2022年11月9日水曜日

風船爆弾(8)

 8 アメリカによる風船爆弾の探知と迎撃システムの構築

8.1 レーダーによる風船爆弾の探知

風船爆弾を迎撃するためにはレーダーによる探知が考えられた。専門家の意見は、気球の金属のガス放出弁はレーダーに映るが気球そのものは映らない。高度3000mでは探知できる可能性はわずかにあったが、それ以上の高度では不可能であろうというものだった。いったい風船爆弾をどの程度レーダーで捕捉できるのかについての実験が必要だった。

まずは1945年2月14日、チェサピーク湾でアメリカ製のZMK気球に風船爆弾と同程度の金属製反射板をとりつけたものをモーターボートで引いて実験が行われた。これは簡単に移動して使用できる対船舶用のレーダーを用いて行われたが、モーターボートの反射の方が大きく、実験は失敗した [1]。

次に1945年2月20日に回収した日本製の気球を飛ばして実験が行われた。気球にヘリウムガスを注入すると高度300mまで上昇したが、劣化した表皮から1時間でガスが抜けて落下した。なんとか補修して打ち上げようとしたが、再び短時間で落下して修理不能の損傷を受けた [1]。

2月28日には良好な状態で入手した別なガス放出弁が付いた日本製の気球で実験が行われた。高度300mまで上昇したが、視界が悪い上に秒速30mの風に乗って飛び去ったため、探知実験を行う前に16km先の海上で見失ってしまった。レーダーによる気球の探知実験は何れも失敗した [1]。

8.2 風船爆弾迎撃のための組織的プロジェクト

海上からの異常な無線信号があれば、それは風船爆弾の接近に違いないと考えられた。アメリカ軍では、1944年12月6日から1945年4月中旬までに、風船爆弾が発信したと思われる電波を95回受信した。これは事実上、最も積極的な警戒態勢となった。しかし、実際には一部の飛行実験や経路確認用気球を除いて、風船爆弾には無線発信機が備えられていなかったため、電波の受信は迎撃の助けとはならなかった。さらに、受信した電波も海岸に到達する前に消えてしまった。信号の発信源を特定するための正確な軌跡はほとんど得られなかった [1]。

風船爆弾を組織的に迎撃する試験のために、これと同時に西海岸沿岸に6つの地区に分けてレーダー網を構築するプロジェクトが開始された。これは「サンセットプロジェクト」と呼ばれた。実は戦争末期になると、アメリカ大陸付近での日本軍の活動はなくなっていたため、西海岸の防空のための監視態勢はほぼ完全に停止していた。早期警戒レーダー局のほぼすべてが維持管理のみに置かれ、地上監視団は活動を停止し、情報・監視センターは閉鎖されていた。監視網の再構築には時間がかかった [1]。

西海岸で迎撃を担当していた第4空軍にレーダーなどの機材が到着して設置が開始されたのは4月末だった。風船爆弾捜索用のレーダーが実際に稼働し始めたのは5月7日だった。6月8日にようやく全てのレーダーが稼働を開始した。レーダーが探知した目標や怪しい電波を発する目標は、地上からVHF波による誘導によって戦闘機が目標に向かい、迎撃することになっていた [1]。

風船爆弾の探知に使われたSCR-584レーダー。https://en.wikipedia.org/wiki/SCR-584_radar#/media/File:Exterior_view_of_SCR-584.jpg 16p

しかし、このサンセットプロジェクトは日本軍の風船爆弾の発射が実質的に終わってから開始されたため、レーダーが実際に風船爆弾を捕捉する機会も飛行機が風船爆弾を撃墜する機会もなかった。シアトルの司令部には多くの風船爆弾の目撃情報が寄せられたが、そのほとんどが自国の気象観測気球や飛行船、あるいは気球と間違われることの多い金星であることが判明した。68回の迎撃が試みられたが、実際に迎撃した風船爆弾はなかった。この大規模な資源と労力を投入したプロジェクトが正式に終了したのは、8月1日だった [1]。

8.3 日本での発射場所の特定

西部方面防衛司令官は、より多くの情報が入手可能になるにつれて、風船爆弾は日本本土の東海岸中央部に位置する仙台近辺から放たれたと推定した。発射場所や組み立て工場がわかれば、そこを空襲して破壊することが可能と考えられた。

風船爆弾の発射地点をより詳細に特定するため、軍情報部は米国地質調査所に協力を要請した。アラスカとワイオミングで発見された風船爆弾のバラストの砂のサンプルがそこで分析された。それによると、それは浜辺の砂であり、化石があることから日本の海岸線の最北端の緯度であることが判明した。地質調査所の報告によると、この2つのサンプルの産地は、本州東海岸の塩釜近辺の可能性が最も高かった。次に可能性が高かったのは、東京の南東にある海岸で、これは実際に発射場があった上総一宮だった。

カナダでもバラストの砂で同様の分析を行っていた。その結果、スラグ(製鉄時に出るかす)が検出され、製鉄所の近くの砂であることが分かった。アメリカとカナダ間の緊密な連絡により、発射地点の絞り込みがかなり進んだ [1]。(ただし、実際の日本の発射地点の近くに製鉄所はない)

その結果、日本東部海岸の製鉄所がある地域を選んで航空偵察の指令が出された。1945年5月25日に撮影された航空写真を調査したところ、仙台市の海岸近くに部分的に膨らんだ風船と思われるものが発見された。また3つの組立工場が建設中であり、そのうち2つは仙台市に隣接する飛行場と誘導路で結ばれていた。この付近で唯一厳重に防衛された地域のように見えた。しかし、これらの発見は風船爆弾による攻撃がすでに終了していたためほとんど意味を持たなかった。また戦後の調査から、仙台近郊に風船爆弾の発射場があったという証拠はなく、航空偵察で何が撮影されたのかは疑問のままとなった [1]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.

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