2020年12月6日日曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績

 MIT准教授への就任

 この時期は、アメリカの航空は飛行船から飛行機へ拡大する過渡期にあり、海軍では飛行船や飛行機の安全な運航に必要な大勢の気象士官を必要としていた。1925年にアメリカ海軍の硬式飛行船「シェナンドー」が雷雨で墜落するという事故が起きた。これを契機に気象学の研究に注目が集まるようになり、マサチューセッツ工科大学(MIT)に気象学講座が設立されることになった。この航空気象を扱う講座を率いる人物としてロスビーはうってつけだった [5]

 1928年にロスビーはMIT航空学科の気象学の准教授になり、この講座は数年後にはアメリカ初の気象学科となった。そこにベルゲンへ留学させていたウィレット(Hurd Willett)を呼び寄せて、ベルゲン学派気象学の普及と熱力学の気団解析への応用研究を開始した [2]。また1931年からはウッズホール海洋研究所の研究員も兼ねて、そこで海洋上の大気境界層の研究を行い、気象学に初めて混合距離mixing length)や粗度(roughness)という概念を導入し、乱流の研究にも取り組んだ [2]

海洋学へ貢献

 ウッズホール海洋研究所では、アメリカ東部の湾岸流Gulf stream)の解明にも取り組み、そこの海洋学者スピルハウス(Athelstan Spilhaus)と共同で、水温と水圧の鉛直分布が測定できるバシサーモグラフbathythermograph)を開発した。これは、動く船から水温と水圧の鉛直分布を測定するもので、現代でも海洋の測定器として欠かせないものである [5]。そして、これを用いた観測と解析から、湾岸流の構造の解明に取り組んだ。さらに、その研究の延長から「地衡流調節」という概念を生み出した [5]。これは地衡流平衡にある流体のある部分に外から突発的なショックを与えると、流れは再び徐々に平衡状態に戻るが、その状態は初めの状態と異なることを定量的に説明したものである [6]。これは大気にも当てはめることが出来る。

ロスビー波の導出

 アメリカ中部では1930年代に入ると干ばつが頻発し、「ダストボウル」と呼ばれる砂塵嵐による気象災害が多発した。これは干ばつに加えて農民がトラクタという新しい機械を使ってむやみに広大な土地を耕したためと言われている [7]。このため、約50万人の農民が土地を放棄して移住するという事態に発展した。アメリカではこの対策のためバンクヘッド・ジョーンズ法が制定され、MITなどではその資金で数日前からの予報の可能性を調査することになった。ロスビーは高度5000 m位の上層の大気波に注目した。彼は、1939年に順圧大気の絶対渦度の鉛直成分の保存を使って、以下の有名な式を力学的に導出した。

c=U-βL2/4π2

ここで、cは波の位相速度、Uは背景風の速度、βはコリオリパラメータと呼ばれる緯度の変化率を近似したもの、Lは波長である。これは大気上層で蛇行する大規模な風を波として、その振る舞いを理論的に説明するものである。これはロスビー式とかトラフ式などと呼ばれることもある。

発生したダストボウルの写真

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Dust_Storm_Texas_1935.jpg/800px-Dust_Storm_Texas_1935.jpg

 この大規模な上層波はロスビー波またはプラネタリー波と呼ばれている。この上層大気の波の動きはその波長と波がある緯度に依存するだけでなく、その影響は下層にまで及んだ。この波が伴う地上付近の暖気と寒気の移動は、地上での総観規模気象の原因にもなった。これによって、それまで地上での気象を引き起こす主要因と考えられていた気圧分布は、この波の動きの結果に過ぎないという2次的な要因へと位置づけが変わった [3]。実際のロスビー波は、翌年にナミアスJerome Namias)の洋上の観測を含めた大気解析によって発見された [本の9-5-3ロスビー波の定式化参照]

ロスビー波の模式図

 ロスビー波の式は、1940年にアメリカに滞在していたドイツ人気象学者ハウリッツ(Bernhard Haurwitz)によって球面体での厳密な理論に拡張された。しかし、それでもロスビー波の理論は2次元の順圧大気で使われ続けた。それはロスビー波が、2次元の順圧大気でも大気の本質的な重要性を捉えていたからである [1]。ロスビー波を用いた順圧モデルは初期の数値予報においても使われて、その発達に重要な役割を果たした (本の「10-4 実験的な数値予報の成功」参照)

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)気象予報への貢献へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox,
(訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318.
[5] M. J. Lewis-1996-C.-G. Rossby: Geostrophic Adjustment as an Outgrowth of Modeling the Gulf Stream. Bulletin of the American Meteorological Society, American Meteorological Society, 77, 2711-2718.
[6]
小倉義光-1978-気象力学通論. 東京大学出版会.
[7]
田家康-2016-異常気象で読み解く現代史. 日本経済新聞出版 978-4-532-16987-9.

