2020年12月10日木曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)気象予報への貢献

 ロスビー波は、地上の気団や前線などを通して地上の気象にも影響を与えるため、その移動速度などを解析すれば数日先の天気を予測できると考えられた。そのためロスビー波の天気予報への利用が始まった。1930年代までは多くの気象学者たちは1~2日より先の気象を合理的に予測することはできないと考えていたが、ロスビー波を用いた手法は、アメリカの5日予報と1か月予報の理論的根拠となった。1940年にMITで始まった最初の現業運用の長期予報部門は、1941年にはアメリカ気象局内に設立されて、5日予報が週2回定期的に発表されるようになった。

 またロスビーは、MITにおいてイギリスの気象学者ネイピア・ショー(Napier Shaw)が20世紀初めに提唱した温位という概念の利用を提唱した。温位面は等エネルギー面でもあり、断熱下では物質は等温位面に沿って移動する。ロスビーはこの性質を利用して、水蒸気をトレーサーとする等温位面解析図を定期的に作成した。これは水蒸気輸送の解明に貢献し、気象の総観解析の重要な手段となっただけでなく、大気大循環についての重要な情報にもなった [2]

 さらに、ロスビーは1940年に順圧浅水系における渦管伸縮の考えを使って、「渦位(potential vorticity) 」を定義し、断熱的な流れの下での渦位保存則を示した。

 d/dt((ζ+f)/h)=0

  ここで(ζ+f)/hが渦位、ζ は相対渦度の鉛直成分、f はコリオリパラメータ、h は大気の厚さとなる。この式は、渦位が保存していると、大気が山などにぶつかって大気の厚さが変わると渦の強さが変わることを意味している。この渦位の考えは、1942年にドイツの気象学者エルテル(Hans Ertel)がより一般的な形で絶対渦度と静力学的安定度の積として定義した。

 渦位は空気塊の保存量として使えるため、それまでの温位や水蒸気量と合わせて等渦位線が大気の流跡線として使われるようになった。一般に成層圏大気は高い渦位を持っているので、成層圏性大気と対流圏性大気の区別に用いられることもある。ただ渦位分布の算出には複雑な計算が必要なため、当時はそれを広域にわたって迅速に計算するのは困難だった。電子コンピュータが発達した現代においては、等渦位線分布図が定期的に作成されて、予報などに使われている。

等温位面(315K)上の渦位分布の例(気象庁 量的予報技術資料  19  2014 年より)

 カール=グスタフ・ロスビーの生涯(6)戦争時代へとつづく)

 Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.


2020年12月6日日曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績

 MIT准教授への就任

 この時期は、アメリカの航空は飛行船から飛行機へ拡大する過渡期にあり、海軍では飛行船や飛行機の安全な運航に必要な大勢の気象士官を必要としていた。1925年にアメリカ海軍の硬式飛行船「シェナンドー」が雷雨で墜落するという事故が起きた。これを契機に気象学の研究に注目が集まるようになり、マサチューセッツ工科大学(MIT)に気象学講座が設立されることになった。この航空気象を扱う講座を率いる人物としてロスビーはうってつけだった [5]

 1928年にロスビーはMIT航空学科の気象学の准教授になり、この講座は数年後にはアメリカ初の気象学科となった。そこにベルゲンへ留学させていたウィレット(Hurd Willett)を呼び寄せて、ベルゲン学派気象学の普及と熱力学の気団解析への応用研究を開始した [2]。また1931年からはウッズホール海洋研究所の研究員も兼ねて、そこで海洋上の大気境界層の研究を行い、気象学に初めて混合距離mixing length)や粗度(roughness)という概念を導入し、乱流の研究にも取り組んだ [2]

海洋学へ貢献

 ウッズホール海洋研究所では、アメリカ東部の湾岸流Gulf stream)の解明にも取り組み、そこの海洋学者スピルハウス(Athelstan Spilhaus)と共同で、水温と水圧の鉛直分布が測定できるバシサーモグラフbathythermograph)を開発した。これは、動く船から水温と水圧の鉛直分布を測定するもので、現代でも海洋の測定器として欠かせないものである [5]。そして、これを用いた観測と解析から、湾岸流の構造の解明に取り組んだ。さらに、その研究の延長から「地衡流調節」という概念を生み出した [5]。これは地衡流平衡にある流体のある部分に外から突発的なショックを与えると、流れは再び徐々に平衡状態に戻るが、その状態は初めの状態と異なることを定量的に説明したものである [6]。これは大気にも当てはめることが出来る。

