2022年10月25日火曜日

風船爆弾(3)

 3.   風船爆弾の開発

陸軍では「ふ」号兵器の開発を登戸研究所(第九陸軍技術研究所)に託し、その責任者を草場季喜少将が務めた。

3.1    気球の材質と気密性

1933年頃陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て気球の空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかった。彼は軍籍を離れて、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でこんにゃく糊を塗布した和紙を使用することを考えついていた。なお、1940年に近藤は病死したが [10]、国産科学工業研究所は、風船爆弾の製造には民間企業として大きく貢献した。

「ふ」号兵器の開発において、登戸研究所では気球の素材として手に入りやすくて軽い和紙が検討された。その材料には繊維が長いコウゾが選ばれた。当時和紙は手漉きだったが、主な労働力は既に動員されており、1個に600枚の和紙を使う気球の製造予定数25,000個を手漉きで作れる労働力は残っていなかった。和紙を大量に生産するため、陸軍登戸研究所で機械で大量に漉く方法が開発された [1]。これによって製造された和紙の品質を均一とすることにも成功した。

気球表皮の貼り合わせた和紙は、中の水素ガスを漏らさないことが重要だった。原子番号1の水素原子(H)は最も最も小さな原子であり、水素ガス(H2)は、表皮の分子レベルの隙間から漏れやすい。長時間の気密性を保つため、合成ゴム、天然ゴム、いろんな糊材、油、油布などが試験された。その結果、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせると最も水素が漏れないということがわかった [11]。

こんにゃく糊には防腐剤と色素が混入されて、色の濃淡で気球皮膜のむらの有無を検査した。しかし、1 kgのこんにゃく芋から糊はわずか90 gしか出来ない [3]。こんにゃく芋の栽培には時間と手間がかかるため急な増産もできない。こんにゃく糊の風船爆弾への大量使用は、日本中の食卓からこんにゃくを消した。なお、こんにゃくはこのように戦前は糊としても使われていたようである。でなければ、こんにゃくを糊として使うということは思いつかなかったかもしれない。

アメリカで風船爆弾が捕獲されたとき、その気球表皮の素材がMIT(マサチューセッツ工科大学)などで分析された。この気球の気密性は当時のアメリカの気球の性能を凌駕していた。その秘密が和紙を貼り合わせた接着剤にあることはわかったが、接着剤が何で出来ているのかは戦後までわからなかった [3]。こんにゃくを食べない欧米人には、よもや食用の芋を用いているとは想像だにしなかったろう。戦後、風船爆弾は日本でこんにゃく爆弾と揶揄されたようだが、大量に準備可能でかつ水素ガスを最も漏らしにくい接着剤がたまたまこんにゃくだっただけで、水素を通しにくい接着剤の開発・発見は評価すべきものだろう。

3.2    高度制御装置

「ふ」号兵器の技術者にとっての最大の懸案は、気球が強い西風が吹く高度約10kmの太平洋上を50-70時間かけて飛行する間、この高度をいかにして維持するかということだった。この高速の西風に乗れないと、徐々に浮力を失った風船爆弾はアメリカ大陸にたどり着けずに、太平洋上に墜落してしまう。

雲のない成層圏では、昼間は気球は強い日射を受けて、中のガス温度が30℃以上にまで上昇する。そうすると、ガスの膨張のために気球の内圧が上昇して気球が破裂する。一方で、夜間は-50℃にまで下がるため、気球は低温で収縮して浮力を失って高度を下げる。そこで、高圧時の対処として気球の底部にガス放出弁を設置して高圧(高浮力)時にはガスを放出し、低浮力による沈降時には高度制御装置によってバラスト(砂袋)を投下することでこの問題を解決した [1]。なお表皮の製造状況によっては、低温のためだけでなく、水素ガスが気球表皮から少しずつ抜けて高度を下げることもあった。

