2023年1月26日木曜日

データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和

このブログの「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」においては、真鍋淑郎、荒川昭夫、笠原彰の3名を挙げた。いわゆる気候モデラーとは少し異なるかもしれないが、ここでは数値予報モデルと気候モデルに対して世界に革新をもたらし、彼らに勝るとも劣らない活躍をした佐々木嘉和(1927-2015)について述べる。

佐々木嘉和の写真(Norman Transcript紙に飛びます)

データ同化と気象予報

最初に、佐々木嘉和のメインの研究分野の一つだったデータ同化における変分法の役割について説明する。これは現在の数値予報になくてはならないものである。

数値予報モデルで予報を行うには、計算開始時に初期値をモデル格子に設定する必要がある。数値予報の開始当時は、この初期値は観測値をもとに作成された。ところが、数値予報モデルは規則正しく並んだ格子点での値を計算するように作成されているが、実際の観測点はその格子上にはほとんどない上に、海上の格子点のようにその付近に観測点が全くないこともある。そのため、数値予報では最初の格子点値(初期値)を、どうやって作るかが問題となった。

当初は、気候値を使う場合もあったし、なんらかの手段を用いて最寄りの観測点からの内挿や外挿によって値を決めることもあった。これらの初期値作成作業は予報の場合は「解析」と呼ばれることもある。

この全球規模での初期値決定は、予報精度に大きく影響するにも関わらず、決定的な作成手法がなかなか見つからなかった。等圧線などを用いた内挿外挿には、主観的な要素が入り込む余地が多大にある。それらは計算を進める間に大きな誤差となった。そこで生まれたのが、データ同化という考え方である。この詳しい説明は専門の参考書などに譲るが、一言で言えばさまざまな観測値から、格子点上で物理学的に最も誤差の少なくなる最適値の組み合わせ(解析値)を計算し、それを初期値として用いることである。

そして佐々木嘉和は、データ同化の最適な解析値を決定する方法として数学的な「変分法」を使うことを提唱した。これは誤差を含み得る観測値を使って時空間的に誤差を最小にした一貫した解析値を算出する方法である。計算は複雑だが、計算機の進歩がこれを後押しした。

この手法を利用してデータ同化技術を発達させることによって数値予報の際に、全球の3次元空間と時間軸に対して物理学的に一貫した(つまり誤差が最小となる滑らかな)初期値を算出できるようになった。数値予報においては、「予報モデル」とこの初期値作成のための「データ同化モデル」は、車の両輪のように重要なものである。

気候再解析

変分法を用いたデータ同化手法は、3次元の空間で最適な解析値を導出できるだけでなく、時間軸に対しても最適な解析(同化)を行うことができる。そのため、この解析は時間軸を加えて「4次元変分法」とも呼ばれる。

そして、これによって導出された数値予報のための初期値は、その時の最善の気候値と考えることも出来る。さらに気候値の場合は、予報と異なって計算しようとしている日時以降に観測された値も時間軸の解析に利用することが出来る。このため、数値予報のためのデータ同化を「3.5次元同化」、気候値のためのデータ同化を「4次元同化」と呼ぶ場合もある。

この4次元同化を用いて作成された気候値は「気候再解析」と呼ばれ、過去の気候値を一定の精度で再現できる。過去天気図との違いは、地上での気圧や風だけでなく、気象の多くのパラメータ(要素)が、全球3次元で物理学的に一貫した精度の値を持っていることである。

この再解析された3次元での一貫した精度の全球格子点での気候値は、気候科学を変えた。これによって、このデータセットがある限り、過去におけるあらゆる場所のあらゆる時刻の気象(例えば天気図)をある一定の精度で再現できるようになった。つまり、現在気候が過去気候とどの程度変化したのか、あるいは変化していないのかを定量的に比較・議論できるようになった。

現在の地球温暖化などにおける過去気候との比較も、再解析の結果に基づいて行われることもある。変分法を用いたデータ同化手法は、数値予報だけでなく、現在の気候変動を議論するための基礎技術ともなっている。

佐々木嘉和の若い頃と変分法

佐々木嘉和は1927年に秋田県に生まれた。彼は1954年の台風による青函連絡船「洞爺丸」沈没の被害に衝撃を受け、それが後の彼の人生に大きな影響を与えた。このブログの「正野スクール:正野重方と日本の気象学者」で記述しているように、彼は東京大学の正野スクールの出身であり、1955年に東京大学で正野重方教授を指導教官として博士号を取得した。彼の研究テーマは一貫して気象学への変分法の適用だった。当時彼は機械式計算器を使って研究していた。