2020年12月2日水曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献

航空気象への貢献

 当時アメリカは民間航空の振興に力を入れており、それに必要な気象の知識を持った人物を探していた。ライケルデルファーは、ロスビーを当時アメリカで航空の振興に尽力していたグッゲンハイム(Harry Frank Guggenheim)に紹介した。ロスビーのスウェーデン・アメリカ基金による留学資金が尽きた後、グッゲンハイムはロスビーにアメリカ滞在のための奨学金を提供した [1]。

 ロスビーは、その頃航空界の発展に尽力していたチャールズ・リンドバーグを支援した。リンドバーグは、1927年にスピリット・オブ・セントルイス号でワシントンからメキシコシティまでの無着陸飛行に挑んだ際に、当たらない気象局の予報の代わりにロスビーに航空予報を依頼した。リンドバークは大成功を収め、新聞もロスビーの予報を賞賛した。しかしロスビーは気象局に無断で予報を行ったため、気象局長官の怒りを買ってワシントンの気象局から追い出された [3]。気象局の人々は、これでベルゲン学派気象学を奨励するロスビーの気象局での見納めになったと思ったに違いない。しかし後述するように、人生は何が起こるかわからない。


スピリット・オブ・セントルイス号の前でポーズをとるリンドバーグhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:LindberghStLouis.jpg

 ちょうどその頃、アメリカに定期旅客航空路が開設されようとしていた。グッゲンハイムは、ロスビーを政府の航空気象委員会の常任の委員に任命した。ロスビーはロサンゼルスに移り、ロサンゼルスからサンフランシスコまでのアメリカ初の定期旅客航空路の試行のために、グッゲンハイムの支援で航空気象用の観測体制と予報体制を組織した。彼は後にシカゴ大学の教授となったホレス・バイヤース(Horace Byers)とともに、専任の観測員を持つ30の気象観測地点を新たに設立した [1]。なおバイヤースは、シカゴ大学で後に竜巻やダウンバーストの研究で有名になる藤田哲也を招聘した人である。

 この定期旅客航空路の試行は、気象による事故がなく絶賛された [3]。ロスビーはこの試行での全く新しい予報のやり方を、1928年に国家安全協議会において「航空路での安全な飛行のための気象サービス組織」という報告書にまとめた。気象局は、この報告書の手法に基づいて旅客航空路のための航空予報を引き継がざるを得なくなり、この航空予報の体制は全米各地に拡大していった [1]。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.

2020年11月29日日曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学

アメリカ気象局への留学

 1925年に修士号を取ると、彼はスウェーデン・アメリカ基金(American-Scandinavian Foundation)によるアメリカ留学生制度に申し込み、90名の中の6名の合格者の一人となった。アメリカへの留学の目的は、ベルゲン学派の寒帯前線論のアメリカの気象での応用研究だけでなく、気象力学の問題を研究することも含まれていた [1]。1926年に彼はワシントンにあるアメリカ気象局(U.S. Weather Bureau)へ渡った。

 ベルゲン学派の論文はアメリカ気象局が発行するMonthly Weather Review誌にも発表されており、アメリカ気象局のルロイ・メイジンガー(Leroy Meisinger)などはベルゲン学派の手法を用いた研究を行っていた。しかし不幸なことに、1924年にメイジンガーは気球に乗っての観測中に雷に打たれて墜死していた [3] 。ロスビーは、アメリカ気象局でわずかに残っていたベルゲン学派気象学への興味を持つ気象学者リチャード・ウェイトマン(Richard. H. Weightman)とアメリカでのベルゲン学派気象学の有用性を示す論文を出したが、ほとんど顧みられなかった [3]。アメリカ気象局ではベルゲン学派の手法を用いた研究は衰退していた。当時のアメリカ気象局では気圧分布などを用いた経験的な予報手法が墨守されており、前線などを用いたベルゲン学派の手法は歓迎されなかった。