高度制御装置は登戸研究所で開発された。それはアルミ製の車状の環で、環の周囲から最大で28個のバラスト(2.7kgの砂袋)と4個の焼夷弾が支索で吊り下げられた(焼夷弾はバラストを兼ねていた)。気球が浮力を失って、装置内のアネロイド気圧計によって予め設定された高度(290 hPa、約9000 m)以下に達するとカウントが行われた。そして、カウント毎に設定された爆薬が小型電池によって着火されて、それによって支索が切断されて、順番にバラストが落下するようになっていた。砂袋のバラストがなくなると焼夷弾が落下した。

支索が切断された際に、同時に3分間燃焼の導火線に着火され、バラストが落下しても高度が9000 mにまで回復しない場合は、3分後に次のバラストの支索を切り離すように設計されていた(高度が回復すれば、導火線が燃え切っても支索は切断されない) [8]。つまり高度が回復するまで3分毎にバラストを切り離すようになっていた。

バラストの投下で重量が軽減した風船爆弾は再び約11,000 mまで上昇し、強風に流されながらガスの減少や収縮によって再び設定高度まで沈降する。そうするとさらにバラストを切り離して上昇する。このプロセスを繰り返すようになっていた [1]。この高度制御装置の構造は最高の機密となった。

風船爆弾の高度制御装置とそれに吊された爆弾とバラスト(砂袋)。横を向いた筒がバラストとしても使われる焼夷弾。指定の気圧にまで下がると、カウント数に応じて車状の環の下につるされた砂袋(と最後は焼夷弾)が落下する。これが繰り返されて、最後に中央に下向きにぶら下がっている黒色の15kg爆弾が放出される。車状の環から上に延びている線は、3分後にさらにバラストを切り離すための導火線。[1]より。
なお後には、導火線を使ってバラストを切り離す方式ではなく、バケットを使って指定の気圧になるとスイッチが入って中の一定量(約3 kg)の砂を放出する型の高度制御装置も開発された。これは車状ではなく箱形で、簡便な小型の機構で確実に動作する優れたものだった [8]。この型もかなりの数が製作されたようであるが、製作後に空襲で失われた分もあり、これがどの程度実際に使われたかはよくわかっていない [3]。

3.3    成層圏の環境への対応

風船爆弾が成層圏で遭遇する技術的な問題は、装備品が遭遇する異常な低温と低圧だった。日本陸軍の装備は、すべて-30℃の環境下で使用できるように設計されていた。しかし、成層圏の気温-50℃という環境ではゴム部品やバネの弾力性が失われ、電池の出力も大幅に低下した。そこで低温用の部品や電池などについて、かなりの研究が行われた。また同様に高度約10 kmの気圧(約260 hPa)になると、バラスト投下用の爆薬が着火しなかったり導火線の燃焼時間が延びたりした。しかし、爆薬と導火線の問題の抜本的な解決法はなかったようである [8]。そのためにも爆薬や導火線を用いないバケット方式の高度制御装置の開発が望まれた。

日本にとって最も困難だったのは、風船爆弾の飛行を確認するために、安定して動作するラジオゾンデを開発することだった。ラジオゾンデとは、気象センサー(ゾンデ)などから得られた信号を無線で送信する装置である。成層圏の低温・定圧下でも長時間安定して動作することと、発信した電波が数千km先まで届く周波数を安定して確保することだった [8]。

その主な目的は、気球のガス温度の測定、内圧と外圧(高度)の測定、高度制御装置とガス放出弁の作動状況を送信することだった。また発信方位と時刻から、気球の飛行コースも推測できた。測定気圧から気球の高度(降下、上昇)がわかれば、バラストをいつ投下したかがわかる。当時、成層圏の過酷な環境で長時間稼働するラジオゾンデはなかった。風船爆弾開発の成功は、このラジオゾンデにかかっていた。

また、ラジオゾンデには電力が要るが、電池は低温になると性能が低下した。苦労したのは、-50℃という低温でも安定して動作する電池の開発だった。1944年4月から9月まで半年かかってさまざまな試験を行い、最終的に電池の周りを不凍液で覆って保温し,これを二重セルロイド製保温箱に収めて電源問題を解決した [12]。

