航空気象というのは、航空機の飛行のための気象学のことである。飛行機に乗る人は必ずお世話になっているはずだが、お天気番組には出てこないし、一般の人にはあまり馴染みがないかもしれない。しかし歴史的に見ると、気象学全般の発展にも大きな役割を果たしている。それを見てみたい。
20世紀に入った頃から大型飛行船の実用化が進み、また飛行機が発明された。これらは第一次世界大戦で長足の進歩を遂げ、第一次世界大戦後はそれらは旅客飛行などの商用にも使われるようになった。しかしその運行には大きな問題があった。それは上空の気象変化である。航空機は視程の悪化や乱気流を含む雲などの気象の変化に弱い。
第一次世界大戦までの天気予報は、主に総観天気図による気圧や風の変化に基づいて、低気圧とその周辺で天候が悪いことを用いて漠然と地上での天候を推測したものだった。それには低気圧は強さや形を変えず、一定の速度と向きで動くことが仮定された。
19世紀までは気象観測は、ごく一部の山を除いて地上でしか行われなかった。そのため、わずか数百mといえども上空の気象がどうなっているのかはわからなかった。19世紀半ば頃からは有人気球や凧などを用いて調査が行われたことがあったが、それは未知の領域の探検調査のための冒険に近いものだった(「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」参照)。
20世紀に入るとゴム気球が発明され、無人気球に自記記録器を搭載した観測が行われ、上記のような成層圏の発見などが行われた。しかし、気球に搭載した自記記録器は、落下したものが運良く見つかってもその回収に時間がかかった。そのため、気球による上層大気の観測は一部の研究に限られており、天気予報には使えなかった。
このようにリアルタイムで上空の気象を観測する手段がなかったため、上空の気象は地上での気象変化で推測する以外のことはわからなかった。しかも雲や視程などそれまで地上ではあまり問題とならない気象も飛行機の安全と密接に関わった。
第一次世界大戦末頃には航空機の発達によって上空の気象に対する重要性が増し、各国軍隊に気象部隊が設立されるまでになった。第一次世界大戦での航空の発展を受けて、戦争が終了すると民間航空の時代が訪れた。1919年のパリ講和会議では気象を含む航空の安全の確保がテーマの一つとなった。各国間で国際航路の法的根拠などを定めたパリ国際航空条約が締結され、各国が有する上空の領空権はここで確立された。また政府間組織として国際航空航法委員会(ICAN)が設立され、航空のための気象観測法やその結果を無線で国際交換する方法が決定された。
地上から手の届かない上空の気象予報に革命が起こったのは、1918年頃のノルウェーのヴィルヘルム・ビャークネスが率いるベルゲン学派による前線を用いた気象学の発展である。彼は第一次世界大戦での海上封鎖による母国ノルウェーの飢饉を、天気予報の精度を上げて農業生産と漁業生産を増加させることで乗り切ろうとした。そして、そのために政府の支援を受けて、1918年にそれまでにない密な気象観測網を設置して、観測結果を電報で気象予報センターに一元的に集めてリアルタイムでの気象監視と予報を行った。
その密な観測網によりわかったことは、風や雨が強くなる狭い帯状の境界があり、その地域を境にして気温や風向・風向などが大きく変わるということだった。そして、それは低気圧とともに移動した。
この天候が悪くなる寒気と暖気がぶつかる境界を、彼らは暖気と寒気を戦争での敵と味方に見立てたアナロジーによって「前線(front)」と命名した。この名称には第一次世界大戦での特徴であった塹壕戦が影響していた。この戦争では、塹壕によって敵と味方が接近した前線が数百km以上も続いてせめぎ合ったのが特徴だった。
このベルゲン学派による前線を用いた気象学によって、数千キロメートルにもわたる構造を持つ大きな低気圧でも、この前線の位置と移動速度がわかれば、天候が悪化する場所と時刻がそれまでよりはるかに正確にわかるようになった。
