、直接的に数値計算することを考えついた。そのためには膨大な計算が必要なるが、彼は第一次世界大戦中に志願して戦場で救急車を運転する役目を果たしながら、その試行的な予測計算を実践した。しかし、当時は気象を引き起こしている波と数学的な差分法の特性が十分理解されておらず、この野心的な挑戦は非現実的な予測結果となって失敗に終わった。しかし、この手法は原理的には現在の数値予報の考え方を先取りした革新的なものだった[9-3リチャードソンによる数値計算の試み]

 一方で、予測技術の行き詰まりの打開のために、高層の気象観測による新たな発見に期待が寄せられた。また第一次世界大戦において、高層を飛ぶ長射程砲弾のための軌道修正と発達し始めた航空機の運行に対して、地上天気図が役に立たないことがわかり、それらが高層気象観測の充実を加速した[9-1-7第一次世界大戦の気象学と収束線]

 さらに戦争中の食糧危機に対して、気象情報を使って農業、漁業の増産を図ろうとしたノルウェーでは、ヴィルヘルム・ビヤクネスがドイツから帰国して、高密度の気象観測網を展開した。このこれまでにない密な観測網から、寒帯前線論や気団という気象予測のための新しい概念が生まれた[9-2ベルゲン学派の気象学]。これらは決定論的な手法ではなかったが、それまで予測できなかった天候の急変などをある程度予測できるようになり、また高層雲の変化から悪天候の接近を予測するという新たな手法にも結びついた。

 1930年頃からは、ラジオゾンデの発明により高層気象観測はゾンデ回収の必要がなくなり、観測と同時に結果がわかるようになった。これによって高層気象観測の密度と頻度が向上した[9-4-3世界でのラジオゾンデ観測の発達]。この観測による高層大気の広域的な把握は、ロスビーによる高層の長波の発見につながった。またこの長波と地上の低気圧や前線との関係もわかってきた。そのため、地上の気象予測のために長波の動きを予測する手法が開発された[9-5高層の波と気象予測]。さらにアメリカのチャーニーにより大気の立体構造から低気圧が発達する原因に関する理論(傾圧不安定理論)が生まれ、高層の地球規模の大気循環と地上の天気が結びつけられた。これらにより気象予測は初めて科学に立脚するものとなっていった[10-3-2傾圧不安定理論の確立]
ラジオゾンデ

つづく

2020年4月19日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(6)近代の始まり(18~19世紀)

 18世紀後半から国家という概念が明確になってくると、産業、経済、健康、植民地経営のための地理情報という観点から、気象・気候が重要視されるようになってきた。気象データの蓄積だけでなく、気象観測網を各地に展開しての気候の把握が重要となった(このブログの気候学の歴史(1) (10)参照)。観測結果を用いた気候統計が行われて、各地の地誌学的な気候情報が整備された[5-1気候学の発展]。過去の観測値を用いた総観天気図も作られたが、それはまだ試験的なものだった。

 電信が発明されると、各地の気象状況をリアルタイムで把握しようという革新的な考えが起こった[6-2-1電信の発明]。気象観測所に電報が整備されるようになり、そこから中央の気象台などに電報で収集された気象状況は、「警報」という形で港湾などに伝えられ、船舶被害を嵐から未然に防止する実用技術となった。これは今でいうナウキャストのようなやり方である。一方でフランスなどではリアルタイムに近い形で総観天気図が作られるようになり[6-2-3ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行]、イギリスなどでは気象予報も行われたが、気象予報は確固とした科学法則に裏打ちされたものではなかった(このブログの科学と技術参照)。そのため、イギリスでは混乱が起こって気象予報は一時中止された[6-2-4フィツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報]

 しかし、天気図を用いた気象予報は各国に広がっていった。天候は広域を移動するため、自国の気象観測網だけでは天候をカバーしきれず、観測データの交換を可能にするために国際気象機関(International Meteorological Organization)が作られた。観測様式(例えば単位)の統一化の交渉が始まったが、国際気象機関は政府間組織にならなかったため、決定事項に拘束力がなく、統一化の進展は遅々としたものだった[11-1国際気象機関の設立]

 また、19世紀を通して各地で気象観測結果の蓄積が行われ、多くの気象学者が分析を行ったが、他の科学分野と異なって気象予報のためのめぼしい法則性は見つからなかった。天気図(気圧分布)を用いた気象の予測技術は、各自の経験や主観に基づいた職人芸となり、同じ天気図を用いても気象予測結果は予報者の数だけ異なった[8-8気象予測技術の行き詰まり]。20世紀に入ると、気象学の主な研究は一時的に気候統計や気象の周期性や相関へとシフトした。ただ、19世紀末に気象熱力学[8-1気象熱力学の定式化]や低気圧の熱構造に関する気象学に関する発見[8-2低気圧の研究]が相次いだ。
イギリスの気象学者アーバークロンビーによる7種の気圧分布の分類。
彼の著書「Weather (1887)」より。

 また19世紀末から気球を用いた高層気象観測が行われるようになり、ゴム気球の発明(このブログのリヒャルト・アスマン(その2)参照)や成層圏の発見(このブログの高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1(12)参照)などが起こった。しかし高層気象観測は、気球による大気の持ち上げや日射の測定器への影響の問題に加えて測定記録の回収が必要であったため、20世紀に入ってもまだ定常的な広域観測は困難だった[8-4高層大気の気象観測]