ラジオゾンデの機能を確認するため、さまざまなモデルが開発され、気球に吊り下げられて実験が行われた。さまざまな研究の結果、ようやく適切なラジオゾンデが開発された。気球に取り付けて自由飛行させたところ、80時間連続で作動して西経130度まで飛行情報を伝えた。11月から3月までの冬季であれば、気球は3日(72時間)で太平洋を横断できると結論づけられた [3]。この高高度で長時間動作するラジオゾンデの性能は、おそらく当時世界最高のものだった。

3.4    飛行実験

作戦を成功させるためには実際の気球の飛行経路を追跡し、北米に到達する可能性が高いかどうかを確認しなければならない。発射場の準備と並行して、陸軍気球連隊(これについては後述する)は電波兵器の開発を担当する第五陸軍技術研究所の協力を得て、無線方位探知機を装備した気球位置の標定所の設置を行った。これらの標定所は青森県の淋代(古間木)、宮城県の岩沼、千葉県の上総一宮に設置された [1]。

そして、1944年2月から確認のための気球が上総一宮から打ち上げられた。これは後述の海軍の潜水艦を用いた作戦用に既に製作されていたものとされている [1]。その後、場所をいくつか変えて実験したようである。この実験による不具合を改修した結果、飛行経路や速度、投下装置などが正確に作動することなどがわかった [3]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.




2022年10月22日土曜日

風船爆弾(2)

 2 風船爆弾の発案

2.1 風船爆弾の目的

1942年4月のドーリットル空襲による日本本土への不意打ちを受けて、アメリカ大陸に対する報復攻撃が検討された。その候補として「ふ」号兵器の重要性が高まった。1943年4月に川崎市登戸の第九陸軍技術研究所(登戸研究所)に、東京工業大学学長の八木秀次、中央気象台長の藤原咲平、東京帝大工学部教授の佐々木達治郎、同じく真島正市を最高顧問として、アメリカ大陸を直接攻撃するための気球兵器の研究開発プロジェクトが本格的に開始された。これは「ふ」号作戦と称された [3]。

しかし、気球はアメリカまでおよそ8000kmの太平洋上を横断しなければならない。そのためには気球は直径10 mの大型となり、気球本体の重さも含めて200kg 位になる。高度維持のためなどなどさまざまな装置を積まなくてはならないので、最終的に積める爆弾の重さは30kg 位になる。さらに風まかせで飛行する気球のため、攻撃場所をアメリカのどことピンポイントで狙うことはできない。30kg程度の爆弾(実際には15kgの爆弾1個と5kgの焼夷弾4個)では、アメリカの産業や軍事施設に大きな損害を与えることは困難だった。

この攻撃の効果は、むしろいつどこに爆弾が落ちてくるかわからないという心理的恐怖による厭戦気分をアメリカ国民に与えることが考えられた。また乾季に焼夷弾を広範囲にばら撒けば、太平洋岸の広大な森林に火災を発生させることも考えられた。これは、アメリカ人に恐怖と混乱を与える一種の謀略兵器だった。

2.2 気象の研究

本書の「9-4-1 日本の高層気象観測」で経緯を述べているように、日本では1920年に高層気象台が設立された。そしてその高層気象台が上げた気球観測の結果、「9-4-2 高層気象台でのジェット気流の発見」で述べているように、1924年12月2日に高度10kmより少し低い高度で風速72m(時速260km)という強い西風を観測した。その後、このような強い西風はまれな現象ではないことが確認された。これは今日でいうジェット気流の発見だった(ジェット気流の呼称が定着するのは第二次世界大戦後である)。当時の高層気象台長の大石和三郎は、この結果を論文にして世界に発表したが、この論文がエスペラント語で書かれていたためか、日本以外ではほとんど関心を引かなかった。

