2023年2月9日木曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(3)

 4.    クニッピングによる暴風警報の準備(2)

4.1    気象電報の利用

クニッピングは前項の経緯で明治15年(1882年)1月から内務省地理局に採用され、暴風警報体制を整備することを任された。彼は測候所をさらに8か所(鹿児島、宮崎、下関、境、浜松、沼津、宮古、秋田)増やすように進言した。しかしそれだけでなく、日本全国の気象状況を把握するための組織的な観測網による「統一された観測」と、電報を使って観測結果を「速やかに1か所に集める体制」とその全国からの観測結果を「解析する組織」を新しく設立する必要があった。

暴風警報体制の構築にはいくつかの課題があった。最初の課題は電報の高額な使用料だった。気象状況を監視するためには、多数地点の気象状況を電報を用いて迅速かつ定期的に収集する必要があった。欧米でも組織的な警報や天気予報が始まったのは、電信の発明がきっかけであり、電信を用いた気象電報は警報体制の構築のために不可欠だった。

クニッピングは、多くの国では気象電報は無料であるから1日3回の電報を無料にすべきことを要望したものの、明治政府の理解を得られずに承認されなかった。そのため、クニッピングは明治15年(1882年)4月に、太政大臣へ電報使用料を予算要求した。しかし、これも費用が高額なのと財政逼迫のため却下された。

内務省としては暴風警報のための電報は重大な公益に関することなので、せめて1日1回だけでもと再び太政大臣三条実美に伺いを出した。これに前内務卿であった大蔵卿松方正義が賛成したことから、明治16年(1883年)1月に1日1回の無料(当時の表記では無税)の気象電報が認可された [1]。

グニッピングは,電文を短くして料金を削減するために、気圧、気温、雨量は数字2字をもって、その他の要素はすべて1字をもって表すという通報形式の工夫を行った [1]。

4.2    観測時刻の調整

次の課題は観測時刻だった。明治政府は明治6年(1873年)1月1日に、太陽太陰暦から太陽暦のグレゴリオ暦へと改暦した。また、暦だけでなくそれに合わせて時刻を、日出と日没との間を等分するそれまでの不定時法(つまり季節によって1時間の長さが変わる)から、年間通して1日を24等分する定時法へと変更した。

それでも時刻は、その地方の太陽の南中時刻を正午とする地方時が用いられた。暴風警報のために広域の状況を把握するには全国の気象現象を一斉に捉えることが必要となる。そのため、気象観測は全国統一時刻による一斉観測を行うことが基本となる。当時は地方時でも生活に支障を来すことはなかったが、電報を使った気象観測結果の収集は、地方時による各地の時刻の違いの問題をクローズアップした。

各測候所は、地方時で1日3回(午前6時半、午後2時半、午後10時半)の気象観測を行っていたが、全国での気象観測を一斉に行うため、明治15年(1882年)7月から京都時での観測(午前6時、午後2時、午後10時)が追加された [8]。京都時を用いたのは、京都は幕末まで天皇がいた場所であり日本人に馴染みがあることと、東西に分けると京都は日本のほぼ中央に位置しているためだった。

なお、明治17年(1884年)にワシントンでの国際子午線会議でグリニッジ天文台の子午線が世界の時刻標準に決まり、明治19年(1886年)には兵庫県明石市を通る東経135度を日本標準時とすることが決まった(実施は翌年の1月1日)。日本標準時の子午線が東京ではなく東経135度に決まったのは、日本標準時を決める際に、内務省が京都時を使って既に気象観測を行っていることが、その一因となったようである [9]。

4.3    観測単位の調整

さらに観測の単位の問題があった。当時日本では一般には尺貫法が使われていたが、気象観測については、当時観測開始時の指導がイギリス人であったり、測定器がイギリス製であったりしたため、観測単位にイギリス式のインチや華氏を使っていた。しかしクニッピングは国際気象会議で国際計量単位であるメートル法と摂氏の採用が決議されていること、ドイツを含む多くの国もメートル法を採用していること、イギリスとアメリカもいずれはメートル法に改めるであろうことを理由として、メートル法と摂氏を使うことを提言した [10]。

これは我が国の度量衡制度に関連する重要な問題であったから、内務、陸軍、文部、農商務、工部の各省代表をもって構成する委員会に諮り、気象観測に関しては明治15年(1882年)7月1日よりメートル法を採用することが決定された [1]。それを知ったイギリス公使から、イギリスの計量単位も使うように横やりが入ったようであるが、クニッピングはそれを拒否した [3]。

