5 作戦の計画と実施
5.1 計画
陸軍登戸研究所で風船爆弾の開発を担当していた草場季喜(くさばすえき)少将は、1944 年2 月に気球の表皮材料についての見通しがついたことから、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃は不可能ではないとの結論を出した。所長の篠田鐐中将は陸軍兵器行政本部長に風船爆弾の研究経過を報告し、未解決の課題を解決するために各陸軍技術研究所などや軍部外科学者の協力が必要であることを進言した。これは受け容れられた [12]。
1944年4月に陸海軍の連絡会議が東京都若松町の兵器管理局で開かれた。この会議で、海軍のB型風船爆弾の製造には必要な資源や資材を大量に必要とするため、その大量生産は現実的ではないとの結論に至った。そして海軍の研究は中止され、風船爆弾の研究は陸軍に一本化された [3]。そのためB型の生産は300個にとどまった [1]。これも予定数だった可能性があり、実際に製造されて使われた数はわからない。しかし後述するアメリカが初めて拾った風船爆弾を含めて、B型はアメリカで3個が確認されている [3]。
この会議の直後、風船爆弾は「ふ」号兵器として正式に研究の認可を受けることになった。この兵器開発に200万円の予算が割り当てられた。草場少将を中心とする登戸研究所の研究班が飛行実験を担当するとともに、他の各研究所の計画を調整・実施し、計画全体の中心を担った [12]。
1944年7月、マリアナ海戦の敗退とサイパン島の失陥により、日本は窮地に置かれた。これを挽回するのは容易ではなく、戦局逆転のためのさまざまな「決戦兵器」が検討された。しかし、1944年9月段階で実戦での使用の見通しが立ったのは「ふ」号兵器だけだった。
風船爆弾の発射を行うために、選りすぐりの精鋭約3800名からなる気球連隊が組織された。連隊長は井上茂大佐で連隊本部は茨城県大津に置かれた。気球連隊は、3か所の発射基地(大津、上総一宮、勿来(なこそ))にそれぞれ対応する3大隊からなった。気球連隊は、それ以外に通信隊、気象隊、連隊材料敞、試射隊、既述の標定所を管理する標定隊からなった [4]。杉山元陸軍大臣は1944 年9月8 日に気球連隊の臨時動員を発令した [2]。
当初は風船爆弾に細菌を積むことも検討された。しかし、当時効果的と考えられたペスト菌などは、成層圏の-50℃という環境に長時間は耐えられないことがわかった。そのため、成層圏の環境に耐えられる牛疫ウィルスの研究と生産が始まった [15]。しかし、細菌兵器を用いれば、当然生物兵器による報復が想定された。1944年7月まで日本軍は中国で毒ガスや細菌戦を行っていて、アメリカからそれらの使用に対して報復の警告を受けていた [14]。そのためか細菌兵器の風船爆弾への搭載は行われなかった。
5.2 製造
1944年7月には製作方法が確立され、8月から一部生産を開始した。10月には各地の造兵廠管下にある製造所に製造命令が下さて本格的製作が開始された [8]。この気球の製作には多くの日本人が参加した。これに最も大きな力を発揮したのは、なんといっても女学校とその生徒たちだった。当時国家総動員法があり、1939年には国民徴用令が制定された。それに基づいた学徒勤労動員令や女子挺身勤労令によって風船爆弾の製造に限らず生徒たちは各種作業に徴用された。
多数の女子高校生が風船を貼ったり縫ったりする繊細な作業に動員された。 [1]より
各地の造兵廠だけでなく、全国約100 校の女学校で気球本体の製造や風船爆弾用の爆弾作りがおこなわれた
[15]。また各造兵廠での作業にも多くの生徒が駆り出された。戦時中は学校の授業時間は短く、後になると授業は中止され、生徒たちは作業に専念した。しかし、この制作物がどのような用途に使われるのか、公式には知らされなかった
[1]。多くの場所では、1945年の3月まで交代での24時間作業で製作が行われた。
まず学校の中に工場が作られ、何枚もの和紙を強度を上げるために貼り合わせる作業が行われた。貼り合わせた和紙は暖めた水酸化ナトリウムやグリセリンなどの軟化剤に浸して柔らかくされた。そうするとそれまでパリッとした紙が厚手のビニールのようにしんなり折りたためるようになったという [15]。
貼り合わせた紙は、乾燥された後に型紙に沿って紡錘状に裁断された。それから1個の気球に600枚の紙を接着して気球の上半球と下半球を作成した。それには90kgのこんにゃく糊が使われた。最後に上半球と下半球がバンドでつなぎ合わされて、1週間から10日ほど乾燥された。風船を組み立てる際に表皮を傷つけないように、気球を製作する少女たちには、ヘアピンをつけない、爪をきれいに切る、真夏でも靴下を履く、手袋をするなどの指導が行われた [8]。