つづく

2020年4月12日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(5)科学革命のその後

 フランスのデカルトらは、自然も分解していけば時計のように歯車のような機構から成っているという機械論哲学を唱えた。それに基づいて、あらゆるものの運動はニュートンの法則を用いた力学に従って記述でき、現在の状態がわかればその法則から将来を決定論的に予測できるという考え方が生また。またイギリスのフランシス・ベーコンは、自然の観測結果を広く蓄積し、その法則性を体系的・組織的に研究して、それを利用することを唱えた[3-2科学的な考え方への転換]
フランシス・ベーコンの肖像
 さまざまな加工技術が発展するにつれて、気圧や気温、湿度などの気象を定量的に観測する気象測定器が発明された[4. 気象測定器などの発達]。定量的な観測結果から決定論的な法則性を導こうと、いくつかの組織的な学会が中心となって気象観測網を構築し、各地で観測結果が記録され蓄積されるようになった(このブログの「学会と気象観測」を参照)。

 イタリアには実験アカデミー(Accademia del Cimento)、イギリスには王立協会(Royal Society)などの学会が作られ、それらは気象測定器の発明や開発も積極的に行った[3-3学会の誕生と気象観測]。特にイギリスではロバート・フックがさまざまな気象測定器の開発に大きな役割を果たした[3-3-3イギリスの王立協会とフック]

 組織的な気象観測網のために、離れた地点の観測値を比較可能(comparable)なものにすることに関心が払われるようになった。しかし、そのための温度計や湿度計などの測定器の測定基準の決定と較正方法の確立には、かなりの試行錯誤を要した。その較正方法の確立には、18世紀末までかかったものもあった[4. 気象測定器などの発達]

 18世紀末には初めてドイツのマンハイムに気象専門の学会であるパラティナ気象学会(Societas Meteorologica Palatina)が作られて、ヨーロッパなどに精密で統一的な観測網を展開した。約15年継続したが、ナポレオンによるマンハイム占領によりの活動は終わった。しかし、この気象観測網による正確な観測記録は、19世紀になって利用され、ブランデスによる天気図やフンボルトによる気候図が生まれるきっかけとなった[3-3-5気象を専門とする学会による気象観測網の誕生]

つづく

2020年4月8日水曜日

気象予測の考え方の主な変遷(4)大航海時代と科学革命

 15世紀、16世紀になって大西洋や太平洋へ乗り出す大航海時代が始まると、熱暑で赤道を越えられないとするアリストテレス気象学の気候帯は現実と合わないことがわかってきた。また精密な天文観測が行われるようになると、それまで地上界の現象とされていた彗星の発現が不生不滅であるはずの天上界で起こっていることなどが明らかになってきた。これは古代ギリシャ自然哲学全体への信奉や信頼を揺るがすきっかけとなった[2-3アリストテレスの気象論など古代ギリシャ自然哲学のほころび]

 一方で占星気象学を含む占星学が当たらないのは天体の観測精度が足らないためという考えから、ティコ・ブラーエはそれまでにない高精度の天文観測機器を開発するとともに、自ら気象も観測して法則性を求めようとした。 当時占星気象学者として有名だったケプラーは、ティコの結果を引き継いで天体の運動の研究を行った[3-1-2ティコ・ブラーエの占星気象学と天体観測]

 17世紀に入ると、ケプラーはティコの観測結果から火星の楕円軌道を発見した。ガリレイも精密な落体実験や木星の衛星の発見を行って、それらの結果からニュートンらによる科学の近代化が起こった。天上界と地上界に分け隔てなく作用するニュートンの一元的な「万有引力」の発見によって「高貴な天上界」と「通俗的な地上界」からなる二元的な古代ギリシャ自然哲学への信奉が終わった。

 アリストテレスの風の原因に代わる新たな風の原因も探られるようになった[3-1-4近代科学の父ガリレオ・ガリレイと風の考え方]。大航海時代には各地の風の観測結果から、貿易風などの地球規模の大気循環が論じられるようになった。ハレーは、1686年に東から西へ移動する日射熱による熱帯大気の収束発散から貿易風を説明した。この説明は百科事典の元となった「サイクロペディア」に記載されたため、19世紀まで広く使われた[3-4-2 ハレーによる貿易風の説明]

 一方でハドレーは、1735年に緯度の違いによる日射熱の違いと地球自転による運動量保存を考慮した、地球規模大気循環として貿易風の原因を発表した。これは地球自転の風に対する影響を考慮した革新的なものだったが、一部の研究者を除いてあまり一般には知られなかった[3-4-3ハドレーによる大気循環の説明]


ハドレー が考えた大気循環の模式図。
現在知られている大気循環とは異なる
 19世紀になって、ドイツの高名な気象学者であったドーフェが、一騒動あった後にハドレーの説を取り上げるようになって、ハドレーの説は有名になった。これ以降、ハドレーの説をベースに地球規模循環が力学的に議論されるようになった[5-3 地球規模の大気循環の解明への取り組み]

つづく