こうして明治15年(1882年)7月1日から単位にメートル法と摂氏を使った気象観測が開始された [9]。これにより例えば気圧だと、水銀柱の高さに相当するミリメートル(mm)が単位となる。ちなみに1気圧の水銀柱の高さは760 mmである(760 mmHgと表記する)。このメートル法の採用は、明治19年(1886年)の日本でのメートル条約加盟の公布に先立つこと約4年、明治24年(1891年)に度量衡法として尺貫法にメートル法を併用したものが規定されることに先立つこと約10年だった。

4.4    観測手法の標準化

さらなる問題は各地で行う観測手法の統一だった。クニッピングは明治15年(1882年)8月に観測手順を統一した「観測要略」を作成した。そして、これを翻訳したものが印刷されて各測候所に配布された。これで全国の観測手法は統一されたものとなった。

また、測定器などの測候所で行う観測全般については、地理局観測課長小林一知(1835-1906)のもとで東京気象台の中村精男と和田雄治の両氏が編さんして、正式の気象観測法として明治19年(1886年)1月に東京気象台から刊行された [11]。

4.5    初めての天気図の作成

このようにクニッピングは、暴風警報を出すための統一的な気象観測と電報を用いた組織的な気象データの収集の仕組みを整えた。これらの取り組みの結果、明治16年(1883年)2月16 日に初めて天気図が東京気象台で作られ、3月1日から毎日発行された。

1883年3月1日に日本で初めて発表された天気図(気象庁提供)

フランスの天文学者ルヴェリエによってヨーロッパで初めて天気図が定期的に発行されたのは1863年(安政3年)であり、それに遅れること20年だった。当初の天気図は、左右2ページの見聞きで,左は天気図,右は天気報告だった。天気報告は、各地の観測結果と英文と和文の全国天気概況を記したもので、暴風警報を発表する際もここに記入されていた。

天気図は、当初全国21地点の測候所から電報で報告された観測データをもとに、等圧線(と後に等温線)を記入したものだった。クニッピングが一人で天気図を描き、それに英文で天気概況を記入した。印刷する時には、天気図の等圧線や等温線は画伯が再描画し、文字は名筆家が清書した。英文の天気概況は和訳され、その時の訳語として作られた低気圧などの言葉は今日でも使われている。

この天気図は、気象資料の交換として海外にも送られた。明治16年(1883年)7月には、当時アメリカの国家気象機関だった陸軍信号局から、我が国の天気図の発行がアジアへの気象事業への拡大と気象学への発展に大きく貢献するとして、賞賛する手紙も送られて来た。

東京気象台に集められた各地の天気は、天気報告として公表された。これを同年4月6日から福沢諭吉が主宰して発行していた時事新報が掲載した。この新聞は天気報告を、「一目の下全国の天気を伺ふに足るべき頗る便利有益の報告なり」と評し、日本国を縮めて一つにして「小胆近親の弊」を救うかもしれないと述べた [1]。

当時の人々の国という意識はまだ藩の延長上にあり、日本全体を一つの国とする意識は途上だった。そういう時代に毎日各地の天気が新聞に掲載されるということは、地域ごとに排他的だった人々の意識を、同じ日本人とすることにも役立ったのかもしれない。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
8  佐藤順一, 山田琢雄. 気象観測法の沿革. 気象庁, 測候時報, 8, p 414-424, 1937.
9. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(4). 気象庁, 測候時報, p 363-371, 1954.
10. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(3). 気象庁, 測候時報, p 337-344, 1954.
11. 篠原武次. 明治19年版の気象観測法と第1回気象協議会. 気象庁, 測候時報, 24, p183-188. 1957.


2023年2月6日月曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(2)

 3.    クニッピングによる暴風警報の準備(1)

 

3.1    クニッピングが日本に来るまで

ドイツ人であるエルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping)は1844 年4 月27 日にオランダとの国境に近いドイツのグレヴエ(Kleve)に生れた。ドイツの中等教育機関であるギムナジウムに学び、1862年8月から海員となった。その後、海員や海軍を経て一等航海士としてクーリエ号という汽船に乗り組んだ [5]。

エルヴィン・クニッピング(気象庁提供)


クーリエ号が東京に航海してきた時に、
大学南校(のちの開成学校)で教鞭をとっていた同じドイツ人化学者ワグネルを訪ねた。当時大学南校はドイツ語で講義が行われていたため、ワグネルは南校の教師募集があればクニッピングに連絡することを約束した [3]。大学南校では、イギリス人とフランス人の教師3名を増員を計画したが、普仏戦争でフランスが敗戦したためかフランス人の採用は見合わせることになった [1]。

本人の回想によると、明治4年(1871年)にクニッピングが上海にいた時にワグネルから教員採用の連絡が入った[3]。クニッピングは、フランス人教師が徐々に締め出される中で1870年以降もドイツ人が大学南校の教師で居れたのは、普仏戦争の勝利のおかげと述べている [3]。