 ロスビーはベルゲン学派気象学の普及だけでなく、アメリカ気象局の地下室で地球規模の大気循環を模した回転水槽を用いた実験を手がけたり、乱流の研究などを行ったりしたが、アメリカ気象局には大気の力学的な取り扱いに興味を持つ人はほとんどいなかった [2]。しかし、アメリカの科学技術の歴史家であるフレミング(Rodger Fleming)は、この回転水槽実験が後にロスビーが大気を二次元で順圧的に扱う鍵になったと述べている [4]。アメリカ気象局において、ロスビーは図書館の片隅に席を与えられただけで冷遇された [3]。

 ところがそういう状況の中で、ロスビーはアメリカ海軍の気象士官ライケルデルファー(Francis Reichelderfer)と知り合いになった。ライケルデルファーは、海軍の高層気象の担当で、予報のためのデータを集めに、毎日気象局を訪れていた。これはロスビーにとって運命的な出会いとなった。ライケルデルファーは独学でベルゲン学派の手法を学んだが、もっと詳しく知りたいと思っており、彼にとってもロスビーはまさに意中の人だった。そこからロスビーの人生は急展開することになった。

ライケルデルファーの写真(後年)https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Reichelderfer#/media/File:Francis_W._Reichelderfer,_1940.jpg


Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318. 

2020年11月26日木曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(1)観測への従事

 カール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Rossby, 1898-1957)は、20世紀半ばに気象学、大気力学、海洋学において傑出した業績を上げた気象学者である。彼の名前はロスビー波、ロスビー数、ロスビー半径などいろいろな所に残っている。カール=グスタフ・ロスビー研究賞という彼の名を冠した賞もある。彼については、本の「9-5高層の波と気象予測」「9-6 ロスビーの業績」のところで、気象学の発達の流れの中に位置づけてかなり詳しく述べた。また、拙訳の「嵐の正体にせまった科学者たち」でも一つの章を使って彼について紹介している。しかし、彼の気象学に関する業績は極めて幅広いため、改めて補足して概説しておきたい。

 ロスビーは1898年にスウェーデンに生まれ、ストックホルム大学で数学、天文学、物理学を専攻して優秀な成績で卒業した。その際にストックホルム大学へ人材捜しに来ていたヴィルヘルム・ビヤクネスの目に止まった。彼は1919年にノルウェーのベルゲン地球物理学研究所へ招かれ、約1年半気象学と冬に向けての予報作業に携わった。ちょうどヤコブ・ビヤクネス(ヴィルヘルム・ビヤクネスの息子)が寒冷前線・温暖前線を伴った低気圧の構造(ベルゲン学派の気象学の特徴の一つ)を明らかにした頃で、そこで前線などを用いたベルゲン学派(ノルウェー学派)の予報手法を学んだ [1]。

観測への従事

 ドイツのライプチッヒ大学地球物理学研究所は、第一世界大戦の途中までヴィルヘルム・ビヤクネスが所長を務めた所だった。ヴィルヘルム・ビヤクネスがノルウェーの戻った後も、人事交流などの密接な関係は続いていた。その一環で1921年にロスビーもライプチッヒへ行くことになった。ベルゲン学派は、雲の観察によって直ちに判断できる間接的な高層気象観測を重視していたが、ライプチッヒ大学地球物理学研究所では探測気球などの観測に基づいて高層気象天気図作成し、それを用いた解析を行っていた。当時の高層気象とは主に対流圏中層の気象のことである。ロスビーはこれに興味を持ち、実際に高層気象観測を行っているリンデンベルグ高層気象台へ行き、約1年間気球や凧を用いて観測しながら高層大気を解析した [2]。

 高層大気の風は、地上付近と比べると比較的規則的な振る舞いをする。彼は高層大気を理解するのに、理論的な分析が必要であることを感じた。1921年に故郷スウェーデンのストックホルム大学に戻って数理物理学を学んだ [2]。その間、学費を稼ぐ目的もあってスウェーデン気象水文研究所(Swedish Meteorological and Hydrological Institute)でも働いた。1924年にはそこで初めての論文を発表している。1923年にはノルウェーの小さな観測船に乗り組んで、グリーンランド東岸で気象学と海洋学の研究を手伝った。ところが船は海氷に閉じ込められ、2か月後に危うく沈没する寸前に救出された [1]。

