2022年10月22日土曜日

風船爆弾(2)

 2 風船爆弾の発案

2.1 風船爆弾の目的

1942年4月のドーリットル空襲による日本本土への不意打ちを受けて、アメリカ大陸に対する報復攻撃が検討された。その候補として「ふ」号兵器の重要性が高まった。1943年4月に川崎市登戸の第九陸軍技術研究所(登戸研究所)に、東京工業大学学長の八木秀次、中央気象台長の藤原咲平、東京帝大工学部教授の佐々木達治郎、同じく真島正市を最高顧問として、アメリカ大陸を直接攻撃するための気球兵器の研究開発プロジェクトが本格的に開始された。これは「ふ」号作戦と称された [3]。

しかし、気球はアメリカまでおよそ8000kmの太平洋上を横断しなければならない。そのためには気球は直径10 mの大型となり、気球本体の重さも含めて200kg 位になる。高度維持のためなどなどさまざまな装置を積まなくてはならないので、最終的に積める爆弾の重さは30kg 位になる。さらに風まかせで飛行する気球のため、攻撃場所をアメリカのどことピンポイントで狙うことはできない。30kg程度の爆弾(実際には15kgの爆弾1個と5kgの焼夷弾4個)では、アメリカの産業や軍事施設に大きな損害を与えることは困難だった。

この攻撃の効果は、むしろいつどこに爆弾が落ちてくるかわからないという心理的恐怖による厭戦気分をアメリカ国民に与えることが考えられた。また乾季に焼夷弾を広範囲にばら撒けば、太平洋岸の広大な森林に火災を発生させることも考えられた。これは、アメリカ人に恐怖と混乱を与える一種の謀略兵器だった。

2.2 気象の研究

本書の「9-4-1 日本の高層気象観測」で経緯を述べているように、日本では1920年に高層気象台が設立された。そしてその高層気象台が上げた気球観測の結果、「9-4-2 高層気象台でのジェット気流の発見」で述べているように、1924年12月2日に高度10kmより少し低い高度で風速72m(時速260km)という強い西風を観測した。その後、このような強い西風はまれな現象ではないことが確認された。これは今日でいうジェット気流の発見だった(ジェット気流の呼称が定着するのは第二次世界大戦後である)。当時の高層気象台長の大石和三郎は、この結果を論文にして世界に発表したが、この論文がエスペラント語で書かれていたためか、日本以外ではほとんど関心を引かなかった。

ちなみに欧米でも高度10km前後の高高度で強い西風があることは、本書の「9-4-2」で述べているように、第一次世界大戦中に気球観測に携わっていたアメリカの物理学者ミリカンが気づいていた(ミリカンは後に電荷の発見でノーベル物理学賞を受ける)。しかし、彼はそれを例外的なまれな現象と考えており、冬季にほぼ常時吹いていることには気づいていなかった。欧米でこの概念が変わるのは、本書の同じところで述べているように、第二次世界大戦中に高高度を飛ぶようになった爆撃機が、強い西風にしばしば遭遇してからである。ヨーロッパでは向かい風のため途中で燃料がなくなって不時着したり、太平洋では強風により爆撃のための正確な照準が出来なくなったりしたことがあった。

中央気象台の気象学者だった荒川秀俊(1907-1984)は、戦時中の1942年秋にラバウルに派遣されたが、そこでアメリカ軍の激しい空襲に遭った。その際にこの空襲に報復できる何か手段はないかと考え、気球に爆弾を搭載して強い西風を利用したアメリカへの直接攻撃を思いついた。そして、このアイデアを同年11月に日本へ戻った際に中央気象台に申し出た [5]。1943年に中央気象台は、風船爆弾のアイデアを海軍にもちこみ、これが海軍の風船爆弾の計画となったとも言われている [3]。荒川は1943年夏に風船爆弾のアイデアを温め、次のような調査研究を行った [6]。

1)風船爆弾が飛行する高度はどの位が適当なのか?