彼の研究は1956年の論文「台風の進路予報の研究」に結実し、共著者の都田菊郎博士とともに日本気象学会賞を受賞した。1956年にフルブライト研究員としてテキサスA&M 大学へ渡り、そこでの研究を開始した。1960年にはオクラホマ州にあるオクラホマ大学へ移り、ウォルター・ソーシエ博士とともにそこで気象学教室を創設した。1970年に発表した論文が変分法の気象学への応用の記念碑的な論文となった。この論文は、1980年代後半に世界の主要気象センターで開発されて、現在も運用されている4次元変分法によるデータ同化の礎となった。

佐々木嘉和の手法は、各国の数値予報の初期値作成の解析に用いられただけでなく、米国海軍研究所の海洋気象学部門のデータ同化システムとしても長年使われた。このシステム開発の際に使われたのが、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の荒川昭夫の大循環モデルと、オクラホマ大学の佐々木嘉和が開発した変分法の知識だった [1]。藤田が開発した衛星技術もそうだが(ミスター・トルネード 藤田哲也(5)参照)、国家の最重要機密である軍のシステムに彼らの技術が使われたことが、日本人気象学者たちがいかに優秀だったかを示している(当時の気象衛星は軍事技術でもあった)。

なお、数値予報の実用化研究はもともと米国では軍と気象局が関与したプロジェクトとして始まった。気象の軍事的な重要性から、一時期は軍が予報や観測を独自に行っていたが、むしろ軍以外の方が効率的で発展が早かったことから、徐々に軍でも民生用予報の利用が主流となり、現在では軍による気象活動は特殊なものに限られている。

また気象における変分法は、その応用として気象レーダーの解析にも用いられている。ドップラーレーダー観測や竜巻予報についても、変分法がその実用化を大きく促進した [2]。さらにデータ同化は、コンピュータサイエンスにも影響を及ぼし、オクラホマ大学の工学部のコンピュータサイエンス部では、データ同化の講義が行われている [3]。

気象の顕著現象の研究

佐々木嘉和はオクラホマ大学で竜巻などの気象の顕著現象の研究を進めるとともに、同大学の教授陣の確保に大きな役割を果たした。今日、オクラホマ大学の気象学研究学科は全米でも有数の規模を誇っており、雷雨や悪天候の理解と予測に関する研究で国際的にも知られている。彼は、1974年に優れた研究教授としてジョージ・リン・クロス教授の称号を授与された。佐々木嘉和は、同大学で最初にこの称号を得た一人である。なお、ジョージ・リン・クロスは植物学の教授で同大学の優れた学長だった。

オクラホマ大学のホルンバーグホール
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HolmbergHall2.jpg

オクラホマ大学は1980年に米国海洋大気庁(NOAA)と共同でメソスケールの気象の共同研究所を創設した。そして、佐々木嘉和がその所長となった。彼は2000年に日本気象学会の藤原賞を受賞したほか、研究分野での卓越した功績が評価されて、米国気象学会(AMS)のフェローに、2014年には同学会の最高栄誉である名誉会員となった。

若手研究者の育成

佐々木嘉和は多くの大学院生を指導し、修士号や博士号を取得させた。教育者としての彼の重要な役割の一つは、学生が自分の力で成功しようとするのを積極的に支援することだった。彼はすべての学生を、学問的にも人格的にもしっかりとした形で支援した。その結果、彼の講座からは53人の修士号取得者と19人の博士号取得者を輩出した。そして、その多くがその後素晴らしい業績を上げている。

佐々木嘉和の教え子であり、気象学者であるジョン・ルイスは、「佐々木は科学者であると同時に哲学者であり、学生の能力を引き出す術を心得ているソクラテス的な学者・教師であったと思う。質問し、説教せず、語らず、ただ提示し、そして学生に好きなようにやらせる。」と述べている [4]。その教育的功績が認められ、佐々木嘉和は2004年に「オクラホマ高等教育殿堂(Oklahoma Higher Education Hall of Fame)」入りを果たした。

