2023年2月9日木曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(3)

 4.    クニッピングによる暴風警報の準備(2)

4.1    気象電報の利用

クニッピングは前項の経緯で明治15年(1882年)1月から内務省地理局に採用され、暴風警報体制を整備することを任された。彼は測候所をさらに8か所(鹿児島、宮崎、下関、境、浜松、沼津、宮古、秋田)増やすように進言した。しかしそれだけでなく、日本全国の気象状況を把握するための組織的な観測網による「統一された観測」と、電報を使って観測結果を「速やかに1か所に集める体制」とその全国からの観測結果を「解析する組織」を新しく設立する必要があった。

暴風警報体制の構築にはいくつかの課題があった。最初の課題は電報の高額な使用料だった。気象状況を監視するためには、多数地点の気象状況を電報を用いて迅速かつ定期的に収集する必要があった。欧米でも組織的な警報や天気予報が始まったのは、電信の発明がきっかけであり、電信を用いた気象電報は警報体制の構築のために不可欠だった。

クニッピングは、多くの国では気象電報は無料であるから1日3回の電報を無料にすべきことを要望したものの、明治政府の理解を得られずに承認されなかった。そのため、クニッピングは明治15年(1882年)4月に、太政大臣へ電報使用料を予算要求した。しかし、これも費用が高額なのと財政逼迫のため却下された。

内務省としては暴風警報のための電報は重大な公益に関することなので、せめて1日1回だけでもと再び太政大臣三条実美に伺いを出した。これに前内務卿であった大蔵卿松方正義が賛成したことから、明治16年(1883年)1月に1日1回の無料(当時の表記では無税)の気象電報が認可された [1]。

グニッピングは,電文を短くして料金を削減するために、気圧、気温、雨量は数字2字をもって、その他の要素はすべて1字をもって表すという通報形式の工夫を行った [1]。

4.2    観測時刻の調整

次の課題は観測時刻だった。明治政府は明治6年(1873年)1月1日に、太陽太陰暦から太陽暦のグレゴリオ暦へと改暦した。また、暦だけでなくそれに合わせて時刻を、日出と日没との間を等分するそれまでの不定時法(つまり季節によって1時間の長さが変わる)から、年間通して1日を24等分する定時法へと変更した。

それでも時刻は、その地方の太陽の南中時刻を正午とする地方時が用いられた。暴風警報のために広域の状況を把握するには全国の気象現象を一斉に捉えることが必要となる。そのため、気象観測は全国統一時刻による一斉観測を行うことが基本となる。当時は地方時でも生活に支障を来すことはなかったが、電報を使った気象観測結果の収集は、地方時による各地の時刻の違いの問題をクローズアップした。

各測候所は、地方時で1日3回(午前6時半、午後2時半、午後10時半)の気象観測を行っていたが、全国での気象観測を一斉に行うため、明治15年(1882年)7月から京都時での観測(午前6時、午後2時、午後10時)が追加された [8]。京都時を用いたのは、京都は幕末まで天皇がいた場所であり日本人に馴染みがあることと、東西に分けると京都は日本のほぼ中央に位置しているためだった。

なお、明治17年(1884年)にワシントンでの国際子午線会議でグリニッジ天文台の子午線が世界の時刻標準に決まり、明治19年(1886年)には兵庫県明石市を通る東経135度を日本標準時とすることが決まった(実施は翌年の1月1日)。日本標準時の子午線が東京ではなく東経135度に決まったのは、日本標準時を決める際に、内務省が京都時を使って既に気象観測を行っていることが、その一因となったようである [9]。

4.3    観測単位の調整

さらに観測の単位の問題があった。当時日本では一般には尺貫法が使われていたが、気象観測については、当時観測開始時の指導がイギリス人であったり、測定器がイギリス製であったりしたため、観測単位にイギリス式のインチや華氏を使っていた。しかしクニッピングは国際気象会議で国際計量単位であるメートル法と摂氏の採用が決議されていること、ドイツを含む多くの国もメートル法を採用していること、イギリスとアメリカもいずれはメートル法に改めるであろうことを理由として、メートル法と摂氏を使うことを提言した [10]。