クニッピングが気象学の専門教育を受けたという記録はない。しかし彼はクーリエ号で気象日誌を見つけた1968年から気象観測を行い、ハンブルグのドイツ海洋気象台へ結果を送っていた [3]。長年船員をしている間に気象に興味を持っていたようである。また天気図の解析や利用法も同様に習得していたと思われる。


3.2    明治政府によるクニッピングの雇用

明治政府は当初大勢のお雇い外国人を雇ったが、当時は人材不足もあってか、雇用された外国人には適切とはいえない者もいたらしい [6]。当時クニッピングは一船員で、一等航海士という肩書きだけで全くの無名だった。ワグネルのつてではあったが、まじめで使命感に燃えたクニッピングの雇用は日本にとって幸いなこととなる。

彼は明治4年(1871年)5月から大学南校で教鞭をとり、ドイツ語で算術から地理、幾何、作文、体操まで教えた [6]。そして、これが彼が明治政府に延べ19年にわたって雇われるはじまりとなった。

その後大学南校から変わった開成学校の講義の主流は英語となり、クニッピングはドイツ語で行う講座が狭められたため退職した。明治9年(1876年)に今度は内務省駅逓局に船員となるための試験である海技試験の試験官として雇用された。

彼には学究的な気質もあったらしい。彼は開成学校の教師時代から、妻がベルリンから持ってきた測定器を官舎に設置して気象観測を行っていた。しかし、上述したように、ジョイネルが明治8年(1875年)から東京気象台で観測を開始したためクニッピングは明治11年(1878年)に観測を中止した [3]。しかしその途中で、結果を明治9年(1876年)10月に「江戸における気象観測」と題してドイツ語の論文誌に発表している [7]。

また、彼は駅逓局の在籍時の明治12年~13年(1879年~1880年)にかけて、燈台での気象観測と船舶の航海日誌を用いて、それまでに日本に襲来した3つの台風について、それらの中心位置、経路、風向、風力分布などを調査し、それぞれドイツの論文誌に発表した。このうち2つの論文は明治15年(1882年)に海軍水路局で翻訳され、「颶風記事」という題で出版された [6]。


3.3    クニッピングの暴風警報事業化への建白書

内務省は各地で気象観測を開始したものの、それをシステム化して暴風警報の事業化を実現するにはほど遠い状況だった。彼には海技試験の試験官を務めながら、日本での警報体制の事業化に対して期するものがあったに違いない。クニッピングは雇用が満期になる直前の明治14年(1881年)に、太政大臣三条実美に対して暴風警報事業化に関する建白書を出した。この建白書は残っていないが、彼が明治11年(1878年)に書いた「毎日の気象観測に基づいて東京の天気予測を行う試み」という論文には、つぎのように書かれていた [1]。

「最近、欧米に於て各地の気象観測報告を電信によって中央機関に収集し、之に基き広範囲にわたる天気の一般状態を勘案し、来るべき天気状態を予測することが行はれている。このような予言が暴風警報として多くの船舶を沈没の危険から庇護していることは、ーつに電信と気象学の進歩によるものである。陸上および港を出た船舶に対する天気の警告は、悲しいかな十分ではない。彼等は頼りとするものがなく、荒天にいかに対処すべきか自分自身で判断しなければならない。来るべき天気状態を予測して彼等に知せるようにできるだけの努力をすることが切望される。」(元はカタカナ表記)

クニッピングの建白書はほぼこれに沿った趣旨であったと考えられている。クニッピングは明治14年(1881年)5月に契約満期により海技試験の試験官を退職した。クニッピングは、提出した建白書に対して政府からの反応に期待するものがあったのだろう。彼は解雇後も無職のまま東京に留まり、臨時の船長の仕事の依頼を断ってまで政府からの返答を待った。

当時、農商務少輔の品川弥二郎と内務省地理局長の櫻井勉は、暴風警報の整備にかねてから熱心であった。クニッピングの提言は彼らの方針に合致しており、また日本人単独での暴風警報の事業化は困難に直面していたため、彼らはクニッピングによる提案に大いに賛成した。

しかし、クニッピングの政府への再雇用はなかなか決定しなかった。どうも地理局長の櫻井勉が、元いた量地課で御雇い外国人だったイギリス人にいやな思いをしたため、外国人の雇用に反対したようである [3]。

当時地理局測量課の課員には、中村精男(後の中央気象台長)と和田雄治がいた(課長は荒井郁ノ助だった)。中村と和田はクニッピングの教え子ではなかったが、南校時代にクニッピングと顔見知りだった。中村精男は元地理局長だった品川弥二郎の親戚だった。どうも中村がそのつてで品川にクニッピングの採用を後押したようである [1]。そうした人間関係の妙もあった。

12月のクリスマスの頃になって、ようやくクニッピングに内務省地理局測量課に雇い入れることが伝えられた。なお、クニッピングは政府からの返答を待っている間に貯金を使い果たし、あきらめて帰国する寸前のことだった [3]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4.
鯉沼寛一. 初期の日本気象業務史(4)  . 気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.