ちなみに欧米でも高度10km前後の高高度で強い西風があることは、本書の「9-4-2」で述べているように、第一次世界大戦中に気球観測に携わっていたアメリカの物理学者ミリカンが気づいていた(ミリカンは後に電荷の発見でノーベル物理学賞を受ける)。しかし、彼はそれを例外的なまれな現象と考えており、冬季にほぼ常時吹いていることには気づいていなかった。欧米でこの概念が変わるのは、本書の同じところで述べているように、第二次世界大戦中に高高度を飛ぶようになった爆撃機が、強い西風にしばしば遭遇してからである。ヨーロッパでは向かい風のため途中で燃料がなくなって不時着したり、太平洋では強風により爆撃のための正確な照準が出来なくなったりしたことがあった。

中央気象台の気象学者だった荒川秀俊(1907-1984)は、戦時中の1942年秋にラバウルに派遣されたが、そこでアメリカ軍の激しい空襲に遭った。その際にこの空襲に報復できる何か手段はないかと考え、気球に爆弾を搭載して強い西風を利用したアメリカへの直接攻撃を思いついた。そして、このアイデアを同年11月に日本へ戻った際に中央気象台に申し出た [5]。1943年に中央気象台は、風船爆弾のアイデアを海軍にもちこみ、これが海軍の風船爆弾の計画となったとも言われている [3]。荒川は1943年夏に風船爆弾のアイデアを温め、次のような調査研究を行った [6]。

1)風船爆弾が飛行する高度はどの位が適当なのか?

2)風船爆弾を用いる季節はいつが適当なのか?

3)日本で発射してからアメリカ大陸上空に到達する迄の所要時間はどのくらいで、その到達確率はどのくらいなのか?

4)風船のたどる全行程の流線の変動の具合、つまり風船の拡散の程度はどの程度か?

5)実際に発射するにあたり気象学上、発射に適するかどうかを判断する手がかりはあるか?

一方で、陸軍登戸研究所(第九陸軍技術研究所)は、それまで研究していた「ふ」号兵器に気象の知識が不可欠であるため、それについて中央気象台に助言を求めた。そこで両者の思惑が合致したようである。荒川秀俊は登戸研究所の「ふ」号兵器の研究嘱託者の一人となった。

当時、アジア大陸から日本上空を通過する風については、かなり正確なデータがあったが、太平洋上空の風は未知だった。彼はアメリカ水路局が発行する北太平洋航路天気図(Pilot Charts of the North Pacific Ocean)の海抜高度での月平均の気圧分布と気温分布から、気象学を利用して気球が流されると思われる太平洋上空の気流の推定図表を作製した [6]。これは月平均値なので大まかな気流がわかるだけであった。

さらに、アメリカ大陸上空に到達するまでに要する所要時間や全行程にわたる流線の変動を知るために、彼は神戸海洋気象台の北太平洋天気図などを用いて、今度は1940年の冬季の毎日の高層気流図を作成した。これをもとに気球を発射した際の想定流跡線図を作成すると、約2~3日で米大陸の西海岸に確実に達すると考えられた。また天気図のパターンや発射場所によっては、気球がソ連領をかすめたり、拡散の度合いが大きくなることもわかった。それらをもとに、気球の発射時期、場所、拡散程度、到達に要する日時などを判断する資料が作成された [6]。

これらは、かなりの推定を入れて作られたものだったが、当時において頼りとする唯一の資料であり、この資料がこの兵器の促進の大きい推進力となった [7]。そういう意味で、風船爆弾の実現における気象学者荒川秀俊の役割は極めて大きかったといえる。

さらに仙台、新潟、輪島、米子、福岡、潮岬、伊豆大島の7つのラジオゾンデ観測点から、1942年から1944年にかけての高層大気の気象観測データが収集されて研究された。また地上気象観測から気圧の水平勾配が求められ、それから広域での高度10kmでの風の速さが地衡風を用いて推定された。この計算から、気球の飛行コース、速度、拡散を類推し、最適な打ち上げ位置を決定した。気球が太平洋を横断するのに要する時間は、30時間から100時間で、平均60時間と推定された [1]。