また同時に、寒気と暖気の境界は立体的な構造を持っていることがわかり、その傾きと方向がわかれば、上空での境界(つまり上空の前線)を予測できた。ベルゲン学派の前線を用いた気象学によって、上空の気象の風向や風速、狭い地域での天候の急変の可能性を予測できるようになった。これは航空気象に大きな進歩をもたらした。
当初は前述した高層気象観測の制限により、リアルタイムでの観測は雲の状態を使った地上からの目視で行われた。例えば温暖前線の接近は雲の高さと形態を見ればわかることが多かった。このため、気象台は今でも見晴らしの良い場所や高い場所に設置されていることが多い。
温暖前線の典型的な構造
(J. BJERKNES and H. SOLBERG. (1921) METEOROLOGICAL CONDITIONS FOR THE FORMATION OF RAINの図13を一部日本語に改変)
さらに1930年頃からラジオゾンデによる無線を使ったリアルタイムでの高層気象観測が行われるようになった。上層大気は地上の地形による影響を受けにくく、規則的な変動をすることが多い。各地でのラジオゾンデを用いた観測によって、上層の偏西風の波としての振る舞いやその蛇行がわかるようになった。これは上層大気の構造解明に進展をもたらした。そして、この上層大気の変動が地上気象にも影響することがわかってきた。
さて航空気象に戻る。当初は、ベルゲン学派気象学の航空気象に対する利点はあまり理解されなかった。ベルゲン学派気象学者の一人、カール=グスタフ=ロスビーは、ベルゲン学派気象学の普及を兼ねて1926年にアメリカに留学し、米国気象局に入った(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)」参照)。しかし当時の米国気象局は予報手法に対して保守的であり、ロスビーは「好ましくない人物(persona non grata)」と評されて米国気象局から追い出されてしまった。
しかし当時米国は民間航空路の開設に熱心な時代だった。航空路の安全のためには航空気象が不可欠である。ロスビーは民間航空財団に採用されて、アメリカの民間での航空気象の組織化に優れた手腕を発揮した(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献」参照)。例えばロサンジェルスとサンフランシスコ間の航空路では、航空路の近くにいくつかの気象観測所を設置し、その情報を空港に定期的に集めて、航空路上の気象の要点をパイロットに伝えるなどの仕組みを作り上げた。これは気象による航空事故の防止に大成功を収めた。このため、米国気象局もこれを見習った仕組みを構築せざるを得なかった。ロスビーは1939年に米国気象局の長官補佐に就任し、米国気象局を改革した。
一方で第一次世界大戦後に、ドイツのウィーン学派ではベルゲン学派との間に学術上の確執が起こった。これはベルゲン学派の論文がドイツでの学術上の成果を十分に参照していないというものだった。これは一時期感情的な対立にまで発展した。しかし最終的には、1930年代半ばにドイツ空軍を統括したゲーリングがベルゲン学派気象学を採用したことにより対立は収まった。第一次世界大戦での敗戦によって一時期軍備を禁止されたドイツは、航空機の持つ利点を十分に理解しており、その運用のために気象学者を多数養成していた。第二次世界大戦前には学位を持った気象学者が2700名いたといわれている。ベルゲン学派気象学が発展したのは、航空気象にも対応できたためだった面がある。
第二次世界大戦が始まると、航空機は武器として極めて重要な役割を果たすようになった。この運用には気象学の知識が不可欠だった。ロスビーは1941年にシカゴ大学に移って米国の4つの大学(シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、カリフォルニア工科大学(CALTEC))で約8000人の気象士官の養成を主導した。彼らは卒業後に大西洋、太平洋方面に散って活躍した。
第二次世界大戦では、航空機の運用などを巡って気象の把握と予測が戦争の帰趨に影響した面があった。ノルマンディー上陸作戦での例は「実践の予報学者スベール・ペターセン(10)ノルマンディー上陸作戦」に書いたとおりである。