2023年2月4日土曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(1)

 1. はじめに

日本での暴風警報と天気予報などの気象事業は、他の政府の制度や産業と同様に明治時代に開始された。それらそれぞれの発達に物語があるように、気象事業の生誕と発達にも物語がある。ただ気象事業の場合は、明治政府の当初の制度設計に組み込まれていたものではなかった。外国人による提言を新規に採用する形で始まった。

また、その事業の性格からして、まず点で設立してそれを面的に広げていくという形は取れなかった。つまり、最初から日本全土を対象としたシステムが必要であったため、まずその構築を迫られた。そして当時の日本にはそのシステム設計を行える人がいなかったため、一人の御雇い外国人にその構築を全面的に頼ることから始まった。

明治期の気象事業については、まず当時の海運の状況から始まる。幕末まで大船の建造は禁止されていた日本は、島国ということもあって、明治維新後に当時の産業振興によって海運が急激に増加した。しかし、船の安全な運航のための知識を持った人だけでなく、多数の船のための港のインフラや情報網も追いつかなかったと思われる。船舶の遭難は少なくなかった。明治7年には船舶数431,983艘のうち、難破または漂流した船舶は1199艘に上った [1]。

御雇い外国人によって日本の近代化が進められていくと、それらの人々の中から欧米のように電信を用いた船舶向けの暴風警報体制の構築を進言する者が出てきた。ところが、日本では幕府が19世紀初めから天文観測の補正のために気象観測を行っていたものの、船舶の遭難防止のための組織的な気象観測と警報体制の構築については全く経験がなかった。

幕府の天文方で行われていた気象観測のような1か所での観測は、測定器を整備してその取り扱い方さえわかれば行うことができる。しかし、暴風警報体制という組織的な気象事業には、各地の気象観測地点を設立し、それらを結んでその観測結果を瞬時に1か所に収集するためのネットワークと観測結果を定期的に分析する中心施設というインフラストラクチャの構築を必要とする。

しかもそれだけではなく、各地で行う観測時刻の同時性や観測単位などの一様性を確保するために、当時未発達だった統一された時刻や度量衡という社会インフラストラクチャの整備の一部も合わせて行う必要があった。さらに統一された測定方法という全国の多くの従事者への指示・教育も必要だった。そう考えると、組織的な気象事業を行うためのそれらの整備は、国家を挙げた一大事業であったことがわかる。

明治政府は、とりあえずいくつかの測候所を設立したものの、そこから先に具体的に何をすべきかのグランドデザインを描ける人はいなかったようである。それを行ったのはドイツ人のエルヴィン・クニッピングだった。

彼の日本の気象事業に対する熱意あるまじめで誠実な取り組みによって、日本の気象事業は比較的早期に実現したと言っても過言ではないだろう。そのことはあまり知られていないのではなかろうか?

日本での気象事業の開始については、本書の「7.近代日本での気象観測と暴風警報」に記述した。ここではそれらの設立に大きな役割を果たした御雇いドイツ人エルヴィン・クニッピングによる明治期の日本の気象事業の立ち上げについて補足する。

2. 明治初期の日本の気象観測を巡る状況

日本では、明治6年5月にイギリス人技師ジョイネルの建議により、東京で気象観測を行うことが決まった。そして工部省測量司によって気象測器一式(地震計を含む)のイギリスへの発注が行われ、それらは赤坂の葵町3番地に設置されることになった。

ところがこの観測の目的はよくわからない。そもそも気象学そのものが知られていなかった。突然にこの話を聞かされ、後にこの気象観測の主任となった三等技手の正戸豹之助は、当時出張先で「初めて気象学なる語を耳にしたるは京都出発の際にして、何の事やら解する能はず。当時之を同僚の先輩に問ひたるも亦知る人なかりき(元はカタカナ)」と述べている [1]。

そういう中で始める気象観測は、欧米と同じようなことをやっているという国家としての体裁を整える意味があったのかもしれない。欧米のように、気象情報はいずれは産業や国民健康のための基礎情報になるという考えもあったかもしれない。ともあれ、明治8年(1875年)6月1日に組織改編された内務省測量司で気象観測が開始された(東京気象台とも称された)。そして、観測結果は横浜の英字新聞に掲載された。