日本上空の高度約10kmで強い西風が安定して吹くのは11月頃から4月頃までである。この時期は圏界面(成層圏と対流圏の境)が高度9km程度まで低下する。アメリカが乾期となる夏季(5月以降)は、亜熱帯ジェットの位置が変わりやすくなる。梅雨が明けると、亜熱帯ジェットは日本を越えて北上して圏界面が高度15km以上に上昇し、日本は背の高い太平洋高気圧に覆われる。そのため、夏季は風船爆弾の飛行が計画されていた高度10km付近では強い西風は吹かない。

アメリカの乾期は春から秋にかけてなので、もし森林火災を風船爆弾の目的にするならば、夏季が好ましい。そのため、森林火災を風船爆弾の主目的にするのは気象学的に困難があったと思われる。実際に、意見を求められた当時の山林火災の権威九州大学教授鈴木清太郎博士は、11月では遅いと指摘したが、風船爆弾の到達の確実性を優先したため、攻撃は11月から開始されることになった [8]。

上図は典型的な気球の飛行経路、下図は冬季の典型的なジェット気流の様子。[1]を和訳。なお、上図で最後は時限発火装置による爆破となっているが、 [9]では時計は量産が間に合わず、大半の風船爆弾は時計を持って行かなかったとあるので、計画はあったものの実際には気圧スイッチで爆破したと考えられる。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.

2022年10月21日金曜日

風船爆弾(1)

 1. 概略と戦前の構想

1944年11月から翌年4月まで、日本はこんにゃく糊で和紙を貼り合わせた大型の気球に爆弾をつけて発射し、上空のジェット気流に乗せてアメリカ大陸を攻撃した。これは「ふ」号兵器(通称風船爆弾)と呼ばれた。およそ9000個が発射され、約280個(3%)がアメリカに到達したと考えられている。アメリカはこれに関する報道を自主規制したため、当時の日本ではその効果はあまりわからなかった。しかし、1945年5月にオレゴン州でピクニックに来ていた6名が、木に引っかかった気球を下ろそうとして、それに付いていた爆弾が爆発して死亡した。これはアメリカ国民に注意を喚起するために広く報道された。

風船爆弾が搭載していた爆弾は35kg程度で、その威力はたかがしれていた。しかし、この爆発でもし西海岸の森林地帯で森林火災が広がったら、その影響は極めて大きくなる可能性があった。さらに重要なことは、もしこの空からのいつどこで行われるかわからない攻撃がアメリカの一般国民に知られたら、アメリカ人の戦争継続への意欲に衝撃を与えたかもしれないことだった。もしそうなれば、他の潜在的な物質的被害よりも影響は大きいため、風船爆弾の攻撃目的の一つとされた。

風船爆弾は気象を利用したためそれに依存した面があったが、大陸をまたいで目標を攻撃する人類初の兵器ともいえた。また日本にとっても風船爆弾の製造は、紙漉きや紙の貼り合わせを含むその製造におそらく数万人の一般国民を巻き込んだため、極秘ではあったが他の多種の分散した兵器の製造と異なって、国民的なプロジェクトだったともいえる。戦後に関係者による数多くの証言が出ている。

戦後、これはこんにゃく爆弾とも揶揄されたが、その評価はさまざまである。アメリカの報告書にはこの攻撃について次のように書かれている [1]。

歴史家は人類最古の飛行物を使ったこの作戦を、アメリカへの報復のための哀れな最後の努力と見なす傾向がある。しかし、これは軍事的概念における重要な発展であり、陸上や潜水艦から発射される今日の大陸間弾道ミサイルに先行するものであった。

日本の風船爆弾(「ふ」号兵器)。[1]より 

ここでは、「ふ」号兵器(風船爆弾)について、その根本的な原理を担った気象を含めて詳しく見てみる。なお、「ふ」号兵器の「ふ」は秘匿のために風船の頭文字をとったものとされている [2]。ここでは「ふ」号兵器と風船爆弾という両方の名称を用いている。なお私には、なぜ気球爆弾ではなく「風船」爆弾という名称なのか?という疑問がある。この表現が揶揄なのか、自嘲なのか、純粋に秘匿のためなのか量りかねている。

