2022年11月13日日曜日

風船爆弾(9)

 9 アメリカでの被害と報道

9.1 風船爆弾による被害

アメリカでは、1944年11月4日から1945年8月8日までに、120個の回収を含む285件の風船爆弾に関する事件が記録された。それらの内訳は風船爆弾の回収が32件、目撃されたが回収されなかったものが20件。風船爆弾の爆発に関連するもの件が28件。そしてその他の関連事件が85件だった [1]。風船爆弾に関する事件は1992年までに361件に増加している [3]。

アメリカとメキシコでの風船爆弾の発見か所(285か所)。アラスカなどは除く。東はミシガン湖の東まで、南はメキシコのアメリカとの国境付近まで到達したものがあることがわかる(クリックすると拡大する)。 [1]による。

風船爆弾による被害の中でもっとも悲劇的なものは、オレゴン州ブライで1945年5月5日に起こった。アーチー・ミッチェル牧師夫妻が自身と近所の 5 ⼈の⼦供を連れて山にピクニックに行ったときに、妻が木に引っかかった気球のようなものを発見して夫を呼んだ。離れていた夫は風船爆弾の話を知っており、近寄らないように言おうとしたが、⼦供の1⼈が⽊から気球を下ろそうとして爆弾が爆発した。妻と子供の6人がほぼ即死した。これはアメリカ大陸における唯一の民間人の戦争犠牲者となった。現在、そこには慰霊碑が立っている。

オレゴン州ブライの近くにあるミッチェル・レクレーション・エリアにある日本軍の風船爆弾で亡くなった6人の慰霊碑。

もう一つの顕著な被害は、送電線に風船爆弾が引っかかったためのワシントン州ハンフォードの原子爆弾製造工場での一瞬の停電だった。原子炉は常時冷却しておく必要があり、そのためには常時電力が必要であった。ただ、停電に対しては何重もの防護策が施してあり、問題は起こらなかった。しかし、工場の復旧には3日かかった。この停電は、その防護策の効果の確認になった [1]。それら以外には、2件の小規模な森林火災が記録されている。

9.2 風船爆弾に関する報道

アメリカの当局の懸念は、風船爆弾によるいつ、どこに落下して、どういう効果を及ぼすのかわからない恐怖が、国民に及ぼす影響だった。ちょうどドイツのV2ロケットがイギリスを攻撃し、その飛距離が伸びてアメリカの都市に落下するかもしれないという不安が高まりつつあったところだった。一方で日本軍による1944年秋から始まった神風特攻は、日本軍が新兵器でどこまでやるのかという意味で、さらなる恐怖を与えていた。

アメリカの歴史上初めて、アメリカ大陸が敵の持続的な空襲を受けていることを知ったとき、国民はどのような心理的反応を起こすだろうか。静かに動く無数の風船爆弾が無差別に家や工場に爆弾を落とすと考えたら、国民はどんなパニックになるだろうか。搭載物は生物兵器である可能性もあった。これらの脅威は潜在的な現実だった。米国政府の責任ある対応は、この新しい脅威についてできるだけ多くを語らず、現地の不安を和らげることだった。

日本では、どの程度の数の風船爆弾がアメリカに到達し、それがどういう影響を与えているかを報道によって知ろうとした。しかし、1945年1月4日にアメリカの検閲局は、新聞社やラジオ局に対して風船爆弾について一切の報道をしないよう要請した。これは自主的な要請であったが、この要請は報道の自由が認められているアメリカにおいて驚くべき自主性を持って協力が行われた。

しかし、その前の1944年12月に中国の新聞「タクンパオ」がアメリカの情報を拾って報道した。これを12月18日付けの朝日新聞が掲載した。それによる記事は次のようになっている [16]

日本文字の記された巨大な風船爆弾が、去る12月11 日、モンタナ州カシスペル付近の山岳地帯に落下しているのが発見された。風船爆弾は良質の紙製で迷彩が施され、その直径33フィート、容積1万8000立方フィート以上で、800ポンドの搭載能力があると推定される。風船爆弾の側面には自動的に気球を爆破するためか、爆薬が装置されてあった。

これを知った日本軍の上層部は、とりあえず構想に間違いがないことを確認できたことを喜んだ。しかし、入手できた情報はこの一つだけだった。この情報の少なさは、日本軍に風船爆弾の効果についての疑問を起こさせたようである。「ふ」号兵器の責任者だった草場少将は、風船爆弾の効果を疑問視するメモを残している [3]。

日本側は神経戦を仕掛けた。1945年2月17日に日本は同盟通信社を通して米国向けに放送を行った。それは、風船爆弾によって米国で500人(1万人という報道もある)の死傷者が出て、多数の火災が発生したという報道だった。そして、このような事態が、日本からの攻撃に対するアメリカ人の安心感を打ち砕いたと強調した。日本の宣伝担当者は、アメリカ国内で恐怖心を煽り、戦力をそぐこの努力を終戦近くまで続けた。また、気球に日本人を乗せた決死の大攻勢が始まるとも宣伝された [1]。しかし、この放送はアメリカ人に大きな反応を引き起こすことはなかった。

しかし皮肉なことに、報道の自主規制のため、国民に爆弾の危険を警告することが難しくなった。1945年春になっても犠牲者が出なかったので、この自主規制は妥当だったように思われた。しかし、上述の1945年5月5日のオレゴン州ブライでの事件が犠牲者を出した唯一の事件となった。

この悲劇的な事故を受けて、政府は報道抑制のキャンペーンを断念した。5月22日に陸軍と海軍の共同声明が発表され、風船爆弾の性質が説明され、そのようなものを見つけても決して触れないようにとの警告が出された。そこでは、風船爆弾は「散発的で無目的」であるため、米国にとって深刻な軍事的脅威とはならないとされた。森で見つけた奇妙な物体に手を出すと危険であるという子供向けのキャンペーンが直ちに開始された [1]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.


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