ロスビー波の導出

 アメリカ中部では1930年代に入ると干ばつが頻発し、「ダストボウル」と呼ばれる砂塵嵐による気象災害が多発した。これは干ばつに加えて農民がトラクタという新しい機械を使ってむやみに広大な土地を耕したためと言われている [7]。このため、約50万人の農民が土地を放棄して移住するという事態に発展した。アメリカではこの対策のためバンクヘッド・ジョーンズ法が制定され、MITなどではその資金で数日前からの予報の可能性を調査することになった。ロスビーは高度5000 m位の上層の大気波に注目した。彼は、1939年に順圧大気の絶対渦度の鉛直成分の保存を使って、以下の有名な式を力学的に導出した。

c=U-βL2/4π2

ここで、cは波の位相速度、Uは背景風の速度、βはコリオリパラメータと呼ばれる緯度の変化率を近似したもの、Lは波長である。これは大気上層で蛇行する大規模な風を波として、その振る舞いを理論的に説明するものである。これはロスビー式とかトラフ式などと呼ばれることもある。

発生したダストボウルの写真

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Dust_Storm_Texas_1935.jpg/800px-Dust_Storm_Texas_1935.jpg

 この大規模な上層波はロスビー波またはプラネタリー波と呼ばれている。この上層大気の波の動きはその波長と波がある緯度に依存するだけでなく、その影響は下層にまで及んだ。この波が伴う地上付近の暖気と寒気の移動は、地上での総観規模気象の原因にもなった。これによって、それまで地上での気象を引き起こす主要因と考えられていた気圧分布は、この波の動きの結果に過ぎないという2次的な要因へと位置づけが変わった [3]。実際のロスビー波は、翌年にナミアスJerome Namias)の洋上の観測を含めた大気解析によって発見された [本の9-5-3ロスビー波の定式化参照]

ロスビー波の模式図

 ロスビー波の式は、1940年にアメリカに滞在していたドイツ人気象学者ハウリッツ(Bernhard Haurwitz)によって球面体での厳密な理論に拡張された。しかし、それでもロスビー波の理論は2次元の順圧大気で使われ続けた。それはロスビー波が、2次元の順圧大気でも大気の本質的な重要性を捉えていたからである [1]。ロスビー波を用いた順圧モデルは初期の数値予報においても使われて、その発達に重要な役割を果たした (本の「10-4 実験的な数値予報の成功」参照)

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)気象予報への貢献へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox,
(訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318.
[5] M. J. Lewis-1996-C.-G. Rossby: Geostrophic Adjustment as an Outgrowth of Modeling the Gulf Stream. Bulletin of the American Meteorological Society, American Meteorological Society, 77, 2711-2718.
[6]
小倉義光-1978-気象力学通論. 東京大学出版会.
[7]
田家康-2016-異常気象で読み解く現代史. 日本経済新聞出版 978-4-532-16987-9.

2020年12月2日水曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献

航空気象への貢献

 当時アメリカは民間航空の振興に力を入れており、それに必要な気象の知識を持った人物を探していた。ライケルデルファーは、ロスビーを当時アメリカで航空の振興に尽力していたグッゲンハイム(Harry Frank Guggenheim)に紹介した。ロスビーのスウェーデン・アメリカ基金による留学資金が尽きた後、グッゲンハイムはロスビーにアメリカ滞在のための奨学金を提供した [1]。

 ロスビーは、その頃航空界の発展に尽力していたチャールズ・リンドバーグを支援した。リンドバーグは、1927年にスピリット・オブ・セントルイス号でワシントンからメキシコシティまでの無着陸飛行に挑んだ際に、当たらない気象局の予報の代わりにロスビーに航空予報を依頼した。リンドバークは大成功を収め、新聞もロスビーの予報を賞賛した。しかしロスビーは気象局に無断で予報を行ったため、気象局長官の怒りを買ってワシントンの気象局から追い出された [3]。気象局の人々は、これでベルゲン学派気象学を奨励するロスビーの気象局での見納めになったと思ったに違いない。しかし後述するように、人生は何が起こるかわからない。