歴史を遡ると、1933年に陸軍科学研究所の多田礼吉中将が、新しい戦争兵器を調査・開発する「空中輸送研究開発計画案」の責任者に任命され、いくつかの新しい兵器の開発を行っていた。後に陸軍登戸研究所で風船爆弾の責任者となる草場季喜(くさばすえき)中佐は気球を用いた兵器を提案した。それは満州東部から発射して宣伝ビラを撒いてウラジオストクを攪乱することが目的だった [3]。

一方でアメリカ側の資料(おそらく戦後に日本で聞き取ったか、日本の資料を参考にしたと思われる)では、「1933年頃、直径4メートルの小型の定高度気球に爆薬を搭載し、風で爆弾を敵の陣地まで約100km運び、時限信管でそれを投下するものが研究されていた」と書かれている [1]。それを用いれば、第一次世界大戦でドイツ軍がパリに対して使用した長射程砲と近い精度のものが得られると期待された。

しかし、このプロジェクトは1935年に中断された。しかし、気球を使ったこの「ふ」号兵器のアイデアは完全に中止されることはなく、その名称を含めて何らかの形で研究が継続されたようである。爆弾だけでなく、夜間に敵陣に歩兵を隠密に運ぶための気球も検討された [1]。

なお、陸軍科学研究所は1937年12月に登戸実験場を設けて、その実験場長には草場季喜中佐が任命された。登戸実験場は1939年9月に登戸出張所として拡張され、篠田鐐少将が所長となった。さらに陸軍科学研究所が1941年6月15日に第一から第九までの陸軍技術研究所となった際に、登戸出張所は第九陸軍技術研究所となった。しかし、他にもさまざまな秘密兵器を担当していたためその存在は公にされず、通称で登戸研究所と呼ばれたようである。この登戸研究所が引き続き気球を使った兵器の開発を担当した [4]。それが最終的に風船爆弾となった。ここでは、登戸研究所と記すが、軍の組織であることを明確にしたい場合は第九陸軍技術研究所を使っている。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. MikeshC.Robert. 出版地不明 : Smithsonian Institution Press, 1973, Smithsonian Annals of Flight, Number 9.
2. 大本営陸軍部〈9〉. 防衛庁防衛研修所戦史部. 朝雲新聞社, 1975.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.




2022年8月30日火曜日

シャピロ・カイザー低気圧モデル

前線のその後」と「前線を伴った低気圧モデルの100周年」で、シャピロ・カイザー低気圧モデルに触れた。これは現在の低気圧モデルの主流なので、もう少し詳しく説明しておきたい。

近年、天気予報番組での前線の扱いは昔より減っているようである。雨に関しては、降水量の分布予測(降水短時間予報が出るので、それを見れば天気図を見ずともいつどこで雨が降りそうかがわかる。前線はその際に、どうしてそこで雨が降るのかの解説に使われる位ではないだろうか。停滞前線の場合は大雨の予測に用いられることがある。しかしそれも、近年は線状降水帯という表現に取って代わられつつあるかもしれない。風に関しても動画化されており、気温の予測やその解説などもそういった動画の方が使われているようである。

このように以前と比べると、低気圧モデルそのものは天気予報にはあまり使われなくなっているかもしれない。しかし総観気象学においては、低気圧モデルはいつ、どこで、どうして発達するのか(そのためにどこで悪天候になるのか)を理解するのにまだ重要である。

1920年前後にヤコブ・ビヤクネスやベルシェロンなどのベルゲン学派が、温暖前線と寒冷前線を伴った低気圧構造の概念を、密な地上観測と限られた高層気象観測を用いて生み出した。それは、いつどこでどのような天候の変化が起こりそうかの重要な革新的なガイドラインとなった。しかし、その後高層気象観測網や衛星観測の充実により、その構造が実際の観測と合わない部分も出てきた。また、低気圧の構造は一つ一つすべて異なっている。どれが普遍的でどれが個別的なのかの判断には多くのケースの積み重ねが必要となる。