これは我が国の度量衡制度に関連する重要な問題であったから、内務、陸軍、文部、農商務、工部の各省代表をもって構成する委員会に諮り、気象観測に関しては明治15年(1882年)7月1日よりメートル法を採用することが決定された [1]。それを知ったイギリス公使から、イギリスの計量単位も使うように横やりが入ったようであるが、クニッピングはそれを拒否した [3]。

こうして明治15年(1882年)7月1日から単位にメートル法と摂氏を使った気象観測が開始された [9]。これにより例えば気圧だと、水銀柱の高さに相当するミリメートル(mm)が単位となる。ちなみに1気圧の水銀柱の高さは760 mmである(760 mmHgと表記する)。このメートル法の採用は、明治19年(1886年)の日本でのメートル条約加盟の公布に先立つこと約4年、明治24年(1891年)に度量衡法として尺貫法にメートル法を併用したものが規定されることに先立つこと約10年だった。

4.4    観測手法の標準化

さらなる問題は各地で行う観測手法の統一だった。クニッピングは明治15年(1882年)8月に観測手順を統一した「観測要略」を作成した。そして、これを翻訳したものが印刷されて各測候所に配布された。これで全国の観測手法は統一されたものとなった。

また、測定器などの測候所で行う観測全般については、地理局観測課長小林一知(1835-1906)のもとで東京気象台の中村精男と和田雄治の両氏が編さんして、正式の気象観測法として明治19年(1886年)1月に東京気象台から刊行された [11]。

4.5    初めての天気図の作成

このようにクニッピングは、暴風警報を出すための統一的な気象観測と電報を用いた組織的な気象データの収集の仕組みを整えた。これらの取り組みの結果、明治16年(1883年)2月16 日に初めて天気図が東京気象台で作られ、3月1日から毎日発行された。

1883年3月1日に日本で初めて発表された天気図(気象庁提供)

フランスの天文学者ルヴェリエによってヨーロッパで初めて天気図が定期的に発行されたのは1863年(安政3年)であり、それに遅れること20年だった。当初の天気図は、左右2ページの見聞きで,左は天気図,右は天気報告だった。天気報告は、各地の観測結果と英文と和文の全国天気概況を記したもので、暴風警報を発表する際もここに記入されていた。

天気図は、当初全国21地点の測候所から電報で報告された観測データをもとに、等圧線(と後に等温線)を記入したものだった。クニッピングが一人で天気図を描き、それに英文で天気概況を記入した。印刷する時には、天気図の等圧線や等温線は画伯が再描画し、文字は名筆家が清書した。英文の天気概況は和訳され、その時の訳語として作られた低気圧などの言葉は今日でも使われている。

この天気図は、気象資料の交換として海外にも送られた。明治16年(1883年)7月には、当時アメリカの国家気象機関だった陸軍信号局から、我が国の天気図の発行がアジアへの気象事業への拡大と気象学への発展に大きく貢献するとして、賞賛する手紙も送られて来た。

東京気象台に集められた各地の天気は、天気報告として公表された。これを同年4月6日から福沢諭吉が主宰して発行していた時事新報が掲載した。この新聞は天気報告を、「一目の下全国の天気を伺ふに足るべき頗る便利有益の報告なり」と評し、日本国を縮めて一つにして「小胆近親の弊」を救うかもしれないと述べた [1]。

当時の人々の国という意識はまだ藩の延長上にあり、日本全体を一つの国とする意識は途上だった。そういう時代に毎日各地の天気が新聞に掲載されるということは、地域ごとに排他的だった人々の意識を、同じ日本人とすることにも役立ったのかもしれない。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
8  佐藤順一, 山田琢雄. 気象観測法の沿革. 気象庁, 測候時報, 8, p 414-424, 1937.
9. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(4). 気象庁, 測候時報, p 363-371, 1954.
10. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(3). 気象庁, 測候時報, p 337-344, 1954.
11. 篠原武次. 明治19年版の気象観測法と第1回気象協議会. 気象庁, 測候時報, 24, p183-188. 1957.


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