また、佐々木嘉和の先駆的な功績を称えて、アジアオセアニア地球科学学会では、2009年から彼の名前を冠した「Sasaki Symposium in Data Assimilation for Atmospheric, Oceanographic, and Hydrological Applications」という国際シンポジウムを開催している。このシンポジウムは、地球科学分野のデータ同化への変分法の適用を焦点にしている。このシンポジウムは、これまでタイ、韓国、インド、台北、シンガポール、オーストラリア、そして日本で開催されて、多くの成果を上げている。

日米の産官学連携の推進

また佐々木嘉和は気象学の発展だけでなく、研究者としては珍しく地元の産業と日本の産業を結びつけることにも大きく貢献した。

佐々木による産業界との連携は、まずオクラホマ大学を支援する形で行われた。彼は、オクラホマ大学への3つの寄付講座(日立、旭硝子財団、ウェザーニューズの名を付したそれぞれの講座)の設立に尽力した [5]。また、日立製作所の製造工場、アステラス製薬、TDK、ウェザーニューズなどの日系企業のオクラホマへの誘致にも大きな役割を果たし、多くの地元の人々の生活にも密着した活動を行った [5]。

さらに、日本オクラホマ協会を設立し、オクラホマ州と日本との間に姉妹校や姉妹都市を提携することに貢献した。京都府、栃木県、秋田県などにオクラホマ州の都市との姉妹都市があり、また日本の数多くの中学校、高校、大学が、オクラホマにある学校との姉妹校となっている。

彼は、日本とオクラホマ州の文化振興、経済発展、学術交流への多大な貢献が認められ、オクラホマ州知事から「ヨシ・ササキの日」という形で2回表彰された。また彼は日本外務省から「日本名誉総領事」に任命された [5]。

まとめ

戦後すぐから、気象学、気候科学の分野では、多くの日本人が活躍してきている。その中でも真鍋淑郎は地球温暖化の将来予測を通して気候科学を変えた。荒川昭夫はモデリング技術を通して気候モデルを変えた。笠原彰は気候モデルプログラムのオープンソース化を通して気候モデルの文化を変えた。

そして、佐々木嘉和は、変分法を通して数値予報と過去に対する気候科学を変えた。また、文化・経済交流を通して、オクラホマ州の日本への見方を変えたといえるかもしれない。何れも気象学者であるが、その活躍は気象学の分野を超えている。今後もそういう世界で活躍する日本出身の気象学者が出てくることを期待したい。

(つぎは「日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(1)」)

参照文献

1. XuLiang. Yoshi's NRL Monterey Connection. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

2. Gao Jindon. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

3. Lakshmivarahan S. Reminiscences on Dr. Yoshi Sasaki. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

4. Lewis John. My Teacher. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

5. Memorial services planned May 9 for OU weather pioneer Yoshi Sasaki. (オンライン) 2015. https://www.normantranscript.com/news/local_news/memorial-services-planned-may-9-for-ouweather-pioneer-yoshi-sasaki/article_504a0f27-ae5f-524b-82b2-cc84707beb31.html.



2023年1月17日火曜日

風神と雷神

古今東西、昔は大風や雷は神様が起こすものと思われていた。そして、それを引き起こす風神と雷神は、俵屋宗達の風神雷神図が有名である。風袋を持つ風神と太鼓を叩く雷神である。この風神と雷神は日本人と相性が良かったようで、尾形光琳や酒井抱一によっても再描写されている。

俵屋宗達の風神雷神図

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%A5%9E%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E5%9B%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Wind-God-Fujin-and-Thunder-God-Raijin-by-Tawaraya-Sotatsu.png)

天人相関説と気象学(2) 日本での天人相関説 」で述べたように、9世紀後半から10世紀にかけては、災害や怪異を天の譴責ではなく神・怨霊の崇りと見なす傾向が朝廷内で強まった。その頃から天神信仰の一環として風神雷神があったようで、北野天神縁起絵巻にも太鼓を持った雷神が描かれている。

また、このような風神雷神は仏像(正確には眷属像だが)にも残っている。その像としては三十三間堂の風神と雷神が有名だろう。これは鎌倉時代の作と考えられており、国宝となっている。なお、博多の櫛田神社の拝殿の破風に木彫りの風神と雷神がある。櫛田神社の創設は天平時代と古いが、現在の社殿は豊臣秀吉によって造営された。

 櫛田神社の雷神

 