 翌年にはスウェーデン海軍の気象士官として、帆船を用いたスウェーデン海軍の士官候補生のための訓練航海を担当した。この航海の目的はイギリスを1周して、海洋での気象予報の必要性と有用さを確かめることだった。彼は航海中に探測気球を上げて観測し、他からの気象観測報告を受け取り、天気図を描き、予報を準備して船長に提出するのが仕事だった。しかし船は嵐に巻き込まれ、アイルランド沖を漂流した。船は座礁しないように岸に近づきすぎないようにする必要があった。しかし、彼は出した予報に自信がなくなかなか寝付けなかったが、予想通りに風向が変わると安堵して眠りについたこともあった [1]。おかげで、航海は無事に終了した。 

ロスビーが乗り組んだスウェーデン海軍の帆船 af Chapman号。船名はG.D. Kennedyから改名したものである。https://en.wikipedia.org/wiki/Af_Chapman_(ship)#/media/File:GD_Kennedy_SLV_AllanGreen.jpg

 1925年にストックホルム大学から数理物理学の修士号を得たが、彼の正規の学歴はそこで終わった。彼はこの後、さまざまな傑出した業績を残したが、博士号を取ることはなかった。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学つづく)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.

[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. Biographical Memoir, National Academy of Sciences.


2020年11月15日日曜日

雲形の発見 ルーク・ハワード

 人類が発生するはるか以前から大空に漂っている雲だが、その時々で特殊な雲に独自の名前が付けられることはあったようである。しかしながら、有史以来長い間、その時々刻々と千変万化する雲に体系的に分類した名前を付けようとした人はいなかった。それを19世紀初めに初めて行ったのは、イギリスのルーク・ハワード(Luke Howard, 1772-1864)である。彼はイギリスの薬品製造者であり、科学に幅広い関心を持つアマチュア気象学者だった。

ルーク・ワードの肖像
https://en.wikipedia.org/wiki/Luke_Howard#/media/File:Luke_Howard.jpg

 
本の「4-9雲形の定義」で述べたように、ハワードは1772 年に、ロンドンで信心深いクエーカー教徒の両親との間の最初の子供として生まれた。彼は父の石油ランプ事業を継ぐことになり、化学薬品の製造業者として成功したが、常に気象学の研究に心を奪われていた。彼は11歳の頃の1783 年とその翌年に起こった火山噴火による濃い煙霧「グレート・フォッグ」(このブログの「1783年のラキ火山噴火の大気への影響」参照)と、その時の北極オーロラ光に非常に興味を持ったと述べている[1]。

 ハワードはオックスフォードの近くのクエーカー学校を卒業の後、薬剤師となった。彼は、マンチェスター近くの薬屋に7 年間勤めた後。ロンドンに戻って、1796 年にウィリアム・アレン(William Allen)と一緒に製薬会社を始めた。この事業は後にハワーズ・アンド・サンズとして知られる工業薬品・医薬品会社として成功した。彼らは、アスケジアン学会と呼ばれた小さな哲学グループを作った。

 ハワードは1802 年12 月のアスケジアン学会の会合で、「雲の変形に関する試論」という題で講演し、雲形の体系的な分類法を提案した。彼はその雲形を区別するのに巧妙にも伝統的なラテン語を用いることにした。それらの基本はシーラス(巻雲)、キュムラス(積雲)、ストレイタス(層雲)、ニンバス(雨雲*)である。

 この分類法は、18 世紀のスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネによる植物界と動物界の秩序立った命名法を参考にしており、雲の構造に応じた分類を意図していた。各々の雲形の名前は雲の様態によって注意深く定められており、植物界と動物界の分類方法と同様にその永続性を意識して作られていた。この雲の分類法に関する彼の論文は、1803年にThe Philosophical Magazine 誌にも発表された[2]。

 ハワードは、自身の雲の分類が翻訳しなくても相互に伝達することができる世界共通となって、世界中の大気現象についての知識がより早く発達することを望んだ。そして、彼の分類法は科学に関する当時の共通語であるラテン語をベースにしていたため、世界中に広まった。その分類法は単なる雲形の名前のリストではなく、その構造に応じた雲の分類は新しく自然を研究する手法の提案でもあった。

 ハワードによる雲形の基本的な定義は以下の通りである[1]。

  • 「巻雲(cirrus)」はラテン語の「髪の房」に由来し、平行な、あるいは曲がった、あるいは拡散している繊維状のもので、あらゆる方向、あるいは全ての方向に伸長可能である。

