2023年2月4日土曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(1)

 1. はじめに

日本での暴風警報と天気予報などの気象事業は、他の政府の制度や産業と同様に明治時代に開始された。それらそれぞれの発達に物語があるように、気象事業の生誕と発達にも物語がある。ただ気象事業の場合は、明治政府の当初の制度設計に組み込まれていたものではなかった。外国人による提言を新規に採用する形で始まった。

また、その事業の性格からして、まず点で設立してそれを面的に広げていくという形は取れなかった。つまり、最初から日本全土を対象としたシステムが必要であったため、まずその構築を迫られた。そして当時の日本にはそのシステム設計を行える人がいなかったため、一人の御雇い外国人にその構築を全面的に頼ることから始まった。

明治期の気象事業については、まず当時の海運の状況から始まる。幕末まで大船の建造は禁止されていた日本は、島国ということもあって、明治維新後に当時の産業振興によって海運が急激に増加した。しかし、船の安全な運航のための知識を持った人だけでなく、多数の船のための港のインフラや情報網も追いつかなかったと思われる。船舶の遭難は少なくなかった。明治7年には船舶数431,983艘のうち、難破または漂流した船舶は1199艘に上った [1]。

御雇い外国人によって日本の近代化が進められていくと、それらの人々の中から欧米のように電信を用いた船舶向けの暴風警報体制の構築を進言する者が出てきた。ところが、日本では幕府が19世紀初めから天文観測の補正のために気象観測を行っていたものの、船舶の遭難防止のための組織的な気象観測と警報体制の構築については全く経験がなかった。

幕府の天文方で行われていた気象観測のような1か所での観測は、測定器を整備してその取り扱い方さえわかれば行うことができる。しかし、暴風警報体制という組織的な気象事業には、各地の気象観測地点を設立し、それらを結んでその観測結果を瞬時に1か所に収集するためのネットワークと観測結果を定期的に分析する中心施設というインフラストラクチャの構築を必要とする。

しかもそれだけではなく、各地で行う観測時刻の同時性や観測単位などの一様性を確保するために、当時未発達だった統一された時刻や度量衡という社会インフラストラクチャの整備の一部も合わせて行う必要があった。さらに統一された測定方法という全国の多くの従事者への指示・教育も必要だった。そう考えると、組織的な気象事業を行うためのそれらの整備は、国家を挙げた一大事業であったことがわかる。

明治政府は、とりあえずいくつかの測候所を設立したものの、そこから先に具体的に何をすべきかのグランドデザインを描ける人はいなかったようである。それを行ったのはドイツ人のエルヴィン・クニッピングだった。

彼の日本の気象事業に対する熱意あるまじめで誠実な取り組みによって、日本の気象事業は比較的早期に実現したと言っても過言ではないだろう。そのことはあまり知られていないのではなかろうか?

日本での気象事業の開始については、本書の「7.近代日本での気象観測と暴風警報」に記述した。ここではそれらの設立に大きな役割を果たした御雇いドイツ人エルヴィン・クニッピングによる明治期の日本の気象事業の立ち上げについて補足する。

2. 明治初期の日本の気象観測を巡る状況

日本では、明治6年5月にイギリス人技師ジョイネルの建議により、東京で気象観測を行うことが決まった。そして工部省測量司によって気象測器一式(地震計を含む)のイギリスへの発注が行われ、それらは赤坂の葵町3番地に設置されることになった。

ところがこの観測の目的はよくわからない。そもそも気象学そのものが知られていなかった。突然にこの話を聞かされ、後にこの気象観測の主任となった三等技手の正戸豹之助は、当時出張先で「初めて気象学なる語を耳にしたるは京都出発の際にして、何の事やら解する能はず。当時之を同僚の先輩に問ひたるも亦知る人なかりき(元はカタカナ)」と述べている [1]。

そういう中で始める気象観測は、欧米と同じようなことをやっているという国家としての体裁を整える意味があったのかもしれない。欧米のように、気象情報はいずれは産業や国民健康のための基礎情報になるという考えもあったかもしれない。ともあれ、明治8年(1875年)6月1日に組織改編された内務省測量司で気象観測が開始された(東京気象台とも称された)。そして、観測結果は横浜の英字新聞に掲載された。

赤坂葵町(現在の東京都港区虎ノ門2-10 ホテルオークラのあたり)の気象観測施設
(気象庁提供)

当時の日本は蒸気船を持つのが一種の流行になっていたようである。そして、日本人の所有者や乗組員が機関の取扱いを習得し、航海術を体験したと自信を持って乗組んだ船が、いざ海へ出ると直ちに暗礁や砂州で座礁したりすることが多かったらしい [2]。クニッピングも測候所設立のために後に日本各地を海路で旅行した際、「小さくて蟻装もお粗末、そのうえ拙劣な操舵術によって導かれた沿岸航路の船旅は、今までに経験した最も危険なものであった。」と述べている [3]。

いずれにしても周囲を海に囲まれた日本では、海運の安全確保は最重要事項の一つであり、それには気象も大きく関係している。まず御雇い外国人から、「電報を使ってまだ暴風が到達していないところに暴風の到来を知らせることができれば船舶とその人命の被害を軽減できる」という海難の防止、軽減のための欧米のような暴風警報の必要性の声が上がった。

最初に声を上げたのが、政府が雇い入れて地質や鉱山の調査を行っていたアメリカ人アンチセルで、明治5年(1872年)9月に暴風警報必要性の提言を行った。明治7年(1874年)11月には同じアメリカ人ライマンが、そして明治9年(1876年)5月にはイギリス人のジョイネルも暴風警報の必要性の提言を行った [1]。

しかし、必要性がよく理解されなかったのか、政府組織がまだ十分に固まっていなかったためなのかはよくわからないが、彼らの提言は受け入れられなかった。もしこの時彼らが主導する体制整備が行われていれば、日本の気象事業は全く異なった形になっていたかもしれない。

明治10年(1877年)に、組織名を測量課に変えて気象観測を行っていた内務省測量課課長の荒井郁之助は、内務卿大久保利通の承認を得て、内務省直轄の測候所を各地に設置して暴風警報の発表を行う方針を打ち出した [4]。これらの地点選定に当たっては、電信線が近くに来ていることと海から来る台風などの暴風を捉えるために海岸に近いことが条件だった。

ちなみに、この測候所の「測候」という名称は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェル(彼は天王星を発見した天文学者ウィリアム・ハーシェルの息子である)が書いた「Meteorology(気象学)」という本をアメリカ人が中国で翻訳した際にこの字を充て、それが日本に入ってきたとされている [1]。

明治11年から明治15年(1878年から1882年)にかけて内務省地理局は長崎、新潟、野蒜(宮城県)に直轄の測候所を設置した。地理局の呼びかけに応じて、県などの地方政府も広島、和歌山、京都、青森、金沢、高知、大阪に測候所を設置し、北海道開拓使も既にある函館、札幌に加えて留萌、根室、増毛に測候所を開設した。

しかし、暴風警報の実現には他にも様々なことが必要だったにも関わらず、暴風警報の体制整備は測候所開設だけで行き詰まってしまった。そういう状況の日本において暴風警報体制の設立を提言し、実際にそれを実現させたのはドイツ人クニッピングだった。

(つづく)

参照文献

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.


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