赤坂葵町(現在の東京都港区虎ノ門2-10 ホテルオークラのあたり)の気象観測施設
(気象庁提供)

当時の日本は蒸気船を持つのが一種の流行になっていたようである。そして、日本人の所有者や乗組員が機関の取扱いを習得し、航海術を体験したと自信を持って乗組んだ船が、いざ海へ出ると直ちに暗礁や砂州で座礁したりすることが多かったらしい [2]。クニッピングも測候所設立のために後に日本各地を海路で旅行した際、「小さくて蟻装もお粗末、そのうえ拙劣な操舵術によって導かれた沿岸航路の船旅は、今までに経験した最も危険なものであった。」と述べている [3]。

いずれにしても周囲を海に囲まれた日本では、海運の安全確保は最重要事項の一つであり、それには気象も大きく関係している。まず御雇い外国人から、「電報を使ってまだ暴風が到達していないところに暴風の到来を知らせることができれば船舶とその人命の被害を軽減できる」という海難の防止、軽減のための欧米のような暴風警報の必要性の声が上がった。

最初に声を上げたのが、政府が雇い入れて地質や鉱山の調査を行っていたアメリカ人アンチセルで、明治5年(1872年)9月に暴風警報必要性の提言を行った。明治7年(1874年)11月には同じアメリカ人ライマンが、そして明治9年(1876年)5月にはイギリス人のジョイネルも暴風警報の必要性の提言を行った [1]。

しかし、必要性がよく理解されなかったのか、政府組織がまだ十分に固まっていなかったためなのかはよくわからないが、彼らの提言は受け入れられなかった。もしこの時彼らが主導する体制整備が行われていれば、日本の気象事業は全く異なった形になっていたかもしれない。

明治10年(1877年)に、組織名を測量課に変えて気象観測を行っていた内務省測量課課長の荒井郁之助は、内務卿大久保利通の承認を得て、内務省直轄の測候所を各地に設置して暴風警報の発表を行う方針を打ち出した [4]。これらの地点選定に当たっては、電信線が近くに来ていることと海から来る台風などの暴風を捉えるために海岸に近いことが条件だった。

ちなみに、この測候所の「測候」という名称は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェル(彼は天王星を発見した天文学者ウィリアム・ハーシェルの息子である)が書いた「Meteorology(気象学)」という本をアメリカ人が中国で翻訳した際にこの字を充て、それが日本に入ってきたとされている [1]。

明治11年から明治15年(1878年から1882年)にかけて内務省地理局は長崎、新潟、野蒜(宮城県)に直轄の測候所を設置した。地理局の呼びかけに応じて、県などの地方政府も広島、和歌山、京都、青森、金沢、高知、大阪に測候所を設置し、北海道開拓使も既にある函館、札幌に加えて留萌、根室、増毛に測候所を開設した。

しかし、暴風警報の実現には他にも様々なことが必要だったにも関わらず、暴風警報の体制整備は測候所開設だけで行き詰まってしまった。そういう状況の日本において暴風警報体制の設立を提言し、実際にそれを実現させたのはドイツ人クニッピングだった。

(つづく)

参照文献

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.


2023年1月26日木曜日

データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和

このブログの「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」においては、真鍋淑郎、荒川昭夫、笠原彰の3名を挙げた。いわゆる気候モデラーとは少し異なるかもしれないが、ここでは数値予報モデルと気候モデルに対して世界に革新をもたらし、彼らに勝るとも劣らない活躍をした佐々木嘉和(1927-2015)について述べる。

佐々木嘉和の写真(Norman Transcript紙に飛びます)

データ同化と気象予報

最初に、佐々木嘉和のメインの研究分野の一つだったデータ同化における変分法の役割について説明する。これは現在の数値予報になくてはならないものである。

数値予報モデルで予報を行うには、計算開始時に初期値をモデル格子に設定する必要がある。数値予報の開始当時は、この初期値は観測値をもとに作成された。ところが、数値予報モデルは規則正しく並んだ格子点での値を計算するように作成されているが、実際の観測点はその格子上にはほとんどない上に、海上の格子点のようにその付近に観測点が全くないこともある。そのため、数値予報では最初の格子点値(初期値)を、どうやって作るかが問題となった。

当初は、気候値を使う場合もあったし、なんらかの手段を用いて最寄りの観測点からの内挿や外挿によって値を決めることもあった。これらの初期値作成作業は予報の場合は「解析」と呼ばれることもある。