櫛田神社の風神

この風袋を持つ風神と太鼓を叩く雷神という形はどこが起源なのかは、はっきりとはわからない。シルクロードのタクラマカン砂漠の仏像の絵にも風神と雷神が描かれているが、その形は日本のものと大きく異なっているそうである。雷神はなぜか鶏と関係があったらしく、鶏に似た怪の姿の雷や獣との間の子みたような奇怪な雷などいろいろあるらしい[1]。

さらに、西洋の風神と雷神は日本とはだいぶ趣が異なるようである。ギリシャ神話の風神アイオロスは、袋を持った神である。ホメーロスの長編叙事詩「オデュッセイア」において、トロイ戦争後ポセイドンの怒りを買って放浪していたオデッセウスは、アイオロス島(エオリア島と記すこともある)に漂着した。風神アイオロスから西風とそれ以外の風を別々に詰めた袋をもらい、西風を詰めた袋を開けることによって無事帆船で故郷イサカに帰着できそうになる。ところが、袋に宝物が入っていると思った乗組員が他の風が入った袋を開けたため、逆風によってアイオロス島に舞い戻ってしまうのは有名な話である。

また、アテネにある風の塔にはそれぞれの風向によって8つの風神が彫られているが、彼らのいくつかは袋のようなものを持っている。しかし、西洋の風神には、むしろ口から風を吹く神の像も多い。


風神アイオロス

一方で、西洋の雷神はゼウスであり、稲妻は彼が放つ矢である。また北欧ではトール(またはソー: THOR)という雷の神も知られている。

雷神トール

(https://en.wikipedia.org/wiki/Thor#/media/File:M%C3%A5rten_Eskil_Winge_-_Tor's_Fight_with_the_Giants_-_Google_Art_Project.jpg)

雷の象徴は西洋では稲妻であるのに対して、日本では雷鳴である太鼓であることは対照的である。日本の大太鼓は直径が数メートルになるものもあり、西洋のドラムよりはるかに大きく、ズシーンと響く音に迫力もある。また、日本では祭りというと大小の太鼓が使われることが多い。日本人は太鼓の音が好きなのだろうか?日本の雷神が太鼓を持っていることは、そういうこととも関係があるのかもしれない。

(次は「データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和」)

参照文献

[1]中谷宇吉郎, 雷神, 中谷宇吉郎随筆選集第三巻, 1966


2022年11月16日水曜日

風船爆弾(10)

 10    まとめとその後

風船爆弾は当時欧米ではほとんど知られていなかった高高度の高速気流(ジェット気流)という気象を利用するという卓抜なアイデアの兵器だった。風船爆弾は1. 概略と戦前の構想で述べたように、大陸間をまたいで攻撃できる世界初の兵器といえなくもないが、行き先は風任せであり、大陸間浮遊漂流兵器とでも呼べようか?

風船爆弾は、当時の日本が戦争末期にアメリカ大陸を直接攻撃してアメリカ国民を威嚇できる唯一の手段だった。アメリカ軍が対抗手段を取ったという意味では、この威嚇はそれなりに効果を発揮したといえるかもしれない。

ただ費用対効果という点でいえば議論があろう。このプロジェクトは、当時の日本の産官学を総動員した大規模な国家的プロジェクトだった。風船爆弾の開発費を除いた製造コストは1個1万円だった [11]。量産が進むともう少し安くなったようであるが、女生徒を含む作業者たちにまともな賃金が支払われた上でのコストだったのかどうかはわからない。

当時最新鋭の精密兵器である酸素魚雷が1本5万円と言われていた。風船爆弾を9000個の製造にかかった9000万円という費用は、価格だけ見ると大型の最新鋭空母に匹敵する(翔鶴級航空母艦の建造費は1隻約8500万円である)。

兵器が持つ残虐性は別としても、1トン爆弾を積んたドイツのV2ロケットによる攻撃をイギリス国民が耐え忍んでいた時期に、国家的大規模プロジェクトとして、35kgの爆弾を積んだ風任せの風船爆弾でアメリカ国民に恐怖を与えようという大本営の判断は、戦略的効果として、あるいは国民の労力からみて合理的なものだったのだろうか? 