それから先の最終組立と検査は、広い床面積が必要であるため主に軍の工場で行われた。気球に漏れがないかどうかを調べるには、直径10mの気球を膨らませるのに十分な大きさの建物が必要だった。そのためには、大きな劇場や相撲場が理想的であり、軍の工場だけでなく、東京の日劇ホールや 東宝劇場、東京・浅草の国技館なども使われた。これらの建物は床面だけでなく壁面の突起物もすべて紙で覆って、気球の表皮を傷つけないように改修された [1]。
気球の製造や膨張の実験には、大きな競技場と劇場が使われた。そのひとつである東京の下町の日劇ミュージックホール。 [1]よりこの風船爆弾は約9000個が製造された。この製造のために日本中の食卓からこんにゃくが消えた。
なお、多くの学校では風船爆弾の製造は1945年の3月で終わった。しかし、高崎や満州の新京などの一部の学校では8月まで製作していたという [15]。新京で製造していたものは気球の大きさも小さいので、これは対米用の風船爆弾(甲型気球)とは異なる低空有人式の乙型気球 [3]であった可能性がある。しかし、高崎で製造されていた気球の目的ははっきりしない [15]。また、学校によっては紙の貼り合わせなどの作業を続けており、風船爆弾以外の目的で紙の製造が続けられていたのかもしれない。
5.3 作戦の実施
風船爆弾の効果を最大限に発揮させるため、15,000個の風船爆弾を用意することを前提に、以下のスケジュール案で計画が組まれた(比較のため、実際の気球運用を示す) [1]。
1944年 11月 500 700
12月 3,500 1,200
1945年 1月 4,500 2,000
2月 4,500 2,500
3月 2,500 2,500
4月 0 400
合計 15,000 9,300
風船爆弾の発射基地は、福島県勿来(なこそ)、茨城県大津、千葉県上総一宮に設置され、それぞれ発射台の数は12台、18台、12台だった [14]。どの発射台でも1個の気球を飛ばすのに30分から1時間かかった。しかも発射が可能となるのは、晴天で地表の風が比較的弱い日の日出か日没の前後の数時間だけだった。これら3つの施設から打ち上げることができる気球は、合計で1日最大200個と考えられた。打ち上げに適した風が吹くのは、1週間に3-5日しかない。そのため、15,000個の風船爆弾を期間内に打ち上げるのは容易なことではなかった。
9月30日には参謀総長名で攻撃準備命令が下され、10月25日には気球連隊長に対して、攻撃実施命令が下された。この命令では攻撃目的を「米国内部攪乱」とし、この攻撃を「今次特殊攻撃ヲ『富号試験』ト呼称ス」となっている [2]。命令書には1944年11月1日開始となっているが、11月1日に勿来で作業中に自爆用爆弾の爆発により3名が亡くなる事故が起きた。これが関係しているのか気象の関係からなのか不明だが、実際に最初のアメリカ本土に対する風船爆弾の発射が開始されたのは、11月3日の0500時だった。
しかしこの時大津では、爆弾が外れて爆発して3名が死亡する別な事故が起きた [3]。この調査のため作戦はいったん中断され、11月7日から再開された。これらの事故は作業の不慣れによるものとされている。その後は死亡事故は起こらなかった。しかし、想定と異なり発射した風船爆弾が北西に飛んでいき、函館に不時着したものもあった。別に秋田に落下したものもあった [9]。
風船爆弾による攻撃が行われている間、風船爆弾に混ぜてラジオゾンデを搭載した気球が発射されたようである。これに搭載された軽量な無線発信装置は、あらかじめ選択された周波数で継続的に信号を発信した。複数の標定所によるこの信号の受信によって、かなり正確に飛行経路や高度を監視することができた [1]。
発射された風船爆弾は、東方向に約2000kmにわたって追跡され、その結果8時間から10時間はかなり一定の速度を示していることがわかった。この距離を超えると、追跡できずに方向と距離を推測する必要があった。本州の3つの標定所では、遠くの風船爆弾の位置の標定は困難だった。より正確な追跡のために、北海道の北にあるサハリンに標定所が設置され、30時間以上追跡することができるようになった。このような計画によって、日本軍は風船爆弾が米国に到達できることを確信した [1]。
5.4 発射作業
気球の発射(放球)は難しい作業である。ガスを注入して浮力がつき始めると、気球が一気に上昇して急に搭載機器を引っ張り上げるので、その衝撃で搭載機器にダメージを与える恐れがある。そういう場合に備えて、気球本体と搭載機器との間には衝撃緩衝装置がつけられた。直径が10mもある大型の気球は、少しでも風があるとその大きな体は風にあおられて、真横に飛んで樹木に引っかかったり、地面にバウンドしたりする。そのための対策も必要だった。