スピリット・オブ・セントルイス号の前でポーズをとるリンドバーグhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:LindberghStLouis.jpg

 ちょうどその頃、アメリカに定期旅客航空路が開設されようとしていた。グッゲンハイムは、ロスビーを政府の航空気象委員会の常任の委員に任命した。ロスビーはロサンゼルスに移り、ロサンゼルスからサンフランシスコまでのアメリカ初の定期旅客航空路の試行のために、グッゲンハイムの支援で航空気象用の観測体制と予報体制を組織した。彼は後にシカゴ大学の教授となったホレス・バイヤース(Horace Byers)とともに、専任の観測員を持つ30の気象観測地点を新たに設立した [1]。なおバイヤースは、シカゴ大学で後に竜巻やダウンバーストの研究で有名になる藤田哲也を招聘した人である。

 この定期旅客航空路の試行は、気象による事故がなく絶賛された [3]。ロスビーはこの試行での全く新しい予報のやり方を、1928年に国家安全協議会において「航空路での安全な飛行のための気象サービス組織」という報告書にまとめた。気象局は、この報告書の手法に基づいて旅客航空路のための航空予報を引き継がざるを得なくなり、この航空予報の体制は全米各地に拡大していった [1]。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.

2020年11月29日日曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学

アメリカ気象局への留学

 1925年に修士号を取ると、彼はスウェーデン・アメリカ基金(American-Scandinavian Foundation)によるアメリカ留学生制度に申し込み、90名の中の6名の合格者の一人となった。アメリカへの留学の目的は、ベルゲン学派の寒帯前線論のアメリカの気象での応用研究だけでなく、気象力学の問題を研究することも含まれていた [1]。1926年に彼はワシントンにあるアメリカ気象局(U.S. Weather Bureau)へ渡った。

 ベルゲン学派の論文はアメリカ気象局が発行するMonthly Weather Review誌にも発表されており、アメリカ気象局のルロイ・メイジンガー(Leroy Meisinger)などはベルゲン学派の手法を用いた研究を行っていた。しかし不幸なことに、1924年にメイジンガーは気球に乗っての観測中に雷に打たれて墜死していた [3] 。ロスビーは、アメリカ気象局でわずかに残っていたベルゲン学派気象学への興味を持つ気象学者リチャード・ウェイトマン(Richard. H. Weightman)とアメリカでのベルゲン学派気象学の有用性を示す論文を出したが、ほとんど顧みられなかった [3]。アメリカ気象局ではベルゲン学派の手法を用いた研究は衰退していた。当時のアメリカ気象局では気圧分布などを用いた経験的な予報手法が墨守されており、前線などを用いたベルゲン学派の手法は歓迎されなかった。

 ロスビーはベルゲン学派気象学の普及だけでなく、アメリカ気象局の地下室で地球規模の大気循環を模した回転水槽を用いた実験を手がけたり、乱流の研究などを行ったりしたが、アメリカ気象局には大気の力学的な取り扱いに興味を持つ人はほとんどいなかった [2]。しかし、アメリカの科学技術の歴史家であるフレミング(Rodger Fleming)は、この回転水槽実験が後にロスビーが大気を二次元で順圧的に扱う鍵になったと述べている [4]。アメリカ気象局において、ロスビーは図書館の片隅に席を与えられただけで冷遇された [3]。

 ところがそういう状況の中で、ロスビーはアメリカ海軍の気象士官ライケルデルファー(Francis Reichelderfer)と知り合いになった。ライケルデルファーは、海軍の高層気象の担当で、予報のためのデータを集めに、毎日気象局を訪れていた。これはロスビーにとって運命的な出会いとなった。ライケルデルファーは独学でベルゲン学派の手法を学んだが、もっと詳しく知りたいと思っており、彼にとってもロスビーはまさに意中の人だった。そこからロスビーの人生は急展開することになった。

ライケルデルファーの写真(後年)https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Reichelderfer#/media/File:Francis_W._Reichelderfer,_1940.jpg


Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318. 