ハワードが描いた巻雲[2]

  • 「積雲(cumulus)」はラテン語の「積み重なった塊」に由来し、凸状や円錐形の塊で水平な基礎から盛り上がっている。

ハワードが描いた積雲[2]

  • 「層雲(stratus)」は「層」に由来し、広く伸びた、連続した水平な薄板状のもので、下から上に向かって盛り上がっている。

ハワードが描いた層雲[2]

  • 「雨雲(nimbus)」は「雨」に由来し、雨を降らせる単独の雲、もしくは複数の雲の集合。それは、水平な薄板状であり、積雲が側面や下から入ってくるが、その上に巻雲が拡がる。

               ハワードが描いた雨雲[2]

 ハワードは、絶えず変わる形のない水蒸気からなる雲を、物理過程によって作られた整合性のある特徴を持った対象に変えた。雲形は気象学のための重要な概念となった。ハワードはこう書いている[3]

(雲は)大気の全ての変動に影響を及ぼしている普遍的な要因に従っています。人の心や体の状態が表情に表れるように、雲はそれらの要因が作用したことが見えるよい指標なのです。 

特に高層気象観測においては、気球などを用いた観測が充実する20世紀半ばまで、雲形を用いた観測が実質的な観測手段となった。

 雲の分類法については、その後に1828 年にはドイツの気象学者ハインリッヒ・ドーフェが、1841 年にはアメリカの気象学者エリアス・ルーミスが、別の雲分類法を提案した。しかしハワードによる構造によって雲を定義するという体系的な命名手法とラテン語による名前は、1887年にイギリスの気象学者ラルフ・アバークロンビーとスウェーデンの気象学者ヒューゴ・ヒルデブランソンによって採用され、拡張されて国際的な標準になった。この雲形の基づいて国際雲図帳が作成された(本の「4-9雲形の定義」参照)。そして1929 年に国際気象委員会が最終的に採用した雲の分類法の基礎となった。

 ハワードがイギリスで雲の分類に取り組んでいた時、同じ考えがフランスの進化生物学者であるジャン=バティスト・ラマルクによっても進められていた。ラマルクも様々な雲形を観測し、彼はそれらを高度によって3 層に分けた。彼の雲形のいくつかはハワードの雲形と極めて類似していた。しかし、ハワードが全世界で受け入れ可能なラテン語という広く共通な語を選んだのに対し、ラマルクはフランス語を選んだ。またラマルクはその分類法を占星気象学を扱う雑誌に発表した。それらがラマルクの手法が広く受け入れられる障害となった。最終的には、ナポレオンによるラマルクは博物学を守るべきであるという指摘によってラマルクは気象学の研究を止めた[1]。

 1818 年と1819 年に、ハワードはこの種の研究の最初となる「ロンドンの気候」という2 巻からなる本を発表した。この本でハワードは、都市大気汚染の気象に及ぼす影響を調査した。この調査で、後のヒートアイランド現象(産業と都市の構成物が熱放射によって局地的な気象変化を引き起こす現象)を初めて指摘した[1]。

 ハワードによる雲の分類は、それまでの画家の雲に対する見方を変えた。ロマン派画家の巨匠であるドイツのカスパール・ダビッド・フリードリヒ、イギリスのジョセフ・M・W・ターナージョン・コンスタブル、アメリカの風景画トーマス・コールフレデリック・チャーチジョージ・イネスの空の絵の描き方にも影響を与えたと言われている[1]。

nimbusは乱層雲と訳されることもある。これは個人的な経験だが、雨が降る前の低層雲は一方向に規則的に流れることが多い。ところが、雨が降り出すと同時に雲の動きはランダムに変わる。私はそれを見た時、ニンバスの訳に「乱」の字が充てられていることに納得した。

(次はカール=グスタフ・ロスビーの生涯(1)観測への従事

Reference

[1]John D. Cox, (訳)堤 之智-2013-嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, ISBN 978-4-621-08749-7

[2]Luke Howard-1803-On the modifications of clouds, and on the principles of their production, suspension, and destruction; being the substance of an essay read before the Askesian Society in the session 1802-3,Philosophical Magazine Series 1, 17

[3]Thornes, John-1999-John Constable's Skies. The University of Birmingham Press. ISBN 1-902459-02-4.