この全球規模での初期値決定は、予報精度に大きく影響するにも関わらず、決定的な作成手法がなかなか見つからなかった。等圧線などを用いた内挿外挿には、主観的な要素が入り込む余地が多大にある。それらは計算を進める間に大きな誤差となった。そこで生まれたのが、データ同化という考え方である。この詳しい説明は専門の参考書などに譲るが、一言で言えばさまざまな観測値から、格子点上で物理学的に最も誤差の少なくなる最適値の組み合わせ(解析値)を計算し、それを初期値として用いることである。

そして佐々木嘉和は、データ同化の最適な解析値を決定する方法として数学的な「変分法」を使うことを提唱した。これは誤差を含み得る観測値を使って時空間的に誤差を最小にした一貫した解析値を算出する方法である。計算は複雑だが、計算機の進歩がこれを後押しした。

この手法を利用してデータ同化技術を発達させることによって数値予報の際に、全球の3次元空間と時間軸に対して物理学的に一貫した(つまり誤差が最小となる滑らかな)初期値を算出できるようになった。数値予報においては、「予報モデル」とこの初期値作成のための「データ同化モデル」は、車の両輪のように重要なものである。

気候再解析

変分法を用いたデータ同化手法は、3次元の空間で最適な解析値を導出できるだけでなく、時間軸に対しても最適な解析(同化)を行うことができる。そのため、この解析は時間軸を加えて「4次元変分法」とも呼ばれる。

そして、これによって導出された数値予報のための初期値は、その時の最善の気候値と考えることも出来る。さらに気候値の場合は、予報と異なって計算しようとしている日時以降に観測された値も時間軸の解析に利用することが出来る。このため、数値予報のためのデータ同化を「3.5次元同化」、気候値のためのデータ同化を「4次元同化」と呼ぶ場合もある。

この4次元同化を用いて作成された気候値は「気候再解析」と呼ばれ、過去の気候値を一定の精度で再現できる。過去天気図との違いは、地上での気圧や風だけでなく、気象の多くのパラメータ(要素)が、全球3次元で物理学的に一貫した精度の値を持っていることである。

この再解析された3次元での一貫した精度の全球格子点での気候値は、気候科学を変えた。これによって、このデータセットがある限り、過去におけるあらゆる場所のあらゆる時刻の気象(例えば天気図)をある一定の精度で再現できるようになった。つまり、現在気候が過去気候とどの程度変化したのか、あるいは変化していないのかを定量的に比較・議論できるようになった。

現在の地球温暖化などにおける過去気候との比較も、再解析の結果に基づいて行われることもある。変分法を用いたデータ同化手法は、数値予報だけでなく、現在の気候変動を議論するための基礎技術ともなっている。

佐々木嘉和の若い頃と変分法

佐々木嘉和は1927年に秋田県に生まれた。彼は1954年の台風による青函連絡船「洞爺丸」沈没の被害に衝撃を受け、それが後の彼の人生に大きな影響を与えた。このブログの「正野スクール:正野重方と日本の気象学者」で記述しているように、彼は東京大学の正野スクールの出身であり、1955年に東京大学で正野重方教授を指導教官として博士号を取得した。彼の研究テーマは一貫して気象学への変分法の適用だった。当時彼は機械式計算器を使って研究していた。

彼の研究は1956年の論文「台風の進路予報の研究」に結実し、共著者の都田菊郎博士とともに日本気象学会賞を受賞した。1956年にフルブライト研究員としてテキサスA&M 大学へ渡り、そこでの研究を開始した。1960年にはオクラホマ州にあるオクラホマ大学へ移り、ウォルター・ソーシエ博士とともにそこで気象学教室を創設した。1970年に発表した論文が変分法の気象学への応用の記念碑的な論文となった。この論文は、1980年代後半に世界の主要気象センターで開発されて、現在も運用されている4次元変分法によるデータ同化の礎となった。

佐々木嘉和の手法は、各国の数値予報の初期値作成の解析に用いられただけでなく、米国海軍研究所の海洋気象学部門のデータ同化システムとしても長年使われた。このシステム開発の際に使われたのが、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の荒川昭夫の大循環モデルと、オクラホマ大学の佐々木嘉和が開発した変分法の知識だった [1]。藤田が開発した衛星技術もそうだが(ミスター・トルネード 藤田哲也(5)参照)、国家の最重要機密である軍のシステムに彼らの技術が使われたことが、日本人気象学者たちがいかに優秀だったかを示している(当時の気象衛星は軍事技術でもあった)。

なお、数値予報の実用化研究はもともと米国では軍と気象局が関与したプロジェクトとして始まった。気象の軍事的な重要性から、一時期は軍が予報や観測を独自に行っていたが、むしろ軍以外の方が効率的で発展が早かったことから、徐々に軍でも民生用予報の利用が主流となり、現在では軍による気象活動は特殊なものに限られている。