風船爆弾を用いた攻撃は4月で終了した(予定では3月)。これはそれ以降は気流が適しなくなることが多いのと、手持ちのストックを使い果たしたためと思われる(既述したように一部で製造は続けられたようである)。しかし、アメリカは当時日本上空の強い西風が夏季には起こらないことを知らなかった(ジェット気流が気象学上のテーマとして出てくるのは戦後である)。

5月以降は攻撃が止まったにもかかわらず、アメリカでは8月まで大量の設備と人員を割いて、捜索と迎撃のための対応を続けた [1]。それでも、それらはアメリカの膨大な戦力から見ると微々たるものだったろう。

風船爆弾による攻撃は第二次世界大戦中に行われたが、この話は決して過去のものになったわけではない。例えば現在でも日本国内で第二次世界大戦中にアメリカ軍が投下した爆弾の不発弾がときおり発掘されている。一昔前までは浚渫船が日本近海で海底の機雷をひっかけて爆発し、犠牲者が出たこともあった。

同様に、風船爆弾の落下位置がすべて特定されているわけではなく、今後もアメリカで落下した風船爆弾が発見される可能性がある。1955年にアラスカで発見された風船爆弾の爆弾はまだ爆発力があることが確認されている [1]。今後も、1945年5月5日にオレゴン州ブライで起こったような事故が起きないとは断言できないだろう。


スミソニアン協会の芸術産業館の後方に展示してある日本の風船爆弾。これは太平洋を横断した後、1945年3月13日にオレゴン州エコーで回収されたもの。展示されている他の歴代の気球と比べてその大きさがわかる。[1]より。
(このシリーズ終了:次は風神と雷神

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.

2022年11月13日日曜日

風船爆弾(9)

 9 アメリカでの被害と報道

9.1 風船爆弾による被害

アメリカでは、1944年11月4日から1945年8月8日までに、120個の回収を含む285件の風船爆弾に関する事件が記録された。それらの内訳は風船爆弾の回収が32件、目撃されたが回収されなかったものが20件。風船爆弾の爆発に関連するもの件が28件。そしてその他の関連事件が85件だった [1]。風船爆弾に関する事件は1992年までに361件に増加している [3]。

アメリカとメキシコでの風船爆弾の発見か所(285か所)。アラスカなどは除く。東はミシガン湖の東まで、南はメキシコのアメリカとの国境付近まで到達したものがあることがわかる(クリックすると拡大する)。 [1]による。

風船爆弾による被害の中でもっとも悲劇的なものは、オレゴン州ブライで1945年5月5日に起こった。アーチー・ミッチェル牧師夫妻が自身と近所の 5 ⼈の⼦供を連れて山にピクニックに行ったときに、妻が木に引っかかった気球のようなものを発見して夫を呼んだ。

離れていた夫は風船爆弾の話を知っており、近寄らないように言おうとしたが、⼦供の1⼈が⽊から気球を下ろそうとして爆弾が爆発した。妻と子供の計6人がほぼ即死した。これはアメリカ大陸における民間人の唯一の戦争犠牲者となった。現在、そこには慰霊碑が立っている。

オレゴン州ブライの近くにあるミッチェル・レクレーション・エリアにある日本軍の風船爆弾で亡くなった6人の慰霊碑。

もう一つの顕著な被害は、送電線に風船爆弾が引っかかったためのワシントン州ハンフォードの原子爆弾製造工場での一瞬の停電だった。原子炉は常時冷却しておく必要があり、そのためには常時電力が必要であった。ただ、停電に対しては何重もの防護策が施してあり、問題は起こらなかった。しかし、工場の復旧には3日かかった。この停電は、その防護策の効果の確認になった [1]。それら以外には、2件の小規模な森林火災が記録されている。

9.2 風船爆弾に関する報道

アメリカの当局の懸念は、風船爆弾によるいつ、どこに落下して、どういう効果を及ぼすのかわからない恐怖が、国民に及ぼす影響だった。ちょうどドイツのV2ロケットがイギリスを攻撃し、その飛距離が伸びてアメリカの都市に落下するかもしれないという不安が高まりつつあったところだった。一方で日本軍による1944年秋から始まった神風特攻は、日本軍が新兵器でどこまでやるのかという意味で、さらなる恐怖を与えていた。

アメリカの歴史上初めて、アメリカ大陸が敵の持続的な空襲を受けていることを知ったとき、国民はどのような心理的反応を起こすだろうか。静かに動く無数の風船爆弾が無差別に家や工場に爆弾を落とすと考えたら、国民はどんなパニックになるだろうか。搭載物は生物兵器である可能性もあった。これらの脅威は潜在的な現実だった。米国政府の責任ある対応は、この新しい脅威についてできるだけ多くを語らず、現地の不安を和らげることだった。