典型的なベルゲン学派低気圧モデル。Iが低気圧の初期、IIとIIIが寒冷前線が温暖前線に追いつこうとする発達期、IVが追いついた後の閉塞期となる。

1987年にアラスカで、1988-1989年に大西洋で、アメリカとカナダにより発達する低気圧について、航空機や海洋ブイ、衛星などを用いて集中的な観測が行われた。その結果から、1990年にシャピロとカイザーは、新しい低気圧モデルを提示した。それがシャピロ・カイザー低気圧モデルとなった。

シャピロ・カイザー低気圧モデルの模式図。Iは低気圧の初期。IIの赤丸内は前線断裂。IIIの赤丸内は後屈前線。前線の形はTボーン型になっている。IVは成熟期で、中心付近の赤丸内は隔離された暖気核を示す。灰色は雲域。

シャピロ・カイザー低気圧モデルを少し詳しく説明すると、その特徴は、初期の前線断裂(frontal fracture)、発達期の後屈前線(bent-back front)と前線のTボーン型(frontal T-bone)、成熟期の暖気核の隔離(seclusion)からなる。

前線断裂(frontal fracture)は、低気圧中心より南で起こる寒冷前線の収縮による温暖前線と寒冷前線の分離である。この時点では寒冷前線は低気圧の中心に近い場所で温暖前線と交わるように見える。前線断裂は寒冷前線の北側(寒冷前線が温暖前線と交わっている部分)で寒冷前線が弱まって、前線が切れたようになる。IIの赤枠内。

後屈前線(bent-back front)とは低気圧中心付近より発して西側に延びた前線である。IIIの赤枠内。後述するように、これは一時期、二次寒冷前線と考えられたこともあった。また、この前線によっても閉塞が起こると考えられたこともあった。

前線のTボーン型(frontal T-bone)は、伸びた温暖前線の中央部付近に寒冷前線の北端がつながってT字型をなす。Tボーンとは、ステーキでの骨付き肉の骨がT字型となるカット法の一つである。前線の形(とそれに伴う雲の形)がそれに似ているため、そう呼ばれている。

暖気核の隔離(warm-core seclusion)は、低気圧中心付近に巻き込まれた西端の後屈前線が、最終的に低気圧の中心部の空気塊を包み込む。その結果、比較的温度の高い空気塊の核が隔離される。これが暖気核の隔離である。IVの赤枠内。この隔離された空気塊は、温暖前線前部の暖気よりも冷たいが、寒冷前線後方の空気塊よりも暖かいものとなる。この隔離された空気塊は地上と接しており閉塞ではない。

これらの実例は「前線を伴った低気圧モデルの100周年」の衛星画像で示したとおりである。

実は、これらの特徴は前線のTボーン型を除いて何らかの形でベルゲン学派やそれ以降の研究者たちも気づいていた[1]。これらの特徴は、当時の限られた観測と議論の中で、典型的な低気圧の特徴からは外されていったようである。例えば本書「9-2-5前線の閉塞と低気圧の一生」で述べているように、ベルゲン学派も最初は「隔離」という概念を用いていたが、その後「閉塞」という考え方の方が主流となった。

シャピロたちも、自分たちが提示した低気圧の特徴が以前から取り上げられてきていることを認識していた。シャピロ・カイザー低気圧モデルは、以前から断片的に取り上げられていたこれらの特徴をきちんとデータと解析から証拠立てて、普遍化したものである。

上述したように、シャピロとカイザーが新しい低気圧モデルを提示したのは1990年であるが、日本の高薮出氏が1986年にコンピュータシミュレーションでシャピロ・カイザー低気圧モデルに近い低気圧の構造を再現していた[2]。この低気圧シミュレーションでは、そういう用語を用いてはいないものの、後屈前線などの特徴を既に明確に示していた[1]。

なお、低気圧と前線については、小倉義光著の「日本の天気」(東京大学出版会)の第4章と第5章にわかりやすい解説がある。少し専門的になるが北畠尚子著による「総観気象学 基礎編」の「5.3 温帯低気圧・前線の概念モデル」[3]にも解説がある。こちらは気象庁のホームページからダウンロードできる(参照文献にURLを挙げる)。