また気象における変分法は、その応用として気象レーダーの解析にも用いられている。ドップラーレーダー観測や竜巻予報についても、変分法がその実用化を大きく促進した [2]。さらにデータ同化は、コンピュータサイエンスにも影響を及ぼし、オクラホマ大学の工学部のコンピュータサイエンス部では、データ同化の講義が行われている [3]。

気象の顕著現象の研究

佐々木嘉和はオクラホマ大学で竜巻などの気象の顕著現象の研究を進めるとともに、同大学の教授陣の確保に大きな役割を果たした。今日、オクラホマ大学の気象学研究学科は全米でも有数の規模を誇っており、雷雨や悪天候の理解と予測に関する研究で国際的にも知られている。彼は、1974年に優れた研究教授としてジョージ・リン・クロス教授の称号を授与された。佐々木嘉和は、同大学で最初にこの称号を得た一人である。なお、ジョージ・リン・クロスは植物学の教授で同大学の優れた学長だった。

オクラホマ大学のホルンバーグホール
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HolmbergHall2.jpg

オクラホマ大学は1980年に米国海洋大気庁(NOAA)と共同でメソスケールの気象の共同研究所を創設した。そして、佐々木嘉和がその所長となった。彼は2000年に日本気象学会の藤原賞を受賞したほか、研究分野での卓越した功績が評価されて、米国気象学会(AMS)のフェローに、2014年には同学会の最高栄誉である名誉会員となった。

若手研究者の育成

佐々木嘉和は多くの大学院生を指導し、修士号や博士号を取得させた。教育者としての彼の重要な役割の一つは、学生が自分の力で成功しようとするのを積極的に支援することだった。彼はすべての学生を、学問的にも人格的にもしっかりとした形で支援した。その結果、彼の講座からは53人の修士号取得者と19人の博士号取得者を輩出した。そして、その多くがその後素晴らしい業績を上げている。

佐々木嘉和の教え子であり、気象学者であるジョン・ルイスは、「佐々木は科学者であると同時に哲学者であり、学生の能力を引き出す術を心得ているソクラテス的な学者・教師であったと思う。質問し、説教せず、語らず、ただ提示し、そして学生に好きなようにやらせる。」と述べている [4]。その教育的功績が認められ、佐々木嘉和は2004年に「オクラホマ高等教育殿堂(Oklahoma Higher Education Hall of Fame)」入りを果たした。

また、佐々木嘉和の先駆的な功績を称えて、アジアオセアニア地球科学学会では、2009年から彼の名前を冠した「Sasaki Symposium in Data Assimilation for Atmospheric, Oceanographic, and Hydrological Applications」という国際シンポジウムを開催している。このシンポジウムは、地球科学分野のデータ同化への変分法の適用を焦点にしている。このシンポジウムは、これまでタイ、韓国、インド、台北、シンガポール、オーストラリア、そして日本で開催されて、多くの成果を上げている。

日米の産官学連携の推進

また佐々木嘉和は気象学の発展だけでなく、研究者としては珍しく地元の産業と日本の産業を結びつけることにも大きく貢献した。

佐々木による産業界との連携は、まずオクラホマ大学を支援する形で行われた。彼は、オクラホマ大学への3つの寄付講座(日立、旭硝子財団、ウェザーニューズの名を付したそれぞれの講座)の設立に尽力した [5]。また、日立製作所の製造工場、アステラス製薬、TDK、ウェザーニューズなどの日系企業のオクラホマへの誘致にも大きな役割を果たし、多くの地元の人々の生活にも密着した活動を行った [5]。

さらに、日本オクラホマ協会を設立し、オクラホマ州と日本との間に姉妹校や姉妹都市を提携することに貢献した。京都府、栃木県、秋田県などにオクラホマ州の都市との姉妹都市があり、また日本の数多くの中学校、高校、大学が、オクラホマにある学校との姉妹校となっている。

彼は、日本とオクラホマ州の文化振興、経済発展、学術交流への多大な貢献が認められ、オクラホマ州知事から「ヨシ・ササキの日」という形で2回表彰された。また彼は日本外務省から「日本名誉総領事」に任命された [5]。

まとめ

戦後すぐから、気象学、気候科学の分野では、多くの日本人が活躍してきている。その中でも真鍋淑郎は地球温暖化の将来予測を通して気候科学を変えた。荒川昭夫はモデリング技術を通して気候モデルを変えた。笠原彰は気候モデルプログラムのオープンソース化を通して気候モデルの文化を変えた。

そして、佐々木嘉和は、変分法を通して数値予報と過去に対する気候科学を変えた。また、文化・経済交流を通して、オクラホマ州の日本への見方を変えたといえるかもしれない。何れも気象学者であるが、その活躍は気象学の分野を超えている。今後もそういう世界で活躍する日本出身の気象学者が出てくることを期待したい。

(つぎは「日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(1)」)

参照文献

1. XuLiang. Yoshi's NRL Monterey Connection. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

2. Gao Jindon. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

3. Lakshmivarahan S. Reminiscences on Dr. Yoshi Sasaki. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

4. Lewis John. My Teacher. (編) Seon Ki Park, Xu Liang. Data Assimilation for Atmospheric, Oceanic and Hydrologic Applications (Vol. III). Sprigner, 2015.