日本では、どの程度の数の風船爆弾がアメリカに到達し、それがどういう影響を与えているかを報道によって知ろうとした。しかし、1945年1月4日にアメリカの検閲局は、新聞社やラジオ局に対して風船爆弾について一切の報道をしないよう要請した。これは自主的な要請であったが、この要請は報道の自由が認められているアメリカにおいて驚くべき自主性を持って協力が行われた。

しかし、その前の1944年12月に中国の新聞「タクンパオ」がアメリカの情報を拾って報道した。これを12月18日付けの朝日新聞が掲載した。それによる記事は次のようになっている [16]

日本文字の記された巨大な風船爆弾が、去る12月11 日、モンタナ州カシスペル付近の山岳地帯に落下しているのが発見された。風船爆弾は良質の紙製で迷彩が施され、その直径33フィート、容積1万8000立方フィート以上で、800ポンドの搭載能力があると推定される。風船爆弾の側面には自動的に気球を爆破するためか、爆薬が装置されてあった。

これを知った日本軍の上層部は、とりあえず構想に間違いがないことを確認できたことを喜んだ。しかし、入手できた情報はこの一つだけだった。この情報の少なさは、日本軍に風船爆弾の効果についての疑問を起こさせたようである。「ふ」号兵器の責任者だった草場少将は、風船爆弾の効果を疑問視するメモを残している [3]。

日本側は神経戦を仕掛けた。1945年2月17日に日本は同盟通信社を通して米国向けに放送を行った。それは、風船爆弾によって米国で500人(1万人という報道もある)の死傷者が出て、多数の火災が発生したという報道だった。そして、このような事態が、日本からの攻撃に対するアメリカ人の安心感を打ち砕いたと強調した。日本の宣伝担当者は、アメリカ国内で恐怖心を煽り、戦力をそぐこの努力を終戦近くまで続けた。また、気球に日本人を乗せた決死の大攻勢が始まるとも宣伝された [1]。しかし、この放送はアメリカで大きな反応を引き起こすことはなかった。

しかし皮肉なことに、報道の自主規制のため、国民に爆弾の危険を警告することが難しくなった。1945年春になっても犠牲者が出なかったので、この自主規制は妥当だったように思われた。しかし、上述の1945年5月5日のオレゴン州ブライでの事件が犠牲者を出した唯一の事件となった。

この悲劇的な事故を受けて、政府は報道抑制のキャンペーンを断念した。5月22日に陸軍と海軍の共同声明が発表され、風船爆弾の性質が説明され、そのようなものを見つけても決して触れないようにとの警告が出された。そこでは、風船爆弾は「散発的で無目的」であるため、米国にとって深刻な軍事的脅威とはならないとされた。森で見つけた奇妙な物体に手を出すと危険であるという子供向けのキャンペーンが直ちに開始された [1]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.


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2022年11月9日水曜日

風船爆弾(8)

 8 アメリカによる風船爆弾の探知と迎撃システムの構築

8.1 レーダーによる風船爆弾の探知

風船爆弾を迎撃するためにはレーダーによる探知が考えられた。専門家の意見は、気球の金属のガス放出弁はレーダーに映るが気球そのものは映らない。高度3000mでは探知できる可能性はわずかにあったが、それ以上の高度では不可能であろうというものだった。いったい風船爆弾をどの程度レーダーで捕捉できるのかについての実験が必要だった。

まずは1945年2月14日、チェサピーク湾でアメリカ製のZMK気球に風船爆弾と同程度の金属製反射板をとりつけたものをモーターボートで引いて実験が行われた。これは簡単に移動して使用できる対船舶用のレーダーを用いて行われたが、モーターボートの反射の方が大きく、実験は失敗した [1]。

次に1945年2月20日に回収した日本製の気球を飛ばして実験が行われた。気球にヘリウムガスを注入すると高度300mまで上昇したが、劣化した表皮から1時間でガスが抜けて落下した。なんとか補修して打ち上げようとしたが、再び短時間で落下して修理不能の損傷を受けた [1]。

2月28日には良好な状態で入手した別なガス放出弁が付いた日本製の気球で実験が行われた。高度300mまで上昇したが、視界が悪い上に秒速30mの風に乗って飛び去ったため、探知実験を行う前に16km先の海上で見失ってしまった。レーダーによる気球の探知実験は何れも失敗した [1]。