残念ながら戦前の日本では、ベルゲン学派気象学の採用には消極的だった。それはベルゲン学派気象学がヨーロッパ中・高緯度の温帯低気圧(Extra-tropical cyclone)を中心に発展してきたこととも関係があった。気象はある程度グローバルな現象であるにも関わらず、日本ではアジアでヨーロッパの理論を当てはめるのには慎重だった。
それには当時日本での研究の焦点であった台風や梅雨が関連しているようである。たしかにベルゲン学派気象学は台風や梅雨には当てはまらない。しかし、台風や梅雨のシーズン以外は温帯低気圧はしばしば日本を通過する。日本の中央気象台(気象庁の前身)では戦後にベルゲン学派気象学を採用し、それによる前線などはラジオやテレビの普及と共に瞬く間にお茶の間でもお馴染みになった。
また戦前の日本では、航空気象という実用的な面での気象情報の利用は進んでいなかった。第二次世界大戦時にヨーロッパでは、ベルゲン学派気象学を用いた気象予報を用いていた。また爆撃機などを利用した気象観測機に気象測定器を搭載して気象学の専門家が搭乗し、地上観測地点がない大西洋上や敵の占領地域などを補う気象観測が行われた。さらに敵国の気象暗号通信を解読することによっても天気図が作成されていた(「第二次世界大戦における気象戦(2)暗号書の争奪戦 」参照)。それらによる気象情報に基づいて航空作戦が計画されていたことは想像に難くない。
しかし日本軍では、出発地と到着地の気象状況の観測による現状把握だけで、飛行途中の気象の予測はなかったようである。また、ヨーロッパのような広域での航空機を用いた気象観測体制もなかった(1942年9月から攻撃ルートに対して操縦者の目視による天候偵察は行われるようになった)。
その結果、太平洋戦争開戦時には、陸軍の飛行第27戦隊の襲撃機や飛行第12戦隊の双発爆撃機などが南シナでの悪天候によって、戦隊長機を含む20機が一度に大量遭難した。また海軍でも1944年3月には台風によって海軍乙事件(古賀連合艦隊司令長官などの遭難)などが起こった。何れも事前に悪天候の場所がわかっていれば、回避できた出来事だった。このように上空の気象情報の不足は航空機の移動を妨げ、稼働率を下げた。
第二次世界大戦後は、第一次世界大戦後にも増して民間航空の発展が顕著になった。大戦末期には今の国際民間航空機関(ICAO)の前身となる組織(PICAO)が組織され、まず大西洋航空路の安全性の整備が議論された。これには国際気象機関(IMO:WMOの前身)を代表してノルウェーの気象学者ペターセンが加わった(「実践の予報学者スベール・ペターセン(11) 戦後の気象学の再構築」参照)。
民間による大西洋横断航空路の開設には、航空路に対する効率的な予報と信頼できる支援サービスが必要だった。そのためPICAOの支援のもと、大西洋上での13隻の気象観測船の配備や遭難の際の厳密な手順が関係者によって定められた。これらの観測船による観測は、後の数値予報を開始する際には貴重なデータにもなった。PICAOは1947年に正式にICAOとして発足した。現在ではICAOは世界気象機関(WMO)とも協力して世界中での安全な航空航行サービスに関する基準と手順を定めている。
また1970年頃から米国では空港近くで航空機事故が多発した。この原因究明と対策に奔走したのが日本の藤田哲也である。彼の航空気象への貢献については「ミスター・トルネード 藤田哲也(6) 航空機の事故とダウンバーストの観測 」で述べたので、興味ある方は参照して欲しい。
彼の研究と貢献によって、米国では空港にドップラーレーダーを設置して、航空機への脅威となるダウンバーストを監視することが進んだ。日本の気象庁でも主な空港の航空地方気象台にドップラーレーダーを設置している。また空港にある航空気象観測所と合わせて、出発前のパイロットなどに航空路上の気象状況についての情報提供や助言を行って航空の安全に寄与している。

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