風船爆弾の発射のために、固定のための19個のアンカーを地面に埋めて、気球を充填する場所を準備した。まずアンカーの輪の中に空の気球を置き、気球の19本の吊索をアンカーにひっかけて気球を固定する。次に水素ガス充填ホースを気球に接続し、気球にガスを充填する。
充填が終わると気球から充填チューブを外し、そこにガス放出弁を装着する。長いロープを気球のスカートのようなバンドに設けられた各穴に通し、地面に打ち込まれたアンカーのフックに引っ掛けた。ロープの反対側は作業員が持った。それから運搬物を気球吊索に装着し、作業員は、持っているロープをゆっくり緩めて運搬物が地上から浮き上がるまで気球を上昇させる。装置等の点検が終わると、上空に達してから機器を動作させるための長い導火線に点火する。そして作業員は、持っていた長いロープを離して気球を発射した。この発射方法は、地表の風が穏やかなときだけ使われた。
風速が1m/sを超えると、次の方法が採られた。まず気球は地面付近に保持され、重しとなる特殊な砂袋を途中に挟んだ長いロープを気球のバンドに通して、このロープを地面のアンカーに固定する。このロープの長さは吊索とほぼ同じである。発射合図とともに、重しの付いたロープをつけたまま風船爆弾は地面からゆっくり上昇する。ロープが延びきると、ロープが張った衝撃でロープ途中の砂袋がちぎれてロープが気球から切り離される。ほぼ同時に吊索に下げられた運搬物が地面から離れて、重しの砂がなくなった気球はその後急速に上昇するという仕掛けだった。
風船爆弾発射時の作業のスケッチ。左は気球にガスの注入を開始したところ、右は気球が膨らんだところ、中央は発射直前である。[1]より
5.5 機密保持
風船爆弾による攻撃は、「どこから誰が放ったか判らない攻撃」が主たる目的とされた。そのため、「ふ」号兵器は極秘にされ、その部品への日本文字の使用は一切禁じられた [9]。製造工場で働く生徒などには通行証が与えられ、それがないと工場へは入れなかった。また、働く生徒たちは、製造しているものや作業に関することの口外は厳禁され、もし口外すれば軍法会議にかけられると脅された。また、作業は分割して行われていたので、生徒たちは自分たちが作っているものが何なのかは、ほとんど知らなかった。
作戦準備命令には「企図の秘匿に関しては厳に注意すべし」と指示されており、またアメリカから発射基地への爆撃を避ける必要があるため、打ち上げの際は非常に厳しい警備体制が敷かれた。気球連隊の要員は狭い一地域から容易なことでは出られなかった。また、農民や漁民の付近への立ち入りを禁止し、付近の鉄道では通過する車両の窓に鎧戸が下ろされた。それでも、風船爆弾が上昇するとそれを見ることを防ぐすべはなかった。しかし、海岸線は人家がまばらであるため、秘匿の問題はそれほど重要とはならなかった [1]。この作戦については、当時はほとんど語られることはなく、飛行の様子も公表されることはなかった。
風船爆弾の目撃者にとって、打ち上げの光景は忘れがたいものだったといわれている。地上から放たれた気球は、高度5000mで完全に膨張するように、地上では水素ガスを6割しか充填していなかった。そのため放出された時は、気球の下側の凹んだ部分と、その周囲からぶら下がっているたくさんの吊索の形状は、巨大なクラゲに非常に似ていた。朝日や夕日に照らされた白色または水色の気球は、その錯覚をより一層引き立たせた。発射要員などの風船爆弾の発射を目撃した人々は、あまりの奇想天外さにアメリカに向かっていることが信じられなかったという [1]。
これほど極秘に管理された風船爆弾だったが、アメリカでは見つかるとそれが日本製であることがすぐにわかった。後述するように最初にアメリカで発見された風船爆弾には、日本語の製造標識がつけられており、製造場所や製造日が記載されていた [3]。これは実験用の気象観測気球だったのか、対応が緩かったのかもしれない。しかし、その後も多数の風船爆弾で、部品につけられた日本語の製造標や検査合格証のようなものが見つかった [1]。風船爆弾には一般の軍需部品も数多く使用されており、そこまで監視の手が回らなかったのかもしれない。また製造に関するものだけでなく、作業者が忍び込ませたと思われるお守りやお札なども見つかった。変わったところでは、アメリカで押収された風船爆弾のバラストの砂中から、絵はがきが見つかった。それは書かれた住所から、山形県に住んでいる小学生が千葉県上総一宮で風船爆弾の発射作業に携わっている父宛に送ったものと思われている [1]。
(つづく)
参照文献(このシリーズ共通)
1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.
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