8.2 風船爆弾迎撃のための組織的プロジェクト

海上からの異常な無線信号があれば、それは風船爆弾の接近に違いないと考えられた。アメリカ軍では、1944年12月6日から1945年4月中旬までに、風船爆弾が発信したと思われる電波を95回受信した。これは事実上、最も積極的な警戒態勢となった。しかし、実際には一部の飛行実験や経路確認用気球を除いて、風船爆弾には無線発信機が備えられていなかったため、電波の受信は迎撃の助けとはならなかった。さらに、受信した電波も海岸に到達する前に消えてしまった。信号の発信源を特定するための正確な軌跡はほとんど得られなかった [1]。

風船爆弾を組織的に迎撃する試験のために、これと同時に西海岸沿岸に6つの地区に分けてレーダー網を構築するプロジェクトが開始された。これは「サンセットプロジェクト」と呼ばれた。実は戦争末期になると、アメリカ大陸付近での日本軍の活動はなくなっていたため、西海岸の防空のための監視態勢はほぼ完全に停止していた。早期警戒レーダー局のほぼすべてが維持管理のみに置かれ、地上監視団は活動を停止し、情報・監視センターは閉鎖されていた。監視網の再構築には時間がかかった [1]。

西海岸で迎撃を担当していた第4空軍にレーダーなどの機材が到着して設置が開始されたのは4月末だった。風船爆弾捜索用のレーダーが実際に稼働し始めたのは5月7日だった。6月8日にようやく全てのレーダーが稼働を開始した。レーダーが探知した目標や怪しい電波を発する目標は、地上からVHF波による誘導によって戦闘機が目標に向かい、迎撃することになっていた [1]。

風船爆弾の探知に使われたSCR-584レーダー。https://en.wikipedia.org/wiki/SCR-584_radar#/media/File:Exterior_view_of_SCR-584.jpg 16p

しかし、このサンセットプロジェクトは日本軍の風船爆弾の発射が実質的に終わってから開始されたため、レーダーが実際に風船爆弾を捕捉する機会も飛行機が風船爆弾を撃墜する機会もなかった。シアトルの司令部には多くの風船爆弾の目撃情報が寄せられたが、そのほとんどが自国の気象観測気球や飛行船、あるいは気球と間違われることの多い金星であることが判明した。68回の迎撃が試みられたが、実際に迎撃した風船爆弾はなかった。この大規模な資源と労力を投入したプロジェクトが正式に終了したのは、8月1日だった [1]。

8.3 日本での発射場所の特定

西部方面防衛司令官は、より多くの情報が入手可能になるにつれて、風船爆弾は日本本土の東海岸中央部に位置する仙台近辺から放たれたと推定した。発射場所や組み立て工場がわかれば、そこを空襲して破壊することが可能と考えられた。

風船爆弾の発射地点をより詳細に特定するため、軍情報部は米国地質調査所に協力を要請した。アラスカとワイオミングで発見された風船爆弾のバラストの砂のサンプルがそこで分析された。それによると、それは浜辺の砂であり、化石があることから日本の海岸線の最北端の緯度であることが判明した。地質調査所の報告によると、この2つのサンプルの産地は、本州東海岸の塩釜近辺の可能性が最も高かった。次に可能性が高かったのは、東京の南東にある海岸で、これは実際に発射場があった上総一宮だった。

カナダでもバラストの砂で同様の分析を行っていた。その結果、スラグ(製鉄時に出るかす)が検出され、製鉄所の近くの砂であることが分かった。アメリカとカナダ間の緊密な連絡により、発射地点の絞り込みがかなり進んだ [1]。(ただし、実際の日本の発射地点の近くに製鉄所はない)

その結果、日本東部海岸の製鉄所がある地域を選んで航空偵察の指令が出された。1945年5月25日に撮影された航空写真を調査したところ、仙台市の海岸近くに部分的に膨らんだ風船と思われるものが発見された。また3つの組立工場が建設中であり、そのうち2つは仙台市に隣接する飛行場と誘導路で結ばれていた。この付近で唯一厳重に防衛された地域のように見えた。しかし、これらの発見は風船爆弾による攻撃がすでに終了していたためほとんど意味を持たなかった。また戦後の調査から、仙台近郊に風船爆弾の発射場があったという証拠はなく、航空偵察で何が撮影されたのかは疑問のままとなった [1]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.