2)風船爆弾を用いる季節はいつが適当なのか?

3)日本で発射してからアメリカ大陸上空に到達する迄の所要時間はどのくらいで、その到達確率はどのくらいなのか?

4)風船のたどる全行程の流線の変動の具合、つまり風船の拡散の程度はどの程度か?

5)実際に発射するにあたり気象学上、発射に適するかどうかを判断する手がかりはあるか?

一方で、陸軍登戸研究所(第九陸軍技術研究所)は、それまで研究していた「ふ」号兵器に気象の知識が不可欠であるため、それについて中央気象台に助言を求めた。そこで両者の思惑が合致したようである。荒川秀俊は登戸研究所の「ふ」号兵器の研究嘱託者の一人となった。

当時、アジア大陸から日本上空を通過する風については、かなり正確なデータがあったが、太平洋上空の風は未知だった。彼はアメリカ水路局が発行する北太平洋航路天気図(Pilot Charts of the North Pacific Ocean)の海抜高度での月平均の気圧分布と気温分布から、気象学を利用して気球が流されると思われる太平洋上空の気流の推定図表を作製した [6]。これは月平均値なので大まかな気流がわかるだけであった。

さらに、アメリカ大陸上空に到達するまでに要する所要時間や全行程にわたる流線の変動を知るために、彼は神戸海洋気象台の北太平洋天気図などを用いて、今度は1940年の冬季の毎日の高層気流図を作成した。これをもとに気球を発射した際の想定流跡線図を作成すると、約2~3日で米大陸の西海岸に確実に達すると考えられた。また天気図のパターンや発射場所によっては、気球がソ連領をかすめたり、拡散の度合いが大きくなることもわかった。それらをもとに、気球の発射時期、場所、拡散程度、到達に要する日時などを判断する資料が作成された [6]。

これらは、かなりの推定を入れて作られたものだったが、当時において頼りとする唯一の資料であり、この資料がこの兵器の促進の大きい推進力となった [7]。そういう意味で、風船爆弾の実現における気象学者荒川秀俊の役割は極めて大きかったといえる。

さらに仙台、新潟、輪島、米子、福岡、潮岬、伊豆大島の7つのラジオゾンデ観測点から、1942年から1944年にかけての高層大気の気象観測データが収集されて研究された。また地上気象観測から気圧の水平勾配が求められ、それから広域での高度10kmでの風の速さが地衡風を用いて推定された。この計算から、気球の飛行コース、速度、拡散を類推し、最適な打ち上げ位置を決定した。気球が太平洋を横断するのに要する時間は、30時間から100時間で、平均60時間と推定された [1]。

日本上空の高度約10kmで強い西風が安定して吹くのは11月頃から4月頃までである。この時期は圏界面(成層圏と対流圏の境)が高度9km程度まで低下する。アメリカが乾期となる夏季(5月以降)は、亜熱帯ジェットの位置が変わりやすくなる。梅雨が明けると、亜熱帯ジェットは日本を越えて北上して圏界面が高度15km以上に上昇し、日本は背の高い太平洋高気圧に覆われる。そのため、夏季は風船爆弾の飛行が計画されていた高度10km付近では強い西風は吹かない。

アメリカの乾期は春から秋にかけてなので、もし森林火災を風船爆弾の目的にするならば、夏季が好ましい。そのため、森林火災を風船爆弾の主目的にするのは気象学的に困難があったと思われる。実際に、意見を求められた当時の山林火災の権威九州大学教授鈴木清太郎博士は、11月では遅いと指摘したが、風船爆弾の到達の確実性を優先したため、攻撃は11月から開始されることになった [8]。

上図は典型的な気球の飛行経路、下図は冬季の典型的なジェット気流の様子。[1]を和訳。なお、上図で最後は時限発火装置による爆破となっているが、 [9]では時計は量産が間に合わず、大半の風船爆弾は時計を持って行かなかったとあるので、計画はあったものの実際には気圧スイッチで爆破したと考えられる。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.

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