参照文献

[1]David M. Schultz and Daniel Keyser, 2021: Antecedents for the Shapiro.Keyser Cyclone Model in the Bergen School Literature, Bulletin of the American Meteorological Society, FEBRUARY 2021, https://doi.org/10.1175/BAMS-D-20-0078.1

[2]Takayabu, I., 1986: Roles of the horizontal advection on the formation of surface fronts and on the occlusion of a cyclone developing in the baroclinic westerly jet. J. Meteor. Soc. Japan, 64, 329.345, https://doi.org/10.2151/jmsj1965.64.3_329.

[3] 北畠尚子(気象庁監修), 2019:「総観気象学 基礎編」https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/expert/pdf/textbook_synop_basic_20210831.pdf


2022年8月19日金曜日

大規模核戦争の場合の影響 その2 最近の成果

このブログの 「大規模核戦争の場合の影響」において、核戦争の恐ろしさを説いた。その際に、「1980年代以降、核戦争による影響の包括的な研究はあまり聞かないので、近年はそのような研究はあまり行われていないのかもしれない。」と書いた。しかし、実は近年もさまざまな研究が行われていた。2020年に、別な研究でインドとパキスタンの地域的な紛争で核が使用されたら、という比較的限定的な核戦争のシミュレーションが行われた。それでも世界的な作物不足に陥る可能性が示された。

今回、2022年8月15日にNature Food誌に「Global food insecurity and famine from reduced crop, marine fishery and livestock production due to climate disruption from nuclear war soot injection(核戦争の煤煙注入による気候変動のために起こる作物、海洋漁業、家畜の生産減少による世界の食糧難と飢饉)」と題する論文が掲載された。

いくつかの核戦争のシナリオの元で、大量の排出された煤の煙によって気候がどう変わり、それによって穀物や漁業の生産がどうなるかをシミュレーションしたものである。核戦争のシナリオは核爆発が100発から4400発の場合にまでわたっている。もし1発でも核攻撃が使われると、たがが外れた状態になって、このような核攻撃の応酬にならないとも限らない。

最小の100発の爆発シナリオでも、直接的な死者は2700万人で、2年間で2億5000万人以上が飢饉に直面すると試算している。もちろん、飢饉に直面するのは発展途上国の人々だけとは限らない。ほとんどすべての国で、大量の食糧不足につながり、畜産と水産物生産は、減少した作物生産量を補うことができないことを実証しているとしている。4400発の爆発の方は人類にとって論外の結果となっている。

こうした試算には不確定な要因も多く、まだ改善の余地がある。また、これは爆発の際に発生した煤が成層圏へ上がって日射への影響を考慮した場合となっている。しかし、オゾンや紫外線への影響への収穫への反映はまだ限定的である可能性があるし、放射能の人体への直接的な影響は考慮されていないようである。それでも、最新の気候モデルに作物モデル、漁業モデルを組み合わせたこの試算結果は、食料供給に対する最新の科学といえる。

こういった試算に基づいて、仮説的な飢饉と戦う方法を探るように提案しているものもある。海藻を安定した食料にしたり、バクテリアを使って天然ガスをタンパク質に変える研究も行われているそうである。しかし、私にはこういった技術で飢饉が劇的に改善するとは思えない。現在の暮らしは決して保証されているというわけではないことを心に留めておく必要がある。

これまで核戦争になる危機が3回あったと言われている。一つ目は1962年のキューバ危機で、二つ目はソ連がNATO軍事演習を本当の攻撃と間違えた1983年のエイブル・アーチャー事件、そして三つ目は、今回のロシアによるウクライナ侵攻である。大規模核戦争の場合の影響」でも述べたように、核戦争に勝者はいない。核戦争にならないように、世界のリーダーたちに対して世界の一人一人が強く運動していくしかないと思う。

エメリー核実験の際の爆発の様子
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Operation_Emery_-_Baneberry.jpg/385px-Operation_Emery_-_Baneberry.jpg