2020年11月26日木曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(1)観測への従事

 カール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Rossby, 1898-1957)は、20世紀半ばに気象学、大気力学、海洋学において傑出した業績を上げた気象学者である。彼の名前はロスビー波、ロスビー数、ロスビー半径などいろいろな所に残っている。カール=グスタフ・ロスビー研究賞という彼の名を冠した賞もある。彼については、本の「9-5高層の波と気象予測」「9-6 ロスビーの業績」のところで、気象学の発達の流れの中に位置づけてかなり詳しく述べた。また、拙訳の「嵐の正体にせまった科学者たち」でも一つの章を使って彼について紹介している。しかし、彼の気象学に関する業績は極めて幅広いため、改めて補足して概説しておきたい。

 ロスビーは1898年にスウェーデンに生まれ、ストックホルム大学で数学、天文学、物理学を専攻して優秀な成績で卒業した。その際にストックホルム大学へ人材捜しに来ていたヴィルヘルム・ビヤクネスの目に止まった。彼は1919年にノルウェーのベルゲン地球物理学研究所へ招かれ、約1年半気象学と冬に向けての予報作業に携わった。ちょうどヤコブ・ビヤクネス(ヴィルヘルム・ビヤクネスの息子)が寒冷前線・温暖前線を伴った低気圧の構造(ベルゲン学派の気象学の特徴の一つ)を明らかにした頃で、そこで前線などを用いたベルゲン学派(ノルウェー学派)の予報手法を学んだ [1]。

観測への従事

 ドイツのライプチッヒ大学地球物理学研究所は、第一世界大戦の途中までヴィルヘルム・ビヤクネスが所長を務めた所だった。ヴィルヘルム・ビヤクネスがノルウェーの戻った後も、人事交流などの密接な関係は続いていた。その一環で1921年にロスビーもライプチッヒへ行くことになった。ベルゲン学派は、雲の観察によって直ちに判断できる間接的な高層気象観測を重視していたが、ライプチッヒ大学地球物理学研究所では探測気球などの観測に基づいて高層気象天気図作成し、それを用いた解析を行っていた。当時の高層気象とは主に対流圏中層の気象のことである。ロスビーはこれに興味を持ち、実際に高層気象観測を行っているリンデンベルグ高層気象台へ行き、約1年間気球や凧を用いて観測しながら高層大気を解析した [2]。

 高層大気の風は、地上付近と比べると比較的規則的な振る舞いをする。彼は高層大気を理解するのに、理論的な分析が必要であることを感じた。1921年に故郷スウェーデンのストックホルム大学に戻って数理物理学を学んだ [2]。その間、学費を稼ぐ目的もあってスウェーデン気象水文研究所(Swedish Meteorological and Hydrological Institute)でも働いた。1924年にはそこで初めての論文を発表している。1923年にはノルウェーの小さな観測船に乗り組んで、グリーンランド東岸で気象学と海洋学の研究を手伝った。ところが船は海氷に閉じ込められ、2か月後に危うく沈没する寸前に救出された [1]。

 翌年にはスウェーデン海軍の気象士官として、帆船を用いたスウェーデン海軍の士官候補生のための訓練航海を担当した。この航海の目的はイギリスを1周して、海洋での気象予報の必要性と有用さを確かめることだった。彼は航海中に探測気球を上げて観測し、他からの気象観測報告を受け取り、天気図を描き、予報を準備して船長に提出するのが仕事だった。しかし船は嵐に巻き込まれ、アイルランド沖を漂流した。船は座礁しないように岸に近づきすぎないようにする必要があった。しかし、彼は出した予報に自信がなくなかなか寝付けなかったが、予想通りに風向が変わると安堵して眠りについたこともあった [1]。おかげで、航海は無事に終了した。 

ロスビーが乗り組んだスウェーデン海軍の帆船 af Chapman号。船名はG.D. Kennedyから改名したものである。https://en.wikipedia.org/wiki/Af_Chapman_(ship)#/media/File:GD_Kennedy_SLV_AllanGreen.jpg

 1925年にストックホルム大学から数理物理学の修士号を得たが、彼の正規の学歴はそこで終わった。彼はこの後、さまざまな傑出した業績を残したが、博士号を取ることはなかった。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学つづく)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.

[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. Biographical Memoir, National Academy of Sciences.