2023年2月6日月曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(2)

 3.    クニッピングによる暴風警報の準備(1)

 

3.1    クニッピングが日本に来るまで

ドイツ人であるエルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping)は1844 年4 月27 日にオランダとの国境に近いドイツのグレヴエ(Kleve)に生れた。ドイツの中等教育機関であるギムナジウムに学び、1862年8月から海員となった。その後、海員や海軍を経て一等航海士としてクーリエ号という汽船に乗り組んだ [5]。

エルヴィン・クニッピング(気象庁提供)


クーリエ号が東京に航海してきた時に、
大学南校(のちの開成学校)で教鞭をとっていた同じドイツ人化学者ワグネルを訪ねた。当時大学南校はドイツ語で講義が行われていたため、ワグネルは南校の教師募集があればクニッピングに連絡することを約束した [3]。大学南校では、イギリス人とフランス人の教師3名を増員を計画したが、普仏戦争でフランスが敗戦したためかフランス人の採用は見合わせることになった [1]。

本人の回想によると、明治4年(1871年)にクニッピングが上海にいた時にワグネルから教員採用の連絡が入った[3]。クニッピングは、フランス人教師が徐々に締め出される中で1870年以降もドイツ人が大学南校の教師で居れたのは、普仏戦争の勝利のおかげと述べている [3]。

クニッピングが気象学の専門教育を受けたという記録はない。しかし彼はクーリエ号で気象日誌を見つけた1968年から気象観測を行い、ハンブルグのドイツ海洋気象台へ結果を送っていた [3]。長年船員をしている間に気象に興味を持っていたようである。また天気図の解析や利用法も同様に習得していたと思われる。


3.2    明治政府によるクニッピングの雇用

明治政府は当初大勢のお雇い外国人を雇ったが、当時は人材不足もあってか、雇用された外国人には適切とはいえない者もいたらしい [6]。当時クニッピングは一船員で、一等航海士という肩書きだけで全くの無名だった。ワグネルのつてではあったが、まじめで使命感に燃えたクニッピングの雇用は日本にとって幸いなこととなる。

彼は明治4年(1871年)5月から大学南校で教鞭をとり、ドイツ語で算術から地理、幾何、作文、体操まで教えた [6]。そして、これが彼が明治政府に延べ19年にわたって雇われるはじまりとなった。

その後大学南校から変わった開成学校の講義の主流は英語となり、クニッピングはドイツ語で行う講座が狭められたため退職した。明治9年(1876年)に今度は内務省駅逓局に船員となるための試験である海技試験の試験官として雇用された。

彼には学究的な気質もあったらしい。彼は開成学校の教師時代から、妻がベルリンから持ってきた測定器を官舎に設置して気象観測を行っていた。しかし、上述したように、ジョイネルが明治8年(1875年)から東京気象台で観測を開始したためクニッピングは明治11年(1878年)に観測を中止した [3]。しかしその途中で、結果を明治9年(1876年)10月に「江戸における気象観測」と題してドイツ語の論文誌に発表している [7]。

また、彼は駅逓局の在籍時の明治12年~13年(1879年~1880年)にかけて、燈台での気象観測と船舶の航海日誌を用いて、それまでに日本に襲来した3つの台風について、それらの中心位置、経路、風向、風力分布などを調査し、それぞれドイツの論文誌に発表した。このうち2つの論文は明治15年(1882年)に海軍水路局で翻訳され、「颶風記事」という題で出版された [6]。


3.3    クニッピングの暴風警報事業化への建白書

内務省は各地で気象観測を開始したものの、それをシステム化して暴風警報の事業化を実現するにはほど遠い状況だった。彼には海技試験の試験官を務めながら、日本での警報体制の事業化に対して期するものがあったに違いない。クニッピングは雇用が満期になる直前の明治14年(1881年)に、太政大臣三条実美に対して暴風警報事業化に関する建白書を出した。この建白書は残っていないが、彼が明治11年(1878年)に書いた「毎日の気象観測に基づいて東京の天気予測を行う試み」という論文には、つぎのように書かれていた [1]。

「最近、欧米に於て各地の気象観測報告を電信によって中央機関に収集し、之に基き広範囲にわたる天気の一般状態を勘案し、来るべき天気状態を予測することが行はれている。このような予言が暴風警報として多くの船舶を沈没の危険から庇護していることは、ーつに電信と気象学の進歩によるものである。陸上および港を出た船舶に対する天気の警告は、悲しいかな十分ではない。彼等は頼りとするものがなく、荒天にいかに対処すべきか自分自身で判断しなければならない。来るべき天気状態を予測して彼等に知せるようにできるだけの努力をすることが切望される。」(元はカタカナ表記)

クニッピングの建白書はほぼこれに沿った趣旨であったと考えられている。クニッピングは明治14年(1881年)5月に契約満期により海技試験の試験官を退職した。クニッピングは、提出した建白書に対して政府からの反応に期待するものがあったのだろう。彼は解雇後も無職のまま東京に留まり、臨時の船長の仕事の依頼を断ってまで政府からの返答を待った。

当時、農商務少輔の品川弥二郎と内務省地理局長の櫻井勉は、暴風警報の整備にかねてから熱心であった。クニッピングの提言は彼らの方針に合致しており、また日本人単独での暴風警報の事業化は困難に直面していたため、彼らはクニッピングによる提案に大いに賛成した。

しかし、クニッピングの政府への再雇用はなかなか決定しなかった。どうも地理局長の櫻井勉が、元いた量地課で御雇い外国人だったイギリス人にいやな思いをしたため、外国人の雇用に反対したようである [3]。

当時地理局測量課の課員には、中村精男(後の中央気象台長)と和田雄治がいた(課長は荒井郁ノ助だった)。中村と和田はクニッピングの教え子ではなかったが、南校時代にクニッピングと顔見知りだった。中村精男は元地理局長だった品川弥二郎の親戚だった。どうも中村がそのつてで品川にクニッピングの採用を後押したようである [1]。そうした人間関係の妙もあった。

12月のクリスマスの頃になって、ようやくクニッピングに内務省地理局測量課に雇い入れることが伝えられた。なお、クニッピングは政府からの返答を待っている間に貯金を使い果たし、あきらめて帰国する寸前のことだった [3]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4.
鯉沼寛一. 初期の日本気象業務史(4)  . 気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.



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