5. Memorial services planned May 9 for OU weather pioneer Yoshi Sasaki. (オンライン) 2015. https://www.normantranscript.com/news/local_news/memorial-services-planned-may-9-for-ouweather-pioneer-yoshi-sasaki/article_504a0f27-ae5f-524b-82b2-cc84707beb31.html.



2023年1月17日火曜日

風神と雷神

古今東西、昔は大風や雷は神様が起こすものと思われていた。そして、それを引き起こす風神と雷神は、俵屋宗達の風神雷神図が有名である。風袋を持つ風神と太鼓を叩く雷神である。この風神と雷神は日本人と相性が良かったようで、尾形光琳や酒井抱一によっても再描写されている。

俵屋宗達の風神雷神図

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%A5%9E%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E5%9B%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Wind-God-Fujin-and-Thunder-God-Raijin-by-Tawaraya-Sotatsu.png)

天人相関説と気象学(2) 日本での天人相関説 」で述べたように、9世紀後半から10世紀にかけては、災害や怪異を天の譴責ではなく神・怨霊の崇りと見なす傾向が朝廷内で強まった。その頃から天神信仰の一環として風神雷神があったようで、北野天神縁起絵巻にも太鼓を持った雷神が描かれている。

また、このような風神雷神は仏像(正確には眷属像だが)にも残っている。その像としては三十三間堂の風神と雷神が有名だろう。これは鎌倉時代の作と考えられており、国宝となっている。なお、博多の櫛田神社の拝殿の破風に木彫りの風神と雷神がある。櫛田神社の創設は天平時代と古いが、現在の社殿は豊臣秀吉によって造営された。

 櫛田神社の雷神

 

櫛田神社の風神

この風袋を持つ風神と太鼓を叩く雷神という形はどこが起源なのかは、はっきりとはわからない。シルクロードのタクラマカン砂漠の仏像の絵にも風神と雷神が描かれているが、その形は日本のものと大きく異なっているそうである。雷神はなぜか鶏と関係があったらしく、鶏に似た怪の姿の雷や獣との間の子みたような奇怪な雷などいろいろあるらしい[1]。

さらに、西洋の風神と雷神は日本とはだいぶ趣が異なるようである。ギリシャ神話の風神アイオロスは、袋を持った神である。ホメーロスの長編叙事詩「オデュッセイア」において、トロイ戦争後ポセイドンの怒りを買って放浪していたオデッセウスは、アイオロス島(エオリア島と記すこともある)に漂着した。風神アイオロスから西風とそれ以外の風を別々に詰めた袋をもらい、西風を詰めた袋を開けることによって無事帆船で故郷イサカに帰着できそうになる。ところが、袋に宝物が入っていると思った乗組員が他の風が入った袋を開けたため、逆風によってアイオロス島に舞い戻ってしまうのは有名な話である。

また、アテネにある風の塔にはそれぞれの風向によって8つの風神が彫られているが、彼らのいくつかは袋のようなものを持っている。しかし、西洋の風神には、むしろ口から風を吹く神の像も多い。


風神アイオロス

一方で、西洋の雷神はゼウスであり、稲妻は彼が放つ矢である。また北欧ではトール(またはソー: THOR)という雷の神も知られている。

雷神トール

(https://en.wikipedia.org/wiki/Thor#/media/File:M%C3%A5rten_Eskil_Winge_-_Tor's_Fight_with_the_Giants_-_Google_Art_Project.jpg)

雷の象徴は西洋では稲妻であるのに対して、日本では雷鳴である太鼓であることは対照的である。日本の大太鼓は直径が数メートルになるものもあり、西洋のドラムよりはるかに大きく、ズシーンと響く音に迫力もある。また、日本では祭りというと大小の太鼓が使われることが多い。日本人は太鼓の音が好きなのだろうか?日本の雷神が太鼓を持っていることは、そういうこととも関係があるのかもしれない。

(次は「データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和」)

参照文献

[1]中谷宇吉郎, 雷神, 中谷宇吉郎随筆選集第三巻, 1966