イースタン航空66便の事故
1975年6月24日午後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港の近くでは時折雨が降っていたが、空港の風速計は風速毎秒3 mと穏やかな風を示していた。ニューオーリンズを飛び立ったイースタン航空66便は同空港に着陸しようとして高度を下げていた。高度150mまで降下したときに、突如豪雨と突風に見舞われ、滑走路の800 m手前に墜落した。乗員113名が亡くなった。これは当時としては最大の航空機事故となった [1]。
ところが、この事故の30分以内に10機以上の航空機がこの滑走路に無事に着陸していた。66便だけに何が起こったのか?実は66便の直前に数機がウィンドシアと呼ばれる風向の急変を報告していた。しかし、それがこの事故に関連しているのかどうかはわからず、操縦ミスも疑われた。イースタン航空はシカゴ大学の藤田にこの原因究明を依頼した。
藤田はこの時の状況について、各便のパイロットが管制塔といつどこでどういう無線交信を行ったかを分析した[1]。ウィンドシアが疑われたが、前線通過時の比較的広域で起こるこのような現象が、こんなに短時間のごく狭い領域で起こり得るのか?直前に着陸した航空機にはウィンドシアを報告した機もあったが、そうでない機もあり、管制官も混乱していた。
藤田は、前年に竜巻の調査を行った際に木々が狭い範囲で回転せずに放射状に倒れていたことを思い出していた。それは竜巻による旋回風ではなく、規模こそ異なるが原子爆弾の爆発調査を行った際に見た下向きの強い風によって放射状に木々が倒れるパターンと同じだった。
彼はレーダー画像などによる気象状況の調査から、この事故が起こった前後に付近に雷雲があったことを突き止めた。彼は背振山での観測を思い出したのかもしれない。彼はレーダー画像に写った雷雲の槍型の穂先のような狭い部分に、強い下降気流があるに違いないと直感した。彼はそれをダウンバースト(下向きの突風)と名付け、イースタン航空66便だけがその雷雲の狭い部分を通過して、強い下降気流で揚力を失い墜落したとする説を1976年に発表した [1]。
ダウンバーストの発見
彼は下降気流の証拠を直接示したわけではなく、状況証拠からそう結論した。しかし、これまでそういった現象は全く知られていなかった。航空関係者にはこれに賛同した人が多かったが、多くの気象学者たちがこの新理論に疑念を呈して、論争を引き起こした。通常の風は気圧の差によって吹く。しかし、ダウンバーストは蒸発熱などによって冷却され収縮した自身の重さによって空気塊が地表付近の物体に衝撃を与えるほどの速さで落下する。藤田は当時の気象学界は誰もこの説を信じなかったと述べている [2]。
彼の説は、昔からある下降気流に名称をつけただけだとか、突風前線(ガストフロント)を見誤っただけだなどと非難を受けた。またこの非難は、自説を発表までに時間がかかる査読付きの論文誌には投稿せず、自費出版の形で直ちに論文を公表した彼の研究スタイルとも関連していた。彼は多くの経験や分析結果から来る自分の直感を信じていた。
しかし、彼は直ちにそれを証明することはできず、葛藤に苦しんだと思われる。しかし彼は決して傲慢な人間ではなく、論争に動揺して悩んで眠れない夜もあったと述べている [1]。慎重な科学者であれば、証明のための証拠を集めるだけに10年はかけたかもしれない。当初、彼はこの結果発表は慎重に行おうと思っていた。しかし、事態の解明とその対策は緊急であり、彼は少しでも早く発表する方を選んだ [3]。
ダウンバーストの観測
藤田の説が正しいことを証明するには、ダウンバーストを実際に観測するしかなかった。そこへ強力な助っ人が現れた。国立大気研究センター(NCAR)のロバート・セラフィン博士である。彼は工学者でドップラー・レーダーという最新機器を開発したばかりだった。ドップラー・レーダーはそれまでのレーダーとは異なり、風速を測定することが出来た。また複数台組み合わせることで風向も判断できた。この機器でダウンバーストによるウィンドシアを捉えられるかもしれない。
藤田はセラフィンからドップラー・レーダーの利用提供という支援を受けて、狭い領域での風の急変(ウィンドシア)の観測を行うことになった。このための資金50万ドルはアメリカ国立科学財団(NSF)が提供することになった。NFSでもこの資金提供に難色を示す人たちがおり、このとき藤田は、もしダウンバーストが観測されなかったら自分でこの資金の責任をとると考えていたようである [3]。
1978年5月19日からシカゴ空港近くに3台のドップラー・レーダーを設置して、観測を開始した。しかし、最初の10日間は何も起こらず、観測者たちに焦りの色が濃くなってきた。ところが5月29日に小さいが雷雲が発生し、小さかったにもかかわらず高度70 mで風速31 m/sという台風並みの風を捉えて、初めてダウンバーストと思われるものの観測に成功した [4]。航空機が着陸直前にこの風に遭遇すると危険なことは明らかだった。8月までに50個のダウンバーストを観測したが、彼らはこれがこんなに頻度が高い現象とは思っていなかった。まず現象を捉えることを優先していたために設置したレーダーの間隔は粗く、現象を捉えることはできても、そのメカニズムなどの詳細は得られなかった。
またこの観測結果などから、彼はダウンバーストを数キロメートル以上の比較的広い範囲で起こる「マクロバースト」と、数キロメートル以下の狭い範囲で起こる「マイクロバースト」に分けるようにした [4]。5月29日に観測したものは、強いがマクロバーストだったと判断された。狭いが強いマイクロバーストの方が航空機にとっては脅威だった。
1982年6月にコロラド州デンバーの空港付近に今度はドップラー・レーダー3台を密に配置して観測を行った。このとき藤田は、ドップラー・レーダーを真上に向けるという突拍子もないことを提案した [2]。ドップラー・レーダーは電波を発射する方向の風の動きを観測する。真上に向けると言うことは、上下方向の風の動きを捉えるということだった。これまでレーダーを真上に向けるという発想をした者はいなかった。そして6月12日、このドップラー・レーダーは風が下降しているマイクロバーストの鉛直断面を捉えるのに見事に成功した。これはマイクロバーストの存在の決定的な証拠となった。このとき併せて186個のマイクロバーストが観測された [1]。
日本で観測されたマイクロバースト(気象庁ホームページより)
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/23_draw.html#doppler
参照文献(シリーズ共通)